愛情と、生クリーム入りの。【パンケーキ】


 当たり前なんて言うものは、この世に存在しない。


 楽しくて当たり前。

 美味しくて当たり前。

 一緒に居て当たり前。


 当たり前なんてこの世にはないのだ。

 いつその”当たり前”な生活がなくなるかも分からないのに。

 なんで、そんなに人はワガママに生きられるのだろう。


 〇 〇 〇


 僕の恋人は、ちょっと……いやかなりワガママだ。

 けれど勿論僕は、彼女が大好きなわけだから、毎日妥協して、ワガママを聞いてあげている。


「拓也くん、お腹減った」


 ほらほら、彼女のワガママが始まりそうだぞ。


「さっき、ちゃんと聞いたよね、僕」


 香ばしいジャンクフード独特の、匂いが充満するアパートの一室。

 僕はカップ焼きそばを食べようとする手を止めて言った。


「焼きそば作る時にさ。聞いたら、空、私お腹いっぱいって言ったよね」


「言ったけど」


 僕の可愛い彼女は、膝を抱えながらふくれっ面でそう返した。

 あぁ、笑ってる顔は可愛いけど、そのふくれっ面はあんまり可愛くないな。


 机の上に置いている、デジタル式の僕の腕時計が、ピピっと小さく鳴る。

 部屋の掛け時計を見ると、深夜の一時だった。


「お腹減った」


 空は再び、僕の焼きそばを恨めしそうに見ながらそう言った。


「だから、さっき僕聞いたよね?」


 僕が空にそう言うと、空はふくれっ面を更に膨らませた。


「だって、お腹減ったんだもん」


 空はいつだってそうだ。

 僕がこういう事態を見越して「食べる?」って聞くのに、「食べない」って言っておいて、いざ美味しそうな匂いがしてくると急に腹を空かせるんだ。


 僕はやれやれと息を吐く。

 いつもなら食事を分けてあげるところだが、今日はそうもいかない。


「だって、じゃないよ。空はいつもそうやって言うんだから……この前だって――」


 僕が空のワガママを指摘する言葉を続けようとしたら、空は「もう!」と大きく声を上げた。


「もう拓也くんなんか知らない! ばかっ!」


 そう言い放つと、空は勢い良く立ち上がり、部屋の扉を大きく開け、玄関のサンダルを足に引っ掛けて、外に飛び出してしまった。

 その間、僕は見ていることしかできなかった。

 それほどに素早い、家出だった。


「はぁ」


 この恐ろしく寒い冬場の深夜に、厚着していたとはいえ部屋着で飛び出す彼女。

 その彼女のパワフルさは、正直見習いたいところはあるけれど、無鉄砲さだけは直してほしい。


 どうせ、迎えに行くのは僕なのだから。


 僕は、ハンガーにかけていた上着を着こみ、しっかりとマフラーを巻いて、彼女の分の上着も持って外に出た。


 二人でお揃いで買った、鍵につけた熊のキーホルダーが少しだけ揺れた。


 〇 〇 〇


 冬の深夜に外にでるもんじゃない。

 吹き付ける北風に冷えてきた身体を抱きしめ思う。

 思って僕は組んでいた両手をほどいて、マフラーを巻きなおした。


 空を探しに家を出たのはいいけれど、深夜の一時。大抵の店はシャッターを閉めている。

 明かりがついているのはコンビニくらいだ。


 日用品を買いに来るドラッグストアも。

 食材を買いに来るスーパーも。

 空とよく行くレストランも。


 みんな軒並み、明かりを消して閉店している。


「どこに行ったんだよ、空……」


 今まで空がワガママ放題になることはあっても、実際に家を飛び出したのは、今日が初めてだった。


 冬の冷気を伴った、強い風が吹きつける。

 僕は身体を抱きしめて寒さに耐える。


 空は大丈夫なのだろうか。

 寒さに凍えてはいないだろうか。

 時間が経つにつれ、どんどん彼女の事が心配になってくる。


 こんなことなら、彼女のワガママを素直に聞いてあげたらよかった。


 ポケットに入れていた携帯を取り出すと、ディスプレイの時刻は午前2時。


 空からの連絡はない。


 家を出てすぐに電話をかけたが、空は出なかった。

 もう一度改めて、履歴から空の番号にかけるが、出ない。


 ふと、どこかで誰がが言っていた言葉を思い出す。


 ――当たり前なんて言うものは、この世に存在しない。


 その言葉が、吹き付ける北風よりもずっと鋭く僕の心を刺す。


 指先の感覚がなくなってきた手をこすり合わせ、口元に近づけて息を吹きかけると、二人でよく来たレストランの季節限定メニューのポスターが目に入った。


『期間限定! いろいろいちご!』

『苺とベリーのパンケーキ 499円』


 そんなあおり文と共に、美味しそうなパンケーキの写真がでかでかと映し出されている。


 その写真を見て、僕は以前空が言っていたことを思い出した。



『私ね、好きな人にパンケーキを作ってもらうのが夢なの』


 〇 〇 〇



 それは、ある休日の昼間の事だった。


