第2話 敗北
村雲は繁華街を抜け、大人の坂を見上げた。
昼間ということもあって、坂の人影はまばらで、視界もひらける。
夏の灼熱の大気も、心なしか、ねっとりとした湿り気を帯びる。
女子更衣室に染み付く汗に似た臭気が、村雲の鼻をつく。
- 登戸千鶴、なんで……? ―
この臭気に、村雲はためらいを覚えた。
彼女は、彼氏いない歴が年齢とイコールの、れっきとした非リア女子である。
何も外見が悪いわけではない。
目も鼻も口も左右対称に整った、丸顔である。
頬骨が極端に高かったり、えらが残念なほど張っているわけではない。
ただ、まつ毛の長い瞳が切れ長で、いわゆる三白眼であるというだけだ。
下手に、鼻や唇が整っているだけに、黙っているだけで怒っていると思われる顔。そんな残念女子が村雲奈菜子なのである。
だから彼女にとってこの坂は、大人の階段というよりもむしろ、大人の絶壁であった。
恐怖に近い生理的抵抗を感じ、しばし立ちすくむ。
その視界の中央には、50m前方を連れ立って登っていく、男女の後姿が映り込んでいた。
女は登戸だ。
ずっと勝てなかったライバルであり、村雲をダウンさせて中央に進んだ強者だ。
その彼女が中年男と腕を組んだまま、左の脇道に曲がって消えた。
その入り口には、立て看板があった。
裸眼視力1・5の村雲は、看板の文句が読めてしまった。
『ホテルドルフィン』というゴシック体の下で、安っぽい青のイルカが跳ねて、ウインクをしながら値段を告知している。
- ふ、……ざけんなああああああ!!! -
村雲は、大人の坂を駆け始めた。
人目は気にしない。
補導員に声かけされたらどうしようとかは考えない。
本当は考えた方が楽なのだ。
大事な時期である。受験生である。くるりと踵を返して、友人の元に戻って、謝って、事情を話して泣けば済む話である。
でも、それをしてしまったら、何かとても大切なものが汚れてしまう。
彼女はそう考えた。
だからこそ、全力でピンクの街を50m走ろうとしたのだが、30mで息が切れた。
- くっそ。走ってなかったから、体力さんガタ落ちだわ……。-
痛むわき腹。
しかし、村雲は痛みに感謝をした。
あまり考えなくても済むからだ。
村雲も駄々っ子ではない。登戸にだって、のっぴきならぬ事情があるのだろう。その事情は、ボクシングのライバルだったというだけで、立ち入るには、重すぎるかもしれないのだ。
- でも、間違っているよ。こんなの絶対だめだ。止めさせる! 殴ってでも止めさせる! そしてちゃんと訳を聴こう。あたしが出来ることは全部しよう。-
村雲の瞳の底に、炎が宿った。
が、脚はへろへろである。
それでも、50mを一度も止まらずに走りぬいた。
絶え絶えの息を、一度深呼吸して、ねっとりとした大人の街の空気にむせてから、脇道に視線を投げる。
裏路地は暗く湿っていた。
村雲は足を踏み出す。その一歩はとても力強い。
……壁面に描かれた、イルカの青が毒々しい建物の入り口前に、登戸がいた。
彼女の足元のアスファルトには、影日向に咲く花がいくつか生えていて、その横で、中年男が蹲(うずくま)っている。
登戸は別の男にボディブローを放っている。
男はまだ若い。
黒のスラックスに、襟元の開いたシャツ。
長い肢体くの字に曲がり、七三分けの髪が乱れている。
ブローの先が肝臓にクリーンヒットしたのだ。
「登戸千鶴っ!」
村雲は叫んだ。
登戸に向って駆け出す。
村雲の血相は酷く変わっている。
怒りでも、状況が分からない混乱でもない。
それはただの主張だ。
素人に暴力とか、間違っている。絶対に間違っているのだ。
登戸と眼があった。
うりざね顔、眉にかかった黒髪、メイクを念入りに施した瞼が大きく開く。
視線を村雲に据えたまま、七三男の顎先にジャブ。
男はアスファルトに崩れるが、やはり登戸は彼を見ない。
視線の先は、あくまでも村雲だ。
両手の拳を握り、構える。
登戸は村雲より10㎝ほど長身である。
リーチも長い。
突進する村雲に、登戸の左ストレートが放たれる。
上体を沈めかわす村雲の額を、登戸の拳がかすめた。
村雲はインファイターだ。密着に近い間合いは彼女の空間である。
腰を大きく回転。左鉤突き。拳の軌道は半円に近い弧を描き、登戸の右リバーに
直撃……する前に、こめかみに衝撃。
村雲は、何が起きたのか分からなかった。
ただ、首から上が吹っ飛ぶかと思った。
横方向に吹っ飛び、肩からアスファルトに崩れる。
暗い路地のアスファルトは生暖かく、肩の肌も酷く擦る。
登戸は、半身になっていた。腰の上まで左膝を上げて、村雲を見下ろしている。
酷く冷たい目だった。メイクが濃いからではなく、本当に別人の瞳だった。
熱量が無いのだ。インターハイの時よりも、強くなっている。
実力は伯仲していると評されていた村雲のこめかみに、膝回し蹴りを叩き込んだのだ。
容赦もためらいもない、見事な一撃だった。一撃というよりも、それは熱量の塊だった。
格闘に関わる者の拳には、熱がこもる。それは、身体を、技を、そして心を鍛えぬく時間が拳に宿るからだ。
けれど登戸の瞳は、死人みたいだった。
死体のような、冷たい潤み方をしている。
彼女はその瞳のまま、大人の表通りに向けて踵を返した。
黒猫が物影からひょい、と現れて、優雅に路を横断する。
途中、村雲に一度視線をやってから、興味をなくしたのか、反対側の物陰に消えた。
熱くぼやける視界の中に登戸の姿を探すが、もう、どこにも見えない。
何故視界がぼやけるのか。
膝回し蹴りの衝撃か、眼の端から溢れる涙のせいか、村雲は分からない。両方かもしれない。
「登、ど……」
自分の喉から出て来るのが、呼びかけなのか、泣き声なのかも、村雲は分からなかった。ただ、とても悲しかった。
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