雨とデッドワンド
何ら関係性も無いような文面だった。とある大富豪がこの館を売り払い、そこに買い手がついた。その買い手は、とても腕の大きな男で、大の大人を誤って絞殺した事があると書かれていた。そこで付いたあだ名が、デッドワンド。そして、男は、館と共に姿を消してしまった。ただそれだけの文面だった。私は、記事の切れ端をポケットに入れた。何かの役に立つかも知れない。そんな事を考えていた時、鉄板を打ち付けた窓から何か、鈍器の様な物で叩きつける音と、喚き声が聴こえた。次第に大きくなるその音は、私を恐怖のどん底へと陥れる。
「いっ! 嫌ぁあああああああっ!」
その場から逃げ出す、混乱の最中。私は、居てはいけない場所に居るのだと、改めて確信する。早く出れば良かったのだ。シャドーマンの警告を素直に聞いてさえいれば。またもや後悔の念が渦巻く中、私は二階から降りる階段を見つける。少し落ち着いてきた私は、周りを見る。下の階には、確か何も居なかったはずだ。そう、居ないはず。そう思って降りようとした一歩、私は何かの視線を感じた。異様なほどまでの殺気だ。私の心は凍りつく。そして後ろを振り返る、すると。そこに在ったはずの二階への階段の通路と二階が無くなっていた。こんな馬鹿な事が! 私は思った。この現象を引き起こしているのは、シャドーマンのはず! そして、アイツの名前を叫ぼうとしたが、声が引っ込む。私の目の前に、在ってはならない光景が在ったからだ。一階は安全なはずだった。しかし、よくよく目を細めて観た所、一階は血で染まっているかの様に、紅い液体と何かの生物の臓器であろう物が散らばっていた。一階に降りたい。でも、降りれば、靴を履いていると言えど、血まみれになる。血なんて馴れっこのはずだった。あの人の周りに居た奴らを散々血まみれまで追い詰めて、いつも殺し損ねていた。しかし、ここにはその結果だと言わんばかりの人間だったモノが数多く転がっていた。雨が酷くなる一方、私はデッドワンドの事を思い出した。もしかしたら、これは。そのデッドワンドが殺した者達ではないかと。私は、恐る恐る一階への階段を降りて行った。そういえば、最初の時。二階への階段なんて無かった気がした。私の記憶が錯乱する中、出来事は次へと移った。一階へ足を降ろした直後、不意に館の正門である扉が開いた。その瞬間、腕がやたら大きな男が入ってきたのだ。そして、運の悪い事に隠れる場所無い私は、彼と目線を合わせてしまう。一階は、確かキッチンが在った。しかし、そこへ続く道さえ今は解らない。逃げるしかないのか? このまま背を向ければ、私は間違いなく彼に絞殺されてしまうだろう。そして、彼の右腕には、大きな斧が握らていた。それには、鮮血の跡が在った。私は思いもよらぬ吐き気を催す。このままじゃ、殺される。直感でそう悟った、彼女が発動した。ブルーは激しい口調で言う。
「早く逃げなさい! 貴女の心が私と同調してる限り、私はこいつを止められる!」
ブルーは、刃だった形状を青い炎の防壁にして私を守った。言われるままに、私は走った。デッドワンドが叫ぶ声が聴こえる。足が一瞬止まり、後ろを観てしまった。そこには、青い炎の防壁で囲まれて動けなくなっているデッドワンドが居た。炎は、彼を屋敷の外へと追いやろうとする。それでもデッドワンドは、私の元へ一歩進もうとする。その度に、彼の足が焼ける音がするが、それもお構いなしに彼は進もうとしてくる。そして、大声を上げる。その声は気を失いそうなほど、怖ろしい物だった。
「何してるの! 早く逃げなさい!」
ブルーは、臨界点ギリギリまで感情が高ぶった私に言う。正気を取り戻し、私は屋敷の奥へと逃げた。通路は、見る見る出来上がってゆく。まるで、私が思い描いた世界をそのまま映すように。でも、今はそんな事に気を取られている訳にはいかない。とにかく逃げ切らなければならない。そうしないと、確実に殺される。ふと私は、あの贓物が誰のモノなのかを考えていた。もしかしたら、あの人かも知れない。戻ってきて、あのデッドワンドに殺されたのかも知れない。そう思い、涙で目を濡らしながら、走った。通路が出来ていく奥へ奥へと走って行った。そして、丈夫そうな鉄の素材で出来た一室が現れた瞬間。私はそこへ飛び込んで、即座に鍵を閉めた。鍵だけでは物足りない。でも、そう簡単には壊されない扉だと思った。デッドワンドの大声で何かを呼ぶ声が聴こえる。きっと私の事を探しているのだ。声を出さないよう身を部屋の奥へ潜めた。足音がする。そして、扉の前で止まった。デッドワンドは、中を観ようと扉を開こうとする。金属がひしめく音がする中、私はただただ、彼が諦めてくれるのを待った。そして、数分。彼は諦めたかのようにその場を去って行った。そこで、初めて一息つく。とにかく、あの脅威からは逃れられた。それにしても、あんな異形な者が存在するとは、思っても観なかった。圧迫された精神で、極限状態が続いたためか。私は気を失う。次に目覚める時は、一体私は、何処に居るのだろう? そんな事を考えながら、私の視界は消えた。暫く気を失っていたと思い、目が覚めた。そこは、何だか腐乱したものが臭う部屋だった。周りを見渡すが、何も見えない。目は見える。でも、暗すぎて何も見えない。すると、急に天井で、電球の様な物。いや、電球が光りだした。この館に電気? 妙だと思った。あり得ない、あり得ないはずだった。私が居た場所、飛び込んだ場所。そこは、何年も放置された様な棺桶の並ぶ場所だった。そして、全ての棺桶の中身が腐っているのだろう。酷く臭った。考えていた、ここは観た事があると。私は声を自然に出していた。そう、ここは。
