第4話 若い探偵

 ……仰向けに寝ていた。頬をぺしぺしと叩かれていた。

 村雲の鼻のすぐ上に若い男の顔があった。彼が叩いていた。

 何処かで見たことのある七三分け。そのアップの向こうの天井で、青いペンキのイルカがウインクしている。

 

 - 青い、イルカ……? -


「起きたか……お? ぶっ!!」

 七三が言い終わる前に村雲は彼の前髪を右手で掴んだ。

 顎に右手をかけて引き寄せ、額を鼻にめり込ませる。鮮やかな頭突き。

 すかさず横に突き飛ばす。

 両膝を曲げて右肩から斜めに後転。

 起き上がりつつ、ファイティングポーズを取った。


「待て。いや、待ってくれ。君は誤解している」

 古くて臭いベージュの絨毯に尻餅をつき、左手で鼻を押さえながら、七三は言った。

 何が誤解だ、と村雲は思う。

 ここは青いイルカのホテルだ。登戸を追って大人の坂を駈けたら、大人の成層圏に打ちあがってしまった。今ここで戦わないと、衛星軌道に乗ってしまう。体は汚されても、心は汚れてやらない!

 村雲の2つの瞳に鬼気が宿った。


「いや、服、着てるだろう? 落ち着いて、何なら朝ご飯でも思い出しながら、確認するんだ」

 朝ごはんは生野菜サラダにヨーグルト、目玉焼き、それと豆乳コーンフレークだった。グレープジュースが美味しかった。

 男の言葉で思い出しながら、村雲は首から下を確認する。

 脇の汚れた白のフリルブラウスに、黒のデニムワイドパンツ。

 服はそのままだ。

 ブラウスから出た肩は、消毒のためかスースーとして、ガーゼがあてられている。

「君の手当てをしたんだ。襲うんだったら、わざわざ手当てなんかしないだろう? よく考えて欲しい。あと、朝ご飯で一番美味しかったのは何かも思い出して欲しい」

 グレープジュースが美味しかった。生のグレープを絞ったのだ。

 酸味と甘みに大自然を感じた。

 と村雲は思い返す。が、今考えるべきはそこではない。

 この七三は、よくよく見るとこんな優しそうな顔をして、意識の無い女子高生をこんな場所に連れ込んだのだ。


-けど、手当てをしてくれた。案外悪い人じゃ……いけない。誘導されている。-

 朝ご飯を訊いてくるのだって、よく考えたら怪しい。

 けど、今は怪しいとかどうとかを考えている場合ではない。

 この七三をノックアウトして、イルカワールドから脱出しないといけない。

 と、そこまで村雲が考えた時、七三の瞳が、ふっと、とても柔らかくなった。


「その様子だと、間に合ったみたいだな。良かった。まだ君は『抜かれて』はいない」

「え? 何が間に合ったの? 何を抜かれてないの?」

 村雲はわずかに首を傾げた。

 七三は胸元からティッシュを取り出して、丸めて鼻の穴に突っ込んだ。

 止血したのは分かったが、村雲は、ちょっと吹きだしそうになる。

 ハロウィンパーティの付け髭みたいで、面白かったからだ。

「君の頭突きが強烈だったから、鼻血も出る。因果関係的には心外だが、リラックスしてくれるのはありがたい。では、質問に答えよう。『出口の無い店』を思い出せるか?」

 村雲の頬から、血の気が引いた。

 七三の言い回しは芝居がかっていたが、威圧も不気味を煽るものもなく、穏やかで冷静だった。

 が、言われた彼女の脳裏には、あの、闇の海を見渡す店。

 レジカウンターも出口もない空間。

 そして、あの謎の男の死体のような、冷たく潤んだ瞳が甦る。


 村雲は三白眼の瞳を大きく見開き、喉は頬は舌は肺は硬直した。

 それは恐怖だ。


「落ち着いてくれ。後、朝ご飯で一番美味しかったのは何かも思い出して欲しい」

 朝ご飯で一番美味しかったのは、……。

 村雲は思い出せなかった。

 朝ご飯という出来事の記憶そのものが、すっぽりと頭から抜け落ちている。

 困惑に口が渇き、彼女の舌は潤いを求めてつばを飲み込む。


「足元を見てくれ。あ、見ても俺を攻撃しないでくれよ。君が立派なファイターなのは分かった」

 七三は、村雲の拳を警戒するように後ずさりながら、ベッドを指差した。

 その指先に誘導されて、村雲の視線は落ちる。

 

