第4話 駈ける、駆ける。

 2学期の始業も近いある日、受験勉強の息抜きをしようと、友達に誘われた村雲は、その繁華街に足を伸ばした。

 繁華街だけあって、服飾店の軒先のワゴンには、キュートなフリフリピンクのブラウスとか、ロゴプリントシャツなどがてんこ盛りされている。


 村雲はこの眺めを楽しむ。

 彼女は別にギャルではないが、キュートな服はそれなりに好きな女子なのである。この日のコーデも、肩の出た白のフリルブラウスに、黒のデニムワイドパンツだった。


 軒先で熱帯の花のプリントTシャツを宙に拡げながら、友人と2人ああでもない、こうでもない、と言い合う。

 村雲はこのシャツに心は惹かれたが、買うまでは至らず、ワゴンに戻そうとする。

 この時、村雲は微かに顔をしかめた。

 ワゴンのシャツたちのしなだれ加減に、リングで倒れた自分を見る気がしたからだ。


 友人と2人で店内に入り、茶色のかすれ具合が良いミサンガを買って、村雲はさっそく手首につけた。

 近場のジャンクフード店に移動し、ハンバーガーを頬張る。

 友人と、ミサンガの願い(まだ決まってない)、模試の結果、アイドル、映画、薬物で捕まった芸能人、最近流行っている変な薬物、音楽などについて、とめどなく話す。

 この時間は楽しいし、ちょっと虚しい。

 

 村雲はふと、窓ガラスの向こうの人ごみに、登戸千鶴の横顔を認めた。

 笑っていた。

 酷く空虚な笑い方だった。

 男と腕を組んでいる。

 30代後半から40代の男だ。

 登戸自身も制服ではない。

 フレアのミニスカートにピンクのブラウスという大人女子コーデである。メイクも厚盛で、ぱっと見は20代半ばの女性だ。

 けれど間違いなく、登戸千鶴だった。

 村雲は、男女の行方を目で追った。

 ゆっくり、けれど足取りに迷いなく、坂に向かっていく。

 あの先には不健全な街と、いかがわしいホテルがある。 


 村雲は立ち上がった。

 その動きが急だったため、椅子が後ろに倒れた。


「登戸千鶴」

 喉が自然に発音した。

「え?」

 友人が村雲を見上げる。

「登戸千鶴だ。ごめん、あたし行ってくる」

 村雲は男女を目で追いながらそう言って、足早に店を出た。

 登戸千鶴が消えた坂に眉をひそめ、息を深く吸う。

 それから、駆け出した。


 ― あたしに、勝ったあんたが、何やってんのよ? こんなの、絶対認めない。 ―


 村雲の中から、力が湧き上がる。

 怒りと言っても良い。


 彼女は疾走する。

 全力でフットワークを駆使し、鮮やかに繁華街の人波をすり抜ける。

 そして、速度は落とさない。


 落としたら、村雲がずっと勝ちたかった登戸千鶴の、『今』を認めてしまう。

 彼女はそんな気がしたし、それがたまらなく嫌だったからだ。


 村雲は繁華街を抜け、大人の坂を見上げた。

 昼間ということもあって、坂の人影はまばらで、視界もひらける。

 夏の灼熱の大気も、心なしか、ねっとりとした湿り気を帯びる。

 女子更衣室に染み付く汗に似た臭気が、村雲の鼻をつく。

 

- 登戸千鶴、なんで……? ―

 

 この臭気に、村雲はためらいを覚えた。

 彼女は、彼氏いない歴が年齢とイコールの、れっきとした非リア女子である。

 何も外見が悪いわけではない。

 目も鼻も口も左右対称に整った、丸顔である。

 頬骨が極端に高かったり、えらが残念なほど張っているわけではない。

 ただ、まつ毛の長い瞳が切れ長で、いわゆる三白眼であるというだけだ。

 下手に、鼻や唇が整っているだけに、黙っているだけで怒っていると思われる顔。そんな残念女子が村雲奈菜子なのである。

 

 だから彼女にとってこの坂は、大人の階段というよりもむしろ、大人の絶壁であった。

 恐怖に近い生理的抵抗を感じ、しばし立ちすくむ。


 その視界の中央には、50m前方を連れ立って登っていく、男女の後姿が映り込んでいた。

 女は登戸だ。

 ずっと勝てなかったライバルであり、村雲をダウンさせて中央に進んだ強者だ。

 その彼女が中年男と腕を組んだまま、左の脇道に曲がって消えた。

 その入り口には、立て看板があった。

 裸眼視力1・5の村雲は、看板の文句が読めてしまった。

『ホテルドルフィン』というゴシック体の下で、安っぽい青のイルカが跳ねて、ウインクをしながら値段を告知している。 


- ふ、……ざけんなああああああ!!! -


 村雲は、大人の坂を駆け始めた。

 人目は気にしない。

 補導員に声かけされたらどうしようとかは考えない。

 

 本当は考えた方が楽なのだ。

 大事な時期である。受験生である。くるりと踵を返して、友人の元に戻って、謝って、事情を話して泣けば済む話である。

 でも、それをしてしまったら、何かとても大切なものが汚れてしまう。

 彼女はそう考えた。

 だからこそ、全力でピンクの街を50m走ろうとしたのだが、30mで息が切れた。


- くっそ。走ってなかったから、体力さんガタ落ちだわ……。-


 痛むわき腹。

 しかし、村雲は痛みに感謝をした。

 あまり考えなくても済むからだ。

 村雲も駄々っ子ではない。登戸にだって、のっぴきならぬ事情があるのだろう。その事情は、ボクシングのライバルだったというだけで、立ち入るには、重すぎるかもしれないのだ。


- でも、間違っているよ。こんなの絶対だめだ。止めさせる! 殴ってでも止めさせる! そしてちゃんと訳を聴こう。あたしが出来ることは全部しよう。-


 村雲の瞳の底に、炎が宿った。

 が、脚はへろへろである。

 それでも、50mを一度も止まらずに走りぬいた。

 絶え絶えの息を、一度深呼吸して、ねっとりとした大人の街の空気にむせてから、脇道に視線を投げる。


 裏路地は暗く湿っていた。

 村雲は足を踏み出す。その一歩はとても力強い。


 ……壁面に描かれた、イルカの青が毒々しい建物の入り口前に、登戸がいた。

 彼女の足元のアスファルトには、影日向に咲く花がいくつか生えていて、その横で、中年男が蹲(うずくま)っている。


 登戸は別の男にボディブローを放っている。

 男はまだ若い。

 黒のスラックスに、襟元の開いたシャツ。

 長い肢体くの字に曲がり、七三分けの髪が乱れている。

 ブローの先が肝臓にクリーンヒットしたのだ。


「登戸千鶴っ!」

 村雲は叫んだ。


 登戸と眼があう。

 うりざね顔、眉にかかった黒髪、メイクを念入りに施した瞼が大きく開く。


 彼女に向って駆け出す。

 村雲の血相は酷く変わっている。 

 怒りでも、状況が分からない混乱でもない。

 それはただの主張だ。

 素人に暴力とか、間違っている。絶対に間違っているのだ。

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