「あの人と一緒に居た部屋」
そうだ、そうだ! あの人が殺されたかもしれないんだ! 私は絶望した。今は、そう思う事しか出来なかった。すると、アイツの声がした。シャドーマンだ。
「追いかけっこは、楽しかったか?」
「何が、何が追いかけっこよ!」
私は、怒りを顕わにしてシャドーマンに怒号を浴びせる。そして、泣く。全て失った。そう思っていたからだった。しかし、私の影だと言った、このシャドーマンは言う。
「警告を無視したのは、お前だ。お嬢ちゃん。安心しろ、奴はアンタの大事な人を殺していない」
そう言うと、シャドーマンはこの館に、私の心の中が直接映し出されているのだと言う。それは、私の望みであり、私の在りのままの状態を館が表現しているのだと。そして、シャドーマンは更に言う。
「死体だらけだ、アンタの心の中じゃ、いつも死体が在る。なのに何故、怖がる必要があるんだ?」
「誰だって、こんなの見せられちゃ耐えきれなくなるさ」
ブルーがまた、割り込んでくる。
「はっ、お節介焼きが」
シャドーマンは、そう言って声を消す。私は唖然としていた。館で起こる現象の大元は、全て私に在るのだと知った時、余計に気が狂いそうだった。それを冷静に受け止めろと言う自分と、これは異常だと訴える自分。その両方が、私の心の中で葛藤した。そして勝ったのは、正常な私だった。
「異常よ、異常過ぎる! これが私の心の中だって言うの? 信じないわ、信じたくない!」
そう叫んだ瞬間だった。館の形がまた変化していった。私の心を鏡映しにする館。私の立っていた場所は、揺らぎ。暖炉の在る部屋へと景色を変えていた。最初から、私が仕組んでしまった事。それがシャドーマン。この異常な環境は、私の心の内で変わる。平静を保てばいいんだ。そうだ、きっとデッドワンドもこの館の一部になってしまっているのだろう。長い事この館と生を共にした結果、彼はこの館を管理すると同時に、訪れた者達を次々と殺した。そう考えれば理解が出来そうだった。でも、それを思うのであれば、また彼も彼の世界で生きている事になる。そうすると、彼とまた遭遇する事は、かなりの確率で低くなるはずだ。そう考えた私は、ここから出る方法を考え出し始めていた。ここは、一階だろうか? そもそも何処なのかが解らない。暖炉の在る部屋で、木製のドアになっているこの場所で、私はもう一つの可能性も考えた。もしも、私の心がまた正常で無くなってしまえば、この館は更に私を迷わせるのだろう。それが私の心の内である限り。だったら、どうすべきか。答えは簡単に出た。シャドーマンと話す事だ。彼は、私と言った。だったら、彼を作り出している私は、彼を支配下に置ける立場だ。そう思った。そして、彼の名前を呼んだ。それは、私の名前だ。
「ティア」
静けさが私を包んだ。
「話がしたいの、出てきて。貴方は私なんでしょう?」
私は、私と話をする事にした。向き合う、これしかこの館から出る手立ては無い。すると、ティアと呼んだシャドーマンである私の声の後ろ側に、人の気配がした。それは、青年の姿をしていた。
「何だ、アンタ? 普通に喋れるのか」
嗄れ声の頃とは、打って変わって容姿の整った、綺麗な姿と声で彼は出てきた。そして言う。
「私は、ティア、貴方はティア。だったら、思いつく事は一つだけ」
「ほう」
私は、一言放つ。
「私は、もうこれ以上自分の願望のままに貴方を傷付けない」
そう言われて、もう一人の私は笑った。
「捨てられるのかよ? このどうしようもない快楽をさ」
「捨てるわ。これは、私の心なんでしょう?」
認めればいい。自分が醜い人間である事と同時に、寂しい思いをいつもしている、独りの支配欲の塊なのだと。そして、彼は言った。それが正しいかどうかは、自分で決めた事だ。ただ、俺は無くならない、とも。では、どうすればいいの? と問う。すると、彼は笑って答えた。
「アンタと俺が一つだった。だったら、ここに俺自身を忘れて行けばいいのさ」
雨の音は聴こえない。そして、館に入ったデッドワンドの叫び声も聴こえない。私は、ティア自身である、醜い私を。この館に忘れていく事にした。それしか、ここから出る方法は無いから。
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