 右ソックスの親指部分、その先2cmに、オレンジ色の飴玉が転がっていた。

 プラスティック包装されている。


-飴? さっきは、無かった。飴なんて無かった。―


『良い飴だよ。エンドルフィンを凝縮したような飴だ。麻薬でもないのに、とても幸せな気持ちになれる』

 出口の無い店で、謎の男が言った言葉を思い出し、村雲は七三を睨んだ。

 下ろしかけた拳も再び構える。


「あんた、あいつの仲間なの?」

「昔は上司で、師匠だった。今は違う。説明すると長くなるが、とにかくその飴を舐めてみてくれ」

 七三の言葉に、村雲はためらう。


「怪しい薬じゃない。それは本来、君だけのモノなんだ」

 

 肩がスースーとした。

 七三の言葉は限り無く怪しいが、村雲を手当てしたのは事実である。

 彼女はその事に免じて、彼の言葉に従ってあげることにした。

 

 飴にしゃがみ込み、指先でつまみあげ、包装を破り取り出し、一度そこで止まって、七三の目を見る。


 七三は頷いた。


 村雲は覚悟を決めて、目を閉じ、口に放り込む。

 舌が飴の硬さを感じた。 

 オレンジ色なのにグレープ味だ。

 しゅわっと、炭酸で村雲の舌を刺しながら、瞬く間に溶け消える。


 -……朝ごはんは生野菜サラダにヨーグルト、目玉焼き、それと豆乳コーンフレークだった。グレープジュースが美味しかった。-


 村雲の脳に記憶が戻った。

 彼女の瞳は大きく開き、七三を直視した。

 七三は、ほっとした様子で、ゆっくりと頷いた。


「これが、お師匠と俺の力なんだ」

 

 ……その後、七三は色々な事を話してくれた。

 まず、彼の名前は岡田一斗(おかだかずと)。25歳。

 今年の冬に閉まった二椿(ふたつばき)探偵事務所で助手をしていた。

 彼の雇い主は、二椿史郎(ふたつばきしろう)。

 二椿も岡田も、記憶を飴玉にして取り出す能力がある。

 これは生まれもった素質に大きく依存する力らしい。

 高校生の時、岡田はとある事件に巻き込まれた。

 この原因は、当時の岡田の悪癖である。彼はスリが得意だったし、退屈しのぎによく、やくざの財布をスっていた。

 この事件をきっかけに、彼は二椿と知り合い、事件の解決を頼み込んだ。

 二椿は、事務所での労働と更正を条件に、岡田を救う。

 二椿の事務所でアルバイトとは名ばかりのただ働きをするようになった。

 ちなみに当時、二椿は新婚だった。渋くてクールな顔をして、10歳年下の可愛らしくて、猫の言葉が分かるくらいの子猫好きという、ちょっと不思議なアルバイトさんと、出来ちゃった結婚をしていたのだ。


「まあ、俺は妬いたよ。けれど、どうでも良かった。お師匠の元で働きながら、俺には大いなる野望が芽生えたからだ」


 その野望とは、記憶の飴を売る事だった。

 人から取り出した飴は、記憶の持ち主が舐めると、その記憶は回復する。

 が、持ち主以外が舐めると、『その記憶が含む感情』が再生されるのだ。


「誰かに褒められたり、告白が上手くいったり、子供が産まれたり、人生には色んな嬉しいイベントがある。飴玉には、その時の感情が詰まっているんだ。感情だけを伝える写真、と考えてくれても構わない」


