村雲さんは諦めない!
くろすろおど
第1話 絶対に認めない!
肺も横隔膜も痛い。生理痛よりも数倍痛い。
全身は酸素を求めているはずなのに、気道が空気を吸い込んでくれないのだ。
― でも、それは
コーチの掛け声がする。
「村雲お! 足止めんなあ!」
インターハイ女子ボクシング予選決勝。
ヘッドギアの下の村雲の額を汗が伝い、腫れた瞼を降りて、目に入ってくる。
痛い。
視界の中央の、登戸千鶴のしなやかな体がぼやけた。
― 分かってますよ。うるさいなあ。うるさいけど…… ―
マウスピースで微かに膨らんだ唇の上に浮かぶ汗を、村雲は舐めたい衝動に駆られる。
でも今、舌なめずりなんかしたら、めっちゃ馬鹿っぽい、と彼女は思う。
コーチの大内先生は今年引退だ。
廃部の危機に晒された、この女子ボクシング部を、みんなで引っ張ってきた。
頭は禿げ上がっているし、朝練ではおでこが眩しい。
口はうるさいし、青春の象徴とも言えるハンバーガーだって、こんなもん食べるな! と取り上げて食べる。捨てるのではない。食べる。定年真近の高校教師が、花咲ける女子高生の噛んだハンバーガーをむしゃむしゃ食べる。怪奇だ。
怪奇のつるっぱげ。でも、このつるっぱげが合宿で握る玄米わかめお握りはとても美味しい。
地獄の走り込み、シャドウ、スパーリング、腹筋、スパーリング、腹筋……、気が遠くなるようなリフレイン。
けど、この繰り返しの後の玄米わかめおにぎりは、めっちゃ美味しいのだ。
3年間このおにぎりを握り続けてくれた大内先生が叫んでいる。
「村雲おおお! 止まんなあ! 前いけえええ!」
叫びすぎだ。今月定年で血管年齢だって年相応なんだから、もうちょっと静かに叫んで欲しい。
と、村雲は心配になる。
― 心配するとか。あたし、まだ余裕だ。 ―
足が自然に動いた。
体は正直だ。ステップに、本能が呼び起こされる。
そう、今の願いは、上唇に垂れる汗を舐めたい、でも、玄米わかめご飯を食べたい、でもない。
― ずっと勝てなかった、……
上がらなかった両腕が、顎の前に上がる。
力の入らなかった拳に、握力が甦る。
村雲は、顎を引いた上目遣いで、登戸千鶴と目を合わせた。
登戸は目だけで笑う。
余裕みせたいとかではない。
ギリギリの体力を、本当にすっからかんにした時に出る、笑いだ。
村雲も笑みを作りたくなった。
が、代わりに、
「しゃあっ!!」
と叫んで、登戸の右にステップイン。
右フックをわき腹に叩き込む。
登戸の左ストレートを上体を沈めながらかわしつつ撃ったパンチだ。
グローブ越しに伝わる確かな手ごたえ。
汗が舞い、くの字に折れた登戸の目が見開き、頬が、ぷくっと膨らんだ。
こちらをむく体がぐらつく。
― いける……! ―
「お前のために投げるタオルはない。あっても投げん。だから死ぬ気で倒してこい」
大内の言葉が脳裏をかすめる。そう、死ぬ気で倒す。
村雲は息を吐く。
吐いて吐いて吐いた、最後の息だ。
登戸のガードの隙間を、村雲の拳が撃ちあがる。
空間を白い軌跡が削るような、渾身のアッパー。
軌跡の先は、登戸の顎先。
― とどけ……! ―
村雲は、見開いた目の奥に、白い煌きを感じた。
大内が何かをわめいている。
声だけが聞こえる。
うるさいなあ。本当に。
でも、先生の夏も最後だし、インターハイに連れて行ってあげたい。
……インターハイ? あれ? 今、予選決勝だ。
村雲の意識は戻った。
シューズの踵、右ふくらはぎ、右腰、右脇腹、右後背、そしてヘッドギアの右側部が、水色のリングマットに乗っかっている。
彼女を向いて、レフリーがカウントしている。
大内が村雲の名前をひたすら絶叫している。
登戸千鶴と目が合った。
リングロープに背を預け、両腕をかけている。
燃え尽きた、でも祈るような目。
― 何て目をしてんだ!? 勝手に燃え尽きんな! 勝負はまだ終わってない。ふざけんな……! ―
奥歯を噛んで、右ひじをつき、立ち上がろうとする。
が、顎に力が入らない。
関節が消えてしまったのかと思うくらい、ふわふわと力が入らない。
どうやら、アッパーは斜め右に避けられたらしい。
そのまま右フックのカウンターを貰った。
それでも、村雲は立ち上がろうとした。
シュールに笑う膝を無理やり黙らせ、戦いの構えを取ろうとし、中腰になりかける。
が、その時、村雲の体は崩れた。
同時に、リングの宙に白いタオルが舞う。
大内が投げたのだ。
村雲の意識と肉体が、離れ離れになっていた。
全てがクリアなのに、体だけが動かない。
今なら幽体離脱だってし放題だ、と村雲は思う。
― タオルは投げないから死ぬ気で戦ってこいって、言ってたのに。つるっぱげの嘘つき。 ―
涙が目じりから溢れて頬をつたい、マットに落ちた。
インターハイ県予選決勝。
登戸千鶴との大一番は、村雲の第3ラウンドKO負けで終わった。
命がけの左アッパーに、右のカウンターフックを合わせられた。
見事なカウンター。
この日、村雲の女子ボクシング部生活は終わり、その月に、顧問の大内は定年退職を迎えた。
