第8話その8.
色鉛筆で描いていると、淡く緩やかなグラデーションによってできる流れの形が、僕の見ている世界をファンタジックに変えてしまう気がする。非現実的なこの感覚が好きだ。
「お兄ちゃんなにしてるのー」
小学校低学年か、年長さんくらいの男の子が、無邪気に声を掛けてくる。手にはボールを持っていて、その向こうにいる父親らしき人がこちらへと駆け寄ってきていた。
「お絵かきしてるんだ」
答えてから、男の子は父親に抱えられて離れて行った。「すみません」という父親の言葉に、こちらも会釈で返しておく。
こうしてたまに寄ってくる小さな子供も外で描く魅力の一つだ。色んな物に興味を持って、いろんなことに感動して。
行動できる範囲は狭いかもしれないけれど、彼らにとっては広大な世界。その中で、数々の冒険と発見を繰り返す。
タンポポの綿毛が飛ぶ姿で感動しなくなったのは、いったいいつからだろうか。虫を触るのが怖くなったのは、いつからだろうか。
自分にはない無邪気さを、とても羨ましく思う。
広い視界を描くのは、やはり気持ちが良かった。
「いい天気でよかった」
呟いてしまう程に、今日の空は高く、青い。
「やあ洵矢、見つけたよ」
聞き慣れた声が聞こえる。顔をあげるとそこには、日の光を背中に浴びる布野がいた。手には小さなビニール袋を下げている。
「本当に探したのか」
「たまたまだよ。それに、家がここの近所なんだ」
そう言うと布野は隣に腰掛けた。少し横にずれると「小さくありがとう」と聞こえた。布野は、レジャーシートの空いた隙間に座りなおす。
突然現れたことに、あまり驚きはしなかった。元々行動力があるやつだとは思っていたし、声をかけると言ったのだから近いうちに来るだろうとも思っていた。
「どうしたんだ、わざわざ」
「うわ、冷たい。たまたまって言ったでしょ。今日は特に予定もなかったしね」
描いている途中の絵を覗きこんで来る。いつものことなのでもう慣れたが、やはり集中は途切れてしまった。手を止めることにする。
「休憩するの。じゃあちょっと見せてよ」
半ば強引にスケッチブックを取り上げられた。言っても聞かない奴なので、買っておいたお茶でため息を押し込むついでに喉を潤す。
「うまいね。やっぱり色がついてる方がおもしろい」
「褒めてもらったのは、素直に喜んでおくよ」
褒められるのは嬉しいのだが、ページを捲る度に小さく声をあげられると、さすがに少し恥ずかしい。
「屋上からの景色しか見たことないからね。いろんな絵があって面白いよ」
一枚ずつじっくり見る布野は、自然な流れで空に手を伸ばすと、摘んだ空のカケラを口へ入れた。
「おい、大丈夫なのかよ。見られたくないとか言ってたじゃないか」
慌てた僕とは対照的に、布野はページから目をそらさずに、「んー」という気の入っていない伸びた返事を返す。
「近くに人は少ないし、大丈夫じゃないかな。意外と人って、他人を見てないもんだよ。ありえないと思ったことだって、認めようとしないで勝手に都合よく解釈するし」
ある程度満足したのか、スケッチブックを返してくれる。それを受け取ると、布野は持っていた袋から漫画本を取り出すと、隣で読み始めた。
「ここに来ても……」
「なによ。私は小説だって読むんだから」
袋から文庫本も出てきた。保護カバーはかけられていない、黄色い表紙の小説だ。タイトルに聞き覚えはない
「どっちでもいいけどさ、もっと活発的に走り回るとかさ。せっかく広いんだし」
「絵を描いてる人に言われたくないな。だいたい、華の女子高生が一人で芝生走り回ってたら、恥ずかしいでしょう」
面白くない展開を読んだ時のような不服の目で睨むと、文庫本の方を開いて読み始める。華の女子高生とは、よく自分で言えたものだな。
しばらくすると、物語の世界に入ってしまったのか静かになった。僕も色鉛筆を手に取り、作業を再開した。
どういうわけか、布野がいたほうが手の動きが軽い気がする。
時折空へと手を伸ばす布野。その時にする紙から手が離れる音、服が擦れる音が妙に心地良い。
今日の空は、いくらか青色が濃い。空独特の、青色なのに暖かく感じさせる色。
空の青は、どうしてこんなにも綺麗で、優しいのだろう。
自分のスケッチブックへと視線を落とす。僕の手は、こんなにも綺麗な青を出せているだろうか。
また布野が手を伸ばした。手に持った空の欠片はとても脆く、すぐにでも飛んでいきそうな小さな羽にしか見えない。広大で力強い空の欠片だとは、思えないほどに。
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