第2話:寂しい子ども
目を覚ましたのは、正午をとっくに回った頃だった。
もちろん今日も、頭が割れるように痛い。
いつもと同じ朝だ。といっても、もう昼に近い。
部屋の中まで照りつける日差しが、体から水分を奪っていく。
乾き果てた体を潤すため、台所に向かった。
蛇口に口を近づけて、そのまま水を注ぎ込む。
のどを通り、水が体の中を巡っていくのがわかる。
水分が満たされた後で、ふと思った。
「このまま、脱水症状で死んでも良かったかも」
別に自殺願望があるわけではないが、こんな自堕落な人生を続けるくらいなら、死んでもかまわないと思った。
この生活から抜け出せるのなら、死ぬのも悪くないかもしれない。
わたしは、本気でそう考えていた。
キャバクラで働いているといっても、指名なんてほとんど入らない。
ただ、時給をもらいに行っている様なものだ。
こんな給料なら、昼間働いたほうがマシだとも思うが、お酒がないと生きていけない。
ただでお酒を飲むために働いているようなものだった。
むかしは町のスナックで働いていた。
スナックは良かった。
お客はいくらでも飲ませてくれるし、わたしを目当てに来るお客も多かった。
カラオケもできるし、適当に席を離れることもできる。
ある程度は、好きなお客の所に行けるし、好きな時に息抜きができた。
でもキャバクラは、そうはいかない。
呼ばれるまで席を離れることはできないし、好きな子にしかお酒をくれない。
しかも男たちは、疑似恋愛を求めてくる。まるで自分の女のような顔をして、他の客から指名が入ると嫉妬する。それが煩わしくて、わたしは営業するのをやめた。だから今は、はじめて店に来る一見さんや、ヘルプで席に着くことばかり。
そもそもわたしは、キャバクラに来るような男が嫌いだ。単なる娯楽として楽しむなら良いが、キャバ嬢に本気で入れ込むような男には虫唾が走る。
一方キャバ嬢たちは、常に競争心を胸に秘めていて、男に媚びを売って私腹を肥やす。下心しかない男たちを軽くあしらって、手玉にとって楽しんでいるように見える。ちやほやされるのは若いうちだけと気づかずに、どんな男でも落とせると思い込んでいる。
そんな男と女の愛欲にまみれた世界が、どうも好きになれなかった。
じゃあなぜ働いているのかと言えば、お酒とお金のため。スナックで働くよりも、時給が良いからだ。
でも逆にストレスがたまり、仕事終わりには、必ずこのオカマバーに来ては酔いつぶれる。
わたしにとって、オカマバーはオアシスだった。
誰にも気兼ねなく、素の自分をさらけ出せる場所。
女同士の争いもなく、男たちの下心もない。
唯一のやすらぎの場所なのだ。
「結子ちゃん、起きた? ご飯できてるわよ。昼ご飯だけどね」
律子ママが、ご丁寧に呼びに来てくれた。世話焼きすぎて、鬱陶しいことさえある。いつもお世話になっているのに、ひどい言い草だと自分でも思うが。
「お腹空いてないからいいや」
とわたしは、そっけない声を出す。
「ダメよ。いいから降りてらっしゃい」
律子ママは、言い出したら引き下がらない事をわたしは知っている。
頭をかきむしりながら、しぶしぶ階段を下りて行った。
店に顔を出すと、オカマバーで働くオカマ達が、むさぼる様に律子ママの手料理を食べている。いや、「お姉さま」と呼ばないと、どすの利いた声で怒られる。
ここで働くお姉さま達はみんな、この店の2階に住んでいるのだ。
夜は、不健康なギラギラしたライトが照りつける店内も、昼間はカーテンを開けているので自然光がまぶしい。
肌に刺さるような初夏の日差しが、店内を明るく照らし出していた。
心なしか爽快な気分になり、お姉さま達とは離れたカウンター席に座る。
目の前に置いてあるポットから、冷水をコップに注いだ。
一気に飲み干すと同時に、律子ママがお盆に乗せた食事を運んできてくれた。
バランスの取れた、野菜中心の和食だ。
律子ママは料理上手で、みんなの健康のために、いつもこうやって食事を作ってくれる。
「また二日酔い? だから飲み過ぎだって言ったでしょ」
また律子ママの小言がはじまったと思い、わたしは面倒くさそうに顔をあげた。
「とにかく食べなさい。またすぐ仕事なんだから」
「食欲ないってば」
「いいから、つべこべ言わずに食べなさい」
こうなったら、もう食べるしか選択肢はなかった。
目の前に並べられた食事は、まさに日本の朝を代表するような朝食の数々。どこか懐かしさを感じる食事だった。もっともわたしは、子どもの頃にこんな手の込んだ料理を食べた記憶がない。
わたしには、家族などいない。幼い頃はずっと貧乏で、食べるものも、ろくに与えられなかった。父も母もそれぞれに不倫相手がいて、わたしはいつも、たった一人で空腹と戦っていた。
ある日、父が「これで好きなものを買いなさい」と言って、千円札をくれた。今までの中で一番やさしい顔をしていた父を見て嬉しくなった。
それが、父との最後の会話になるとも知らずに。
大好物の鶏のからあげを買って家に戻ると、家の中はめちゃくちゃに荒らされていた。
父が借金をして、取り立てに来た男たちが金目のものを持って行ったのだと、母から聞かされた。
母は、ブラウスのボタンが外れ、胸があらわになっていた。
「あいつら、あたしが寝てやろうってのに、目もくれないんだ。その気があるなら、風俗で稼げって言うんだよ。なんであたしがあんな男のために、体売らなきゃならないんだよ。冗談じゃない」
母は、怒りに震えていた。その怒りは、父に対するものでも、家を荒らされたからでもない。
自分を女として見てもらえなかったからだ。
母は、どんな男でも、口説き落とせるという自信があった。母にとって体をさらすことは、たいしたことではなかった。むしろ男が自分の体を求めてくることが、最高の喜びだったのだ。自分には価値がある、自分を必要としている人がいる、と母が唯一実感できる瞬間だったから。
その夜、母も男と家を出て行った。次の日も、その次の日も、父と母は帰って来なかった。
空腹と寂しさを抱えた幼いわたしの傍らには、あの日のからあげが転がっていた。
だから人を信じるという感情は、とっくの昔に葬った。
人を信じないということは、傷つけられることはないということだから。わたしにとって、これが自分を守る最良の手段なのだ。
でも律子ママだけは違う。信頼できる唯一の人だった。
「それにしてもママの手料理は、いつも栄養満点だよね」
「そりゃそうよ。ただでさえ不健康な生活してるんだから、食事くらい健康的にしないと体がもたないわ」
確かにそうだ。夜に仕事をするのは、体力的にもかなり消耗する。
本来なら人間が休むべき時間、眠るべき時間に働いているのだから。
「たまには栄養、摂っておこうかな」
いつもはあまり朝食を食べないが、今日は何となく食べたい気分になってきた。
「そうよ、食べなさい。そして、元気に今日も働くのよ」
相変わらず、朝からパワフルな律子ママだった。けっこうな年齢なのに、どこからそんなパワーが湧いてくるのか不思議に思う。栄養のある食事は、そんなに人間を元気にするのだろうか。
「いただきます」
律子ママの作った手料理が、体中の足りない栄養を満たしていくのを感じた。そして、空っぽになっている心の栄養も……。
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