第5話 リベンジ
……翌日、村雲は、拾った財布を届けるという名目で、登戸の家を訪れた。
この財布はラベンダーピンクで、金色の王冠が刺繍されている。
ちなみにこれは昨日、岡田が登戸に殴られながら、スッたものだ。
その日の村雲のコーデは、下はベージュのジャージ、上は黒無地のTシャツというラフな格好だったが、これには理由があった。再戦である。
事前に電話をしておいたので、深呼吸の後に、村雲がインターホンを押すと、扉が開き、登戸が出てきた。
目は相変わらず死んでいる。
村雲は彼女を見上げ、財布を渡す。
「はい」
「……ありがとう」
「ね、登戸さん。付き合ってよ、公園」
登戸は、無感情に首を傾げた。
村雲も合わせるように、満面の笑みを作る。
「わざわざ電車乗って来たんだよ。……歩きながら、話そ?」
登戸は眉をひそめるが、村雲は構わない。
「学校に言うよ? 昨日のこと。あ、警察でもいいけど」
登戸の眉根は、ますます歪んだ。
「あ、ジャージに着替えてね。それくらいは待つから」
村雲はもう一度、笑みを作った。
2人は蝉の音の中、連れ立って歩く。
程なくして公園に到着した。
この公園は住宅街の複数の区画にまたがる、登戸の街最大の憩いの場だった。
敷地の70%を覆う木々が、緑の影をまだらに落とす中を、村雲と登戸は進む。
「予選決勝から、結構たったよね」
村雲は、ぽつりと呟くが、返事はない。
「色々言いたい事はあるけど、とりあえず、……ここかな」
村雲は立ち止まり、遊歩道の芝生を見渡した。
樹がまばらだ。突き当たりのため、人も見当たらない。
村雲が先に踏み入り、登戸が後に続いた。
「昨日しこたまやられたってのもあるけど」
両指を組み合わせて、上空に向けて伸びをしながら、村雲は続ける。
「登戸さんが、被害者なのは分かる」
登戸の黒い前髪の下の瞳が、少し大きくなった。
「でも、このままじゃ、あたしも、あたしの恩師のつるっぱげも被害者になっちゃうと思うんだ。だから」
村雲は両手の拳を握り、構え、ステップを踏み始める。
「登戸さん、あんたを止める。あたしが勝ったら、言う事きいてね」
登戸も構え、2人は睨みあった。
だが、登戸はステップを踏まない。
構えはボクシングだが、べた足だ。
いわゆる空手スタイル。
彼女のしなやかな身体は、村雲より10㎝ほど長身である。
そのため村雲は向かい合うと、身長差以上のプレッシャーを受ける。
しかし村雲は臆さずにステップを踏み続けた。
そうすることで登戸の圧力を、木立を抜ける風に散らす。
彼女は登戸を中心に、半分ほどの時計周りをする。
2人を包む大気の中で、見えない均衡が臨界を迎えるのを、村雲は肌で感じた。
「しゃあっ!!」
と叫んで、村雲は登戸の右にステップインをする。
村雲の顔面目掛けて、登戸の左ストレートが放たれた。
上体を沈めかわす村雲の額を、登戸の拳がかすめる。
村雲は腰を大きく回転。左鉤突き。
拳の軌道は半円に近い弧を描き、登戸の右レバーを目指す。
ここまでは昨日と同じだ。
そして、ここからが違った。
登戸が右に半歩踏み込む。
村雲の拳の衝撃をずらし、両手で彼女の首を上から押さえる。
左膝蹴り。ムエタイスタイル。
物凄い膝蹴りが、村雲の顔面に迫る。
鼻に直撃したら軟骨が潰れて、嫁に行くのが遅れそうだ。
「りゃあっ!!」
雄たけびと共に、村雲は額をぐん、と振り下ろす。
膝を額で受けたのだ。
- 毎朝ヨーグルト摂ってて良かった。カルシウムって本当に大事だわ -
頭部が吹き飛ぶかという程の衝撃にも、意識は飛んでいない。
村雲は登戸の左膝を、両手で裏から抱える。
左足を登戸の軸足に絡めた。
そのまま左肩で、思いっきり前に押した。
2人は芝生に倒れ込む。
登戸が仰向けで、村雲がかぶさる形だ。
上になった村雲は、すかさず登戸にマウントを取る。
両膝で彼女の両肩も抑えた。
「……中学の時、柔道やってたの。あんたは空手だよね」
こう言ってから、村雲は拳を振り上げた。
容赦なく、登戸のうりざね顔に振り下ろす。
もうボクシングスタイルではない。
ルール無用のバーリトゥード。
子供の喧嘩みたいな形だ。いや、元々これはただの喧嘩だ。
村雲はひたすら拳を振り下ろす。
だが、腰の入ったパンチではない。
登戸はガードするが、5のうち1は当たる。
3発が当たった時点で、登戸は村雲がロックした肩を押しのけて、顔を背けた。
すかさず、村雲は彼女の背の横にまわり、後頭部から、顎の下に腕を滑り込ませ、腕をクロスさせる。
チョークスリーパーだ。
これが決まると、意識は落ちる。
実際、彼女は3秒で落ちた。
村雲の腕の中で、登戸の首がふにゃりと力が抜けて、逆に腕に頭部の重さを感じる。
この時、村雲は何故か泣きたくなった。
腕を解く。
登戸の横で仰向けになって、木立で覆われた上空を見上げる。
葉の隙間から見える空の青が濃く、眩しい。
村雲の額がじんじんした。
