第11話その11.

 流れる雲のように違和感なく出てきた音の意味がわからず、脳内で何度も繰り返した。


――心置きなく死ねる。

 やっと言葉の意味を理解した時、自分の、愚かで、自己陶酔に溢れたお節介に激怒した。

 今まで「自分優しい」を嫌ってきたのはいったい誰なのだと、自分を殴り飛ばしてやりたい。


 額に汗がにじみむ。手の平もどんどん湿ってきて、拳を握る感触が気持ち悪い。そしてなにより、心臓のリズムがテンポを上げている。

 布野をみても、僕の期待とは裏腹に、喜劇を読んだ時の顔をしてはいなかった。


「なんだよ、死ねるって。今から死ぬみたいに」

「なんだもなにも、今から死ぬんだよ。擬似的にだけど、空は飛べたことだし。私の人生の目標は、達されたわけだ」


「ちょっとコンビニ行ってくる」くらいの軽いノリで、自分の生命を絶とうとしている。僕は、布野を殺したかったわけではないのに。


「前に言ってた、『生きてる意味』だとか『人生掛けてる』ってのも」

「嘘じゃないって。あたしの生きてる意味は空にあって、空を飛ぶことに人生かけてた」


 もっと注意深く、布野の話を聞くべきだった。布野のいつもの軽口だなんて、受け流してしまった自分を過去に戻って怒鳴りつけてやりたい。


「どうして、死ぬなんて」

 せめて話をしよう。一分一秒でも時間を稼いで、布野の自殺を止める理由を作るんだ。


「洵矢と一緒だよ。家庭環境が悪くて、無力な私じゃどうしようもなくて。それが辛かった。弱いよね、考え方が」


 星空のテントを出て、現実へと帰っていく布野を僕は慌てて追いかけた。その足取りがいつもと全然変わらないことが、さらに心臓のテンポを上げていく。足取りの変わらないことが、布野の決意を暴力的に理解させた。

 遅れて出ても、布野はまだそこに居た。よかった。飛び降りた後だったら、僕にはもう、どうしようもない。


「でも、親の離婚くらいでそんな、死ぬなんて……」

 くるりとその場で半回転。こちらをむいた表情は、青春漫画を読み終えた後の、少しさみしそうな顔と同じだった。

「離婚くらい? 嫌だな洵矢。洵矢だって知っているはずだよ。死んだわけでもない家族が、突然消えてしまう辛さを」


 何も言えない。紛れも無い真実だ。僕が逃げているように、布野も逃げようとしている。それも、もっと遠い所へ。

 今現在も逃げ続けている僕に、どんな言葉をかける資格があるだろうか。


「昔から家族仲が悪いだとか、産まれた時から両親の片方が居ないとかなら、まだ良かったかもしれない。でも、そうじゃないんだよ」

 布野が梯子を降りて行き、降りたところで立ち止まった。僕も同じ様に降りていき、布野の隣に並ぶ。走って行かないように、布野から視線は離さない。


「ほんの一年くらい前まで、すごい仲良しだったんだ。父さんと母さんはラブラブで、見てるこっちが恥ずかしいくらい。恥ずかしいけど、それを見ているのが好きだった」

 昔を思い出したのか、恋愛漫画を読んだ時のような、甘い表情が混じる。けれど、それも一瞬のことだった。


「びっくりしたね。コインが勝手にひっくり返った。本当に突然だった。洵矢みたいに、前情報なんて何にもない。気がついたら、お母さんが居た場所にぽっかりと穴が空いてた」