 飴玉の含む感情は、色で分かる。

 赤は愛と闘争。青は知的歓び、安心と安堵。緑は自然と平和。白は美と神聖。

 オレンジは食欲。

 村雲の記憶はこれである。満たされる食欲。それにまつわる朝の記憶。


「お師匠も俺も、探偵業だ。人の不幸を飯の種にしている。で、あまりにも酷い不幸は記憶ごと抜くんだ。抜くには、不幸に関わることを思い出してもらえば良い。まあ、これはアフターサービスだな」


 こういう記憶は、黒の飴玉として、具現化するらしい。その感情は、恐怖と暗闇。そして絶望。

 二椿はこれを毒物としても使用していた。

 巧みな話術で、黒の飴玉を舐めるように薦める。

 舐めた者は無力化される。

 ダウナー系の麻薬を摂取、バッドトリップをした時に近い状態になるらしい。

 

 岡田は、黒の飴玉よりも、二椿の悪魔的な話術の方が、恐ろしいと思っていた。

 

 恐ろしい二椿の元で働きながら、岡田は計画していた。

 まず、酒場で適当な女に声をかけて、話をきく。

 ちょっと嬉しいことの記憶を抜かせてもらう。ちょっとというのが肝心だ。

 あまり大切な記憶を抜くと、人格が歪む。酷いと廃人になってしまう。

 それに、強すぎる感情も使えない。それは劇薬だ。麻薬のような依存性は無いけれど、日常全ての感情をぼやかしてしまう。

 記憶の飴を舐める事以外に、喜びを感じれなくなってしまうのだ。


 村雲は、登戸千鶴の死んだ目を思い出した。

 あらゆる物に、喜びを感じられない、冷たい目。


「でも、野望は実行する前に、お師匠にばれて、俺は酷くとっちめられた。それも皮肉だけどな」


 何故皮肉かというと、岡田の師匠の二椿は現在、それをして回っているからだ。

 きっかけは、年明け早々の事故だった。

 7歳の娘を連れて、信号待ちをしていた妻に、ワゴン車が突っ込んだ。

 その2日前に降雪があって、1日前に路面を覆う雪は一度溶けて、その日にまた凍り、薄い氷となった。この氷にワゴン車がスリップしたのだ。

 妻はワゴン車と電柱のサンドウィッチになる直前に娘を突き飛ばしたが、不幸な事に、娘も車体に接触し、後頭部を打った。

 娘は妻と同じく猫の言葉が分かるくらい子猫が好きで、ネコ型フードを被っていたが、それはクッションにはならなかった。


 この事故の結果として、妻は死亡し、娘は一命を取り留めたものの、その意識は戻らず、今も市立病院のICUで、昏睡している。

 