 近所に二人、手を繋いで買い出しに来ていた時。

 レストランのポスターを見て、空が唐突に言ったのだ。


「私ね、好きな人にパンケーキを作ってもらうのが夢なの」


 レストランの向かいのラーメン屋に気を取られていた僕は、彼女のその言葉に頭を傾げた。


「パンケーキ?」


 言って、彼女の視線の先に目を向けてようやくその内容が頭に入ってきた。


「あぁ」


 パンケーキ美味しそうだから、そんな事を言ったんだろうな。

 しかし、夢とはまた大きくでたな、と思っていると、空が僕の手をぎゅっと握った。


「でもね、ただのパンケーキじゃダメなの。愛情と、生クリームがたっぷり入った美味しいやつがいいの」


「愛情と生クリームが入ってないとダメなんだね」


 僕がそう相槌をいれると、空はにこぉっと笑って頷いた。


「そうなんだよ。しかもたっぷりね、入ってないとだめなのよ」


 とても嬉しそうに空はそういって、握っている手を振った。


「それは作るのが大変そうだ」


 空が振るのに合わせて、僕も手を振った。


 傍から見るとまるでおかしなカップルに見えただろうが、僕はそうしているのが最高に幸せで。

 口には出さないけれどきっと、空も同じように感じているんだろうと、思った。


「拓也くん。私ね拓也くんにお願いがあるの」


 手を振っていた空が、急に手を止めて言った。


「何?」


 僕は空の顔を見て尋ねた。


「あのね。私はどうしてもワガママだから、拓也くんを困らせてしまう事が多くなると思うの」


「うん」


 確かに、空のワガママっぷりには気づいていたし、それでも抑えているのだと気付いていた。


「でもね、どうか怒らないで欲しいの。いや、どうしても我慢できないとかあると思うから、それはちゃんと言って欲しいのよ」


「うん」


 相槌を打つ。打って、空が何を言いたいのか考えてみる。

 が、見当もつかない。


「私はワガママだから、怒られたらむーってなって、手が付けられなくなるかもしれない。でも、そうなった時に拓也くんにお願いがるの」


 どうやらようやくお願いにたどり着くようだ。


「なんだい?」


 僕は空に問いかける。

 僕にできる事なのだろうか。


「私が拓也くんの手にあまった時、どうしていいか分からなくなったらね、パンケーキを焼いて欲しいの」


「パンケーキ?」


「そう。でも、ただのパンケーキじゃだめだよ」


 そこまで言って、空は分かる? というように僕を見てきた。


「分かったよ。愛情と、生クリームがたっぷり入った、パンケーキだろ?」


 僕が、笑ってそう言うと、空は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて頷いた。


「当たりっ!」


 〇 〇 〇


 彼女の願いを思い出し、僕は歩みを速めた。


 パンケーキのポスターが貼られたレストランを通り過ぎ。

 看板がぽつんと外に置かれたスーパーを通り過ぎ。

 車の一台も止まっていないドラッグストアを通り過ぎ。


 僕は、僕らのアパートから一番近いコンビニに足を踏み入れた。


 そこで、ホットケーキミックスと、牛乳。卵を買った。もちろん、生クリームも忘れずに。


 そして会計を済ませると、急いで僕らのアパートへと帰った。

 帰り着くなり、いつも空が洗っていてくれている、フライパンとボウルを取り出すと、パンケーキを作り始める。


 ホットケーキミックスの裏面に書かれている手順通りに料理をしていくと、次第に部屋に甘い香りが充満しだした。

 焼きあがったパンケーキをお皿に盛りつけると急いで僕は、空にメールを打った。


『パンケーキ、作って待ってるよ。帰っておいで』


 それだけ打つと、僕はパンケーキを乗せたお皿を食卓に置き、彼女を待った。


 最近僕は、空といることが当たり前になってしまっていたのかもしれない。

 彼女が居なくならないと、決め込んでいた。


 もしかしたら、彼女よりもずっと、僕の方がワガママになっていたのかもしれない。


 空が帰ってきたら、いっぱいいっぱい抱きしめよう。

 パンケーキに入りきらなかった分の愛情をこめて、気持ちいっぱい。


 そんな事を考えていると、玄関のドアがそっと開く音がした。

 僕は立ち上がり玄関に向かい、両手を広げていった。


「おかえり」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにした空を、パンケーキの香りで包まれた部屋で抱きしめた。

 彼女の力が、僕の腕の中で抜けていくのを感じながら、再び強く抱きしめた。


「さぁ、パンケーキ食べよ?」


 空はこくんと一つ頷いた。


「ありがとう」


-END-

 




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