県予選の決勝まで進んだのだ。
これは快挙である。
しかも、村雲の高校は私立のちょっと有名な進学校だった。
尚更快挙である。
この栄光にも関わらず、村雨は腑抜けた。
魂が、あの第3ラウンドでアッパーを放った瞬間に接着されてしまったらしい。
引退から早2ヶ月。
街を彩る緑は、淡い新緑から濃密な緑に変化していた。
夏休みである。お盆も過ぎた。
村雲は、羊羹も青春のハンバーガーも食べ放題になって久しい。
もう誰にも憚る必要はない。
走り込みだってしなくていい。
息が上がるような事は、全くしなくても良くなったのに、全然楽しくないのだ。
勝負の夏ということで、受験勉強はする。
やることが無いので、猛然とする。
だから大学の合格判定は1つ上がった。
友達とハンバーガーだって食べるし、フライドポテトだって合わせ放題だ。
でもやはり乙女なので、ジュースは0カロリー。
彼女は充実しているはずだった。
けれど、全く楽しくない。空虚だ。
遠い目をしてしまう。
その視線の先には、登戸千鶴がいる。
― あの子はどうしてるんだろう。―
登戸千鶴は8月初めの本選で、1回戦負けをしていた。
TKO、判定負けだ。
悔しいだろう。
いや、インターハイに進めたから、悔しくはないのか。
進めたからこそ、物凄く悔しいのか。
村雲は分からない。
でも、できれば、この3年間に一度も勝てなかった彼女に会って、話したいと思う。
公園の緑の木陰とかで、蝉の声でもうるさく聴きながら、2人でアイスキャンデーでも齧れば、何かが吹っ切れる気がするのだ。
けれど吹っ切って忘れるには、あのリングの記憶は、眩しすぎるのだ。
登戸千鶴は2つ隣町の工業高校、いわゆる工業女子だ。
一方、村雲は家から徒歩で10分の私立高校である。
電車で3駅分揺られさえすれば、気軽に会いに行ける距離だ。
だからだろう、距離が気軽な分、気持ちが重くなる。
踏ん切りがいる。そして、村雲にはそれがない。
ちなみに、村雲の街から東に2駅、登戸のそれから西に1駅行けば、県庁所在のある駅に着く。
その駅の北にはビジネス街と市立病院がある。
南には県庁があり、繁華街から続く坂の向こうに大人の界隈や怪しいホテルがある。
2学期の始業も近いある日、受験勉強の息抜きをしようと、友達に誘われた村雲は、その繁華街に足を伸ばした。
繁華街だけあって、服飾店の軒先のワゴンには、キュートなフリフリピンクのブラウスとか、ロゴプリントシャツなどがてんこ盛りされている。
村雲はこの眺めを楽しむ。
彼女は別にギャルではないが、キュートな服はそれなりに好きな女子なのである。この日のコーデも、肩の出た白のフリルブラウスに、黒のデニムワイドパンツだった。
軒先で熱帯の花のプリントTシャツを宙に拡げながら、友人と2人ああでもない、こうでもない、と言い合う。
村雲はこのシャツに心は惹かれたが、買うまでは至らず、ワゴンに戻そうとする。
この時、村雲は微かに顔をしかめた。
ワゴンのシャツたちのしなだれ加減に、リングで倒れた自分を見る気がしたからだ。
友人と2人で店内に入り、茶色のかすれ具合が良いミサンガを買って、村雲はさっそく手首につけた。
近場のジャンクフード店に移動し、ハンバーガーを頬張る。
友人と、ミサンガの願い(まだ決まってない)、模試の結果、アイドル、映画、薬物で捕まった芸能人、最近流行っている変な薬物、音楽などについて、とめどなく話す。
この時間は楽しいし、ちょっと虚しい。
村雲はふと、窓ガラスの向こうの人ごみに、登戸千鶴の横顔を認めた。
笑っていた。
酷く空虚な笑い方だった。
男と腕を組んでいる。
30代後半から40代の男だ。
登戸自身も制服ではない。
フレアのミニスカートにピンクのブラウスという大人女子コーデである。メイクも厚盛で、ぱっと見は20代半ばの女性だ。
けれど間違いなく、登戸千鶴だった。
村雲は、男女の行方を目で追った。
ゆっくり、けれど足取りに迷いなく、坂に向かっていく。
あの先には不健全な街と、いかがわしいホテルがある。
村雲は立ち上がった。
その動きが急だったため、椅子が後ろに倒れた。
「登戸千鶴」
喉が自然に発音した。
「え?」
友人が村雲を見上げる。
「登戸千鶴だ。ごめん、あたし行ってくる」
村雲は男女を目で追いながらそう言って、足早に店を出た。
登戸千鶴が消えた坂に眉をひそめ、息を深く吸う。
それから、駆け出した。
― あたしに、勝ったあんたが、何やってんのよ? こんなの、絶対認めない。 ―
村雲の中から、力が湧き上がる。
怒りと言っても良い。
彼女は疾走する。
全力でフットワークを駆使し、鮮やかに繁華街の人波をすり抜ける。
そして、速度は落とさない。
落としたら、村雲がずっと勝ちたかった登戸千鶴の、『今』を認めてしまう。
彼女はそんな気がしたし、それがたまらなく嫌だったからだ。
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