― めっちゃ痛かった。―
村雲はため息をついて、立ち上がる。
横向きに気絶している登戸の肩を押して仰向けにし、踵に回り込んで、両足を上げる。これは、気絶の正しい蘇生法だ。
ほどなくして、登戸の瞼が開いた。
上体を起し、喉を涙目で押さえる彼女に、村雲はしゃがみ込む。
「あたしはあんたに勝った。柔道使ったけど、あんたも空手とかムエタイ使ったから、お互い様。だから勝ちは勝ち。もう、飴玉を探すのは止めて」
登戸は返事をしない。代わりに、涙目の瞳が大きくなった。
村雲は苦笑する。
「夢の中で変な男に思い出盗まれたでしょう。で、色々むしゃくしゃして、変な飴玉に手をだしちゃった。それで、もっと辛くなった。最近のあんたの事で、分かるのはこれだけ。けど、今のあんたの気持ちはすっごい分かる」
登戸は何も言わなかった。
が、村雲は不安に思わない。
彼女の瞳に、光があったからである。
「悔しいよね。ずっと負かし続けたあたしに、さっき、あんたは負けた。すごい悔しい。男に盗まれた思い出は戻らないけど、今日のあんたには悔しいって感情と、思い出が生まれた」
村雲は立ち上がった。
「あたしは大学で総合格闘やる。あんたもやんなよ。大会出たら、あんたとあたしはいつかは『当たる』。あんたには負けるつもり無いけど、リベンジしたいなら、その時にして」
登戸は上目遣いに村雲を睨んだ。激しく奥歯を噛む。
拍子に目じりからその頬に、涙の滴がいくつも伝った。
「……分かった」
そう応えた彼女の瞳の底には、復讐者の光があった。
確固たる意思の炎。それは生者の特権である。
「……じゃあね」
村雲は三白眼の瞼を優しく落として登戸に微笑み、踵を返した。
「終わったか」
遊歩道を歩いていると木陰から、七三分けの男が現れた。
岡田だ。両腕に黒猫を抱いている。
村雲はその黒猫をしげしげと眺めた。
「上手くいったんだ?」
「ああ」
「……本当に、猫だったんだ」
「俺も盲点だったよ」
それは昨日の話である。
村雲が出口の無い店での男とのことを語り終えると、岡田は親指の爪を噛んで俯いた。ヒトではない、ヒトではない、か……とぶつぶつと呟いている。
ひとしきり呟いた後、2人はイルカの建物を後にして、坂を迂回し、繁華街に戻った。その途中、村雲は友人にラインをし、謝りの言葉と、先に帰って欲しいという旨を伝えた。
繁華街に至る直前、岡田は、そうか、と言ってビルに区切られた天を仰いだ。
「お師匠は死んでるんだ。そしてあの人はクールないいかっこしいだが、自分をヒトじゃない、とか中2病な事は絶対に言わない。つまり」
「つまり?」
「記憶を抜いて回っているのは、お師匠の『イメージ』だ。誰かの記憶が人格みたいになって、悪さをしているんだ。その記憶はヒトではないモノとごっちゃになって、詰めを甘くしている」
岡田は村雲に向き直った。
「何か見なかったか? あの店の夢を見る前に」
「……猫?」
「それだ!!」
誰かの記憶は猫に宿る。猫と人間は違う。人間ほどの知能はもたず、本能で生きる。だからこそ、飴玉を作るだけで放置して去り続けた。ではその猫に宿るのは誰の記憶か。夢で力を行使するもの。常に眠り続けている存在。猫に心を通わせる事ができる。そして、二椿史郎の力を受け継ぐ者。つまり彼の娘だ。
眠る彼女に記憶を埋め込まれた猫は、獲物を次々と変える。獲物と縁のある、次の獲物を、猫は観察し続けるだろう。つまり、猫の中の記憶が興味を持つような事をすれば、猫はおびき出せる。その後は、岡田の仕事だ。
……遊歩道を連れ立って歩きながら、村雲は岡田に訊いた。
「その猫どうするの?」
「連れて帰って、何とか『記憶』を吐かせる」
「良かった」
「?」
「処分するとかだと可愛そうだから」
岡田は笑った。
「俺は犬派だけどな。命は大切にするよ。でも、目的は別なんだ」
「?」
「吐かせた記憶をお師匠の娘さんに戻す。多分、目が覚める。そうしたら、夢は力を失い、世の中から脅威が1つ消える」
「そうかあ。めでたしめでたし、ね」
村雲は、おでこをさすりながら、笑顔を作った。
岡田も微笑む。
間を置いて、彼は黒猫に視線を落とした。
頭を撫でながら、ため息をつく。
「まあ、正直気が重いけどな。あの子が起きたら、悲しみと向き合わなければいけない。それに、能力で記憶を暴走させたのは、あの子の深層意識だ。つまり、『わたしが寝たきりで、他の人が幸せなのを、お父さんが許すはずがない』って事だ。無理やり言葉にするならな」
村雲は分からない。
「7歳でそんな事、考えるのかな?」
「7歳だから考えるんだよ。子供はもともと残酷だ。色々なものにくじけて、それでも頑張って、世の中と向き合い続ける事で、優しい大人になっていくんだよ」
岡田はそう話してから遠い目で、天を仰いだ。
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