 僕は知っている。突如出来た溝は、止められないスピードで大きくなって、手がつけられなくなるまで時間はかからない。

 穴の開いた堤防から出た水が、その勢いでさらに穴を広げるように。そして最後には、決壊する。


 布野の言っていることを、否定は出来なかった。むしろ理解し、共感できた。

 どんどん悪くなる空気を変える術を、幼い僕たちは持っていなかった。そしてこの歳になっても、あの時どうすればよかったのかの答えは、見つけ出せないでいる。


 醜い空気が、家の中に充満していく感触。がむしゃらにどうにかしようとするけれど、子供の小さな手で起こす微風では、とても払うことなんて出来ない。

 昨日まで仲の良かった家族が、大きな歯でぐしゃぐしゃと噛み砕かれる。その音が聞こえてくる時もあった。歯が閉じられるたびに、醜い空気と混ざりながら擦り切れていく。


 どうあがこうが、最後に突きつけられる現実は「親の意志に従うしか無い。育ててもらっているのだから」

 大人に言われると、吐き気がした。言われている意味はわかるし、仕方がないとも思う。

 けれど、納得はできない。必然的に、僕たちは逃避することを選んだ。そうする意外、分からなかった。


「親の離婚なんて、ありふれたことだよ。今時珍しいことじゃない」

 布野が呟き落とす。今のセリフが二つ重なって聞こえたのは、現在の布野の分と、過去の僕の分だろう。今日まで言い聞かせることで僕は、そして布野は、自分自身の形をなんとか留めてきた。けれどもう、限界だ。


 布野は、足元にあった小石を蹴り上げた。小石は空高く飛び、校舎の下へと落ちていく。

「みんなすごいよね、こんなショックな事があったのに、生きていようなんて思えるんだから。わたしには、難しいな」


 青春漫画を読んだ後の表情は、悲劇を読んだ後の、消化しきれない悲しみを持った表情になっていた。

「みんなの揃わない家なんていらない。こんな想いしたくない。

家族揃って仲良くご飯を食べてたのに、家族揃って同じ食卓を囲むことはもうない。同じおかずをたべて、同じ話題で笑うこともない。


「これがおいしいね」「そういえばこんなことがあってね」そんな会話が当たり前だったのに、もうそれもない。

 今日だけじゃないんだよ。期間限定じゃないんだよ。もう二度と、永遠にないんだよ。みんなまだ元気で、生きてるのに。そんなの、耐えられない」


 ただのわがままだ。わかっている。わかってはいるのだ。無理して一緒にいて、険悪な空気の家にいるよりもずっと幸せだろう。

 そんなことは、理性的な部分がとうの昔に理解した。けれど、心がそれを認めるには、僕らはまだ子供過ぎた。


 生まれてから、ずっと側にあったあの優しい世界が拠り所だった。悲しいことが一粒もないなんてことはなくとも、山ほどの幸せが、平穏が確実にあった。両親にとっては、他人からのスタートだったのかもしれない。けれど、そうじゃない僕達には、とても耐え難いものだ。


 僕たち子供の存在が間に入って、両親の血を繋いでいる。そんなイメージだった。そういて、家族は出来ているのだと思っていた。なのに、僕らの繋がりは凧糸を鋏で切るようにあっさりと切れた。切られた。


「死にたいと思った。いらないと思った。でも、悔しいじゃない。ただ死ぬだけって。

だから逃げ道と、死ぬ理由を作った。それが空。どうせ死ぬなら、あの大きな空に包まれてから死のうって思ったの」

 布野の歯ぎしりの音が聞こえる。その音に呼応するかのように、僕は無意識的に拳の握りを強くした。


「こんなにも絶望したんだから、せめて最期くらい、昔ほどの幸せを感じたかった。きっと、なにもない純粋な空に抱かれたら、幸せだろうなって。

 家族と同じように、変わりながらもずっと一緒にいてくれる空ならいいやって。それがやっと、今日叶ったから、満足なんだ。ありがとね洵矢」


 布野の眼から、涙がこぼれる。布野は、笑いながら、泣いた。

 暴風雨のごとく暴力的で、山の天気の様に急激な変化する周囲。

 今まで涙は、こぼれ落ちるタイミングを逃した。


 その後も涙は、一度ぬかるんで固まった感情という堤防に、長く遮られてきた。やっと素直に流れることが許された時には、たとえ誰が涙に気付こうとすべて手遅れで、すべてが終わった後だった。


 僕は、握りしめ続けて震えた拳を開く。


「わかった。じゃあ、死のう」

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