第10話その10.

 次の週の水曜日。今日の僕は、登校してから一度も絵を描いていない。屋上を見つけて以来、こんな日は初めてだ。


 布野は水曜日、絶対に四時間目が終わった後の昼休みからしか姿を見せない。布野のクラスが朝から体育で、そのあと教室で寝ているからだ。


 昼休みまでに間に合わせないといけなかった。

 わざと遅刻をして時間をずらし、裏門から、学校へ入る。人通りの少ない階段を選んで、なんとか誰にも見つからず屋上へとたどり着いた。


 見つかったところで「美術部で使うから」という言い訳は出来るだろうけれど、面倒ごとはなるべく避けたい。


 今日の空は、久しぶりに曇っていた。色濃く、分厚く空を覆った雲は、太陽の光を遮って大きな影を作っている。今日のこの空は、僕にとってとても好都合だ。


 大急ぎで、全てのセットを終わらせた。午前中の授業を全部潰した甲斐がある。我ながら、大した出来だ。問題は、一時間目にあった英語の成績が、あまりよろしくないことくらいか。


「おーっす」

 ベストタイミングで、布野が屋上へと出てきた。梯子を登ってくる小さな時の間すら待ち遠しい。


 人を待ってそわそわするのは、いつぶりだろう。小さなときに見た、戦隊ヒーローショー。その時の、ヒーローの登場を待っていたとき以来だろうか。


 布野が梯子から顔を出すと、登りきる前にそこで数秒停止した。思い出したようにきちんと上り終えると、大きなため息を一つ吐き捨てた。


「なにこれ。ほんとに、なにこれ」


 今日の屋上には、小さなタープがある。一人用の、三方向が覆われていて三角形。骨組みの必要ない、ワンタッチタイプのものだ。そのタープを、美術室から持ってきた暗幕で上から覆っている。


 狭い給水塔前は、そのタープでほぼ埋め尽くされていた。通常では考えられないものだ。布野が硬直してしまうのもわかる。


「なに、今日はここでキャンプでもするの」

「これで寝泊まりは、無理があるだろ」

 僕の小さなボケに対して、布野は僕の肩に向かってグーを投げて寄越した。


「空飛ばしてやるって約束。叶えようと思って」

「あれ、マジだったんだ」


 場違いな小さなタープ。そこにあるべきではないもの。普段の、僕たちのようだった。

 そこにあると、違和感がある。でも、そこにあるのにも理由があって、その中には色んな物を貯めこんでいる。


「いいから、入れよ」

 入り口を覆っている暗幕をめくり、布野を促す。流石にタープは目立つ。見つかる前に済ませなければ。


 渋々といった表情で、布野は上履きを脱ぐと、かがんで入り口をくぐった。


 中に入った布野は、真ん中程で止まる。震えも、瞬きも、呼吸もすべて。

「すごい。……空だ」


 タープの中には、いっぱいの空があった。今日まで、ずっと描いてきた空。


 ここから見える藍色や、いつもの緑地公園で描いた露草色。家の近所の公園で見た瑠璃色。僕の部屋の窓から見える空色。


 あの日、小さな子どもたちに貰った空も、一部に含まれている。いろんな空が集まって、小さな電球に照らされて一つの大空を作っていた。


 今日まで、僕が僕を込めてきた空たちだ。この中に、僕の時間と世界がある。間違いなく、そこにあった空との時間が。世界が。


 僕達の頭上にあり続ける空は、今日この時のために、たくさんの色で僕を魅了し続けてくれたのかもしれない。 そのことに感謝しつつ、たくさんの空を描いてきた自分を褒めてあげたくなった。自分で自分を褒めたくなったのなんて、いつぶりのことだろうか。


 どこを見ても空。足元にまで空を敷いて、自分でも、本当に空を飛んでいる気がした。


「すごい、本当に飛んでるみたい」

 布野は目をぱちくりさせると、その場で小さくジャンプしてみせた。

 小さなタープのはずなのに、中はもっと広いような錯覚を起こした。我ながら良い出来だ。でも、これで終わりではない。


「夜の空だって飛びたいだろ。ちょっと下がってくれ」

 布野を一歩下がらせると、足元で光る電球の明かりを消す。すると、今日の分厚い雲のおかげで、テントの中は真夜中かと思うほど真っ暗になった。


「いくぞ」

 鞄から懐中電灯のようなもの取り出して、明かりを付けた。


 先ほどまで青空だったそこは、一瞬にしてたくさんの小さな光が点々と輝く、星の海となった。布野から「わあ」と、ほとんどため息で出来た感嘆の声があがる。


「発行塗料で、空の絵の上から点を付けたんだ。ブラックライトで照らすとよく光るだろ。

どっちもネットで安く買えるし、いいかと思って。天体は詳しくないから、星の位置は正確じゃないけどな」


 説明を聞いているのかいないのか、布野はずっと上を見ていた。小さな子どもみたいな眼の輝きをして。

 満足そうな布野の姿は、この作戦が成功したことを意味していた。布野に見えないところで、小さなガッツポーズを作る。


 自分でも、誰かを喜ばせる事ができる。そう実感できたことが、何よりも嬉しかった。僕は無能じゃない。母さんの横暴に指を咥えるだけの。父さんの気遣いに、甘えるだけの。


 僕には僕の役割がる。あの時うまく立ち回れなかった僕にも、殻にこもり続けてきた空にも、役割がある。それが今日、証明された気がした。


「すごい洵矢。今度は夜空だ」

 こちらをむいた布野の瞳は、ライトに照らされているからかキラキラと光っていて、その瞳の中にも小さな星が瞬いている。

 その星の正体は、布野の涙の粒だった。


「なにも泣く事ないだろ」

「嬉しいんだよ。ずっと飛ぶのを夢見てきて、それだけが生きる目標で、今日やっと空を飛べた」


 布野はその場でしゃがみこむ。

「これで、私の目標は達成されたんだって思うと涙だって出るさ」


 布野は、手で顔を覆ったまますっと立ち上がると、涙を制服の袖で乱暴に拭ってこちらをまっすぐに見た。


「ありがとう洵矢。これで、心置きなく死ねる」

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