 この悲劇は二椿を酷く打ちのめした。

 妻の死の2週間後、二椿は通常の業務を終えて、市立病院に赴き娘の容態を確認してから、いきつけのバーでしこたま飲んだ。

 この時酷く泥酔し、コートに忍ばせていた黒の飴玉を、3個一気に口に詰め込み、噛み砕いてたりしていた。

 隣で一緒に飲んでいた岡田は止めようとしたが、1個放り込まれ、ダウンした。

 した。

 酒の効果も手伝って、酷い悪夢に放り込まれたような感覚に、脳の芯と視界をシェイクされた後、何とか回復すると、二椿は酒場から消えていた。

 翌日、二椿は水死体で発見された。

 泥酔したまま、川に落ちたらしい。


「あっけない最後だったよ。あれだけ抜け目ないお師匠がな」

「え」

「まあ、酔っぱらいだからな。しか、事故前のお師匠は酒もそこまで強くはないし、一杯をちびちびやるタイプだった。つまり、泥酔は、遠回りの自殺ってやつだ」

「あ、いや、そこじゃなくて」

 村雲は小さく首を振る。

「……そこじゃなくて、二椿さんって、亡くなってるの?」

 岡田はしばらく沈黙してから、頷いた。

「ああ。死んでる」

 村雲の背筋に、出口の無い店で味わった感覚が甦る。

 表面の濡れた氷が肌を滑るような、そんな悪寒だった。


 ……二椿が亡くなってから、記憶が『抜かれる』者が続出するようになった。

 その原因は分からない。二椿は、確実に荼毘に付されている。

 被害者は、繁華街から少し離れた市立病院を中心として、同心円状の広がりを見せている。範囲は現在も拡大している。

 彼らの飴は回収されない。が、誰かが拾う。

 ほとんどはゴミ箱行きだ。

 けれど誰かは口に含む。そして飴を舐める以外の全ての感情を、色彩を失うのだ。

 麻薬ではないが、麻薬と似ている。

 だから、最近はやくざが目をつけた。

 飴を集めて、売る事にしたのだ。


「本当に、やくざの貪欲さには、舌を巻くよ」


 やくざは、飴を探し始めた。

 依頼も二椿事務所に来たが、事務所は既に閉鎖されている。

 そこで、独立開業済みの岡田に依頼が回ってきた。

 彼は仕事を受け、1つの法則に気づく。


「被害は感染するんだ。つまり、誰かが記憶を『抜かれたら』、その誰かと縁や絆がある別の誰かも、『抜かれる』」


 恋人同士、または宿命のライバルなどが多いらしい。

 この宿命のライバルという言葉に、村雲は登戸千鶴を思い出した。

 そして、大内の事も。


「つまり、お師匠は、記憶を『抜いて』飴玉にする、非現実的な存在になった。が、『抜き方』には法則がある。つまり非現実だが、物理的という事だ」 


 そういう訳で、組の記録にあった記憶を抜かれた直近の被害者、登戸千鶴を見張っていたら、今日、男に騙されているのを発見したらしい。

 つまり、彼女は記憶を『抜かれて』から、何かのきっかけで別の飴玉を舐め、虜になった。

 そして飴玉を麻薬と勘違いし、ネットで売人に連絡を取り、金に加え色々な事をするという約束で、このイルカの建物の前まで来た。

 岡田は尾行を続けた。

 彼女は売人が持参したのが飴玉ではないと分かり激怒。

 猛然と売人を殴り始めたので、岡田は止めに入った。

 そして返り討ちにされる。

 暴れ足りない彼女の様子に、死を覚悟したら、村雲が駆けてきた。

 登戸は彼女も返り討ちにし、去っていった。


「後は、知っている通りだ。俺は君をここに運んで手当てをした。ああ、安心していい。受付とは知り合いなんだ。客にここを紹介してるからね。感謝されている」

「何で、紹介するの?」

「探偵を雇う奴ってのは、基本寂しいんだよ。でも我慢している。けれど、羽目を外したくなる。そういう時は、ばれずにしたい。で、俺に訊くんだ。あんたみたいな探偵に、見つからない所はあるかい? とな。で、俺はここを教える」

「汚い。汚(けが)らわしい」

「大人は汚くて汚らわしいんだよ、御嬢さん」

 口調が馬鹿にしていたので、村雲はかちんときた。

 けれど岡田は構わず、ぐいっと身を乗り出して、訊いてきた。

「お師匠の夢を見ただろう? 君は記憶を『抜かれ』かけていた。寝顔で分かった。だから起したんだ」

 村雲は思わず、背を反らしながら答える。

「うん、確かに35歳位の男の人と、話した」

「詳しく聴かせてくれ。君が初めてなんだ。非現実になったお師匠に、『抜かれかけて』無事な人間は」

「いいけど、1ついい?」

「なんだ」

「なんで非現実って言うの? お化けじゃないの? 二椿さん」

 村雲の問いに、岡田は堂々と答えた。

「お化けとか、非現実的なものは信じない。怖いからな」

 矛盾している、と村雲は思った。

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