第9話その9.
「なに。顔に何かついてる」
じっと見ているのを布野に気付かれてしまった。布野は眉間に皺を寄せながら、右頬を手で荒く拭った。手が離れた後が、薄赤くなっている。
とくにまずいことをしていた訳ではないけれど、なにか言い訳をしなければいけない気になる。
「空の欠片を食べ始めたきっかけってなんだろうなって思って。そもそも、初めて取った時怖くなかったのか」
力無くふわふわとしているように見えても、得体のしれない以上やはり怖い。それが人間の性質だ。歴史が、神話や伝承の数多くが証明している。
「私はね、空が飛びたいの」
一度本を置いて、布野はまっすぐに空を仰ぎ見た。同じ様に、僕も一度色鉛筆を置いて空を見る。
雲ひとつ無い空は、どこまで昇っても空なのかと思うほどに澄んでいて、確かに飛んでみたくなった。だからと言って、食べはしないが。
「中学二年の時くらいかな。空を飛びたくなったの。それはもう猛烈に。こんなにも空が飛びたいと思ったの、人類で私が初めてじゃないかな。そしたら、ある日突然空が掴めるようになったってわけ」
「それで飛べるなら、僕だって掴めるさ」
冗談めかして言うと、布野も笑いながらこちらを向いた。
けれど布野の雰囲気は、僕の持つ色鉛筆の先程も冗談を含んでいない。少し、怒りさえ見える。その目に、僕の背中はぴしりと緊張した。
「並じゃないよ。私の空を求める気持ちは」
声音だけを軽くして話すと、また空へと手を伸ばした。今日は頻度が多い気がする。空がこんなにも、青いからだろうか。
「羽みたいな形してるでしょ。これ見たら、翼が生えないかなって思って。自分の中に取り込んだら空に近づくんじゃないかなって。そう思ったら食べてた」
「すごく、ぶっ飛んだ発想ですね」
表情に照れを混ぜた布野。それに対して、苦笑いが自然と出た。食べるは流石にないだろうと思う。
「自分の中に取り入れるって思ったら、食べるのが一番じゃない」
「流石に、簡単に考え過ぎじゃないか」
スケッチブックのページを捲り、薄青い色を手に取る。新しいページの乗った青で淡い色合いの線を伸ばしてゆく。同一方向に重ねて、空をどんどん広げていく。
空を見上げて、自分の手元と見比べる。見上げた空には、とても届かない。
「とにかく、空が飛びたいんだ。私はそれに、人生を掛けてる」
布野は、自分に言い聞かせるように力強く言った。また、空へと手を伸ばす。
ふと、あることを思いついた。
「僕が飛ばしてやるよ」
新しかったページは、どんどん青くなっていく。今日の空ほどでは無いけれど、綺麗な淡い青だ。少なくとも、自分ではそう思う。
「いま、なんて言ったの」
「だから、僕が空飛ばしてやるよ」
布野は口を半開きにして何か言いたげだったけれど、僕は無視して絵に集中した。
そのうち気にならなくなったのか、文庫本をやめて漫画を読みだした。いつもの日常と、同じ空気が出来た。
「お兄ちゃんお絵かきしてるー」
しばらくすると、五歳くらいの小さな女の子が一人、近くによってきた。
短いのをむりやり二つくくりにした髪が、動きに合わせてぴょこぴょことカエルの様に跳ねる。
「よかったら一緒にお絵かきする?」
「うん! みゆも、お絵かきする」
みゆと自称したその子に、使っていない予備の色鉛筆と、スケッチブックの白いページを数枚破って手渡しす。
流石に紙が大きかったのか、紙を置いて芝生の上に横になってしまった。他の色も手の届くところに置いてあげると、嬉しそうに紙をカラフルにし始めた。
人の足音に気付いて僕が顔をあげると、その子の母親らしき人が小走りで近づいてきていた。
「すみません。ほらみゆ、あっちでボール遊びしましょう」
その呼びかけに、女の子はまったく反応しない。集中力の高い子なのだろう。
「僕は大丈夫なので、よかったらこのまま描かせてあげてくれませんか」
僕のお願いに少し渋い顔はしたものの「じゃあ、すみませんが少しだけ」と言ってくれた。
そこから五分もしないうちに、小さな子どもが三人やって来て「みゆちゃん、お絵かきいいな」と僕をちらちら見てきた。
僕はすぐに何ページ分か白紙を破るって渡してあげる。
パッという効果音が聞こえそうなほど、同時に笑顔を輝かせた。
「みんなで分けて、仲良く使ってね」
僕の声に「はーい」と元気な返事が返ってくる。さながら青空教室のよう。
元々友達同士なのだろう。少し離れたところから、先ほどの母親の近くに居る女性数人が頭を下げてくれた。
僕も同じようにして返すと、母親の井戸端会議が少し近づいてくる。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ、大勢で描くのも楽しいですから」
小さな子ども四人とも、違う表情で描いている。
真剣な表情の子、笑顔の子、すぐに母親に見せたがる子、僕に話しかけながら描く子。
一人ひとりの個性が綺麗で、同じ道具を使っているのに、全く違う絵が出来ていった。
ふと布野の方をみると、漫画を片手に一人の子と話をしている。性格が合うのか、布野の笑顔はギャグ漫画を読んでいる時のそれだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
最初に声をかけてきたみゆちゃんが、僕の肩をたたいた。右手の小指側が、真っ青に汚れている。
「みゆも、お空かいたの!」
地面に置かれた白い紙は、いつの間にか青色に姿を変えていた。
濃い色や薄い色の青が、色んな角度から塗りこまれている。不規則で、ただ気ままに乗せられた青色は、少し落ち着きが無い。
けれどこの絵は、今日の空とそっくりだ。子供らしい、元気さと無邪気さの混じった綺麗な空。今日の、何の混じり気もない空にそっくりだ。緑の芝生の一角だけが、空と入れ替わってしまったみたいに見える。
「これ、お兄ちゃんにあげる」
「え、いいの。こんなに上手に描けてるのに」
「いいの。もらって! 今日のお礼だから」
差し出された絵を、僕は丁寧に受け取る。小さな手の平は、空の絵に包まれて見えなくなっている。触れた部分は温かく、この子の存在を視覚意外で僕へ伝えてきた。
小さな子供は、大人の高い視界を下げてもらうために、見つけてもらうために、こんなにも温かくて元気なのかもしれない。
「わたしも、お空描いたの。お兄ちゃんにあげるね!」
今度は、みゆちゃんの隣に座っていた子が僕に絵をくれた。
それを皮切りに、他の子も空の絵を描いて僕に手渡してくれる。どの子も、各々いろんな顔をした空の絵を僕に渡してくれた。
どの子にも共通しているのは、渡した紙の端っこまで描いてくれているということ。空の色をしたペンキの中に突っ込んだように、白い紙は染まっていた。
ありがとうのお返しに、また新しいページを渡してあげた。そのとたん、また絵に没頭してしまう。本当にすごい集中力だ。
もう一度、もらった絵を眺める。一人じゃなくて、みんなで描くというのも、たまには良い。誰かの絵を見るのも、楽しい。
その日、空はひとつも雲を浮かべなかった。こんなにも純粋な空は、もう見られない気がするほどに。
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