第3話 暴力
村雲は受験勉強に専念するという名目で、お盆のお墓参りを遠慮した。
実のところは、亡くなった祖父母に合わせる顔がなかった為である。
だから、受験が上手くいったら、ちゃんとお墓参りをしようと、彼女は思う。
登戸千鶴の事も思う。
あの子も今頃悔しいだろう。
いや、インターハイに進めたから、悔しくはないのか。
進めたからこそ、物凄く悔しいのか。
村雲は分からない。
でも、できれば、この3年間に一度も勝てなかった彼女に会って、話したいと思う。
公園の緑の木陰とかで、蝉の声でもうるさく聴きながら、2人でアイスキャンデーでも齧れば、何かが吹っ切れる気がするのだ。
けれど吹っ切って忘れるには、あのリングの記憶は、眩しすぎる。
登戸千鶴は2つ隣町に住んでいる女の子だ。
電車で3駅分揺られさえすれば、気軽に会いに行ける距離だ。
だからだろう、距離が気軽な分、気持ちが重くなる。
踏ん切りがいる。そして、村雲にはそれがない。
ちなみに、村雲の街から東に2駅、登戸のそれから西に1駅行けば、県庁所在のある駅に着く。
その駅の北にはビジネス街と市立病院がある。
南には県庁があり、繁華街から続く坂の向こうに大人の界隈や怪しいホテルがある。
この怪しいホテルに向かいながら、登戸千鶴は不快を感じていた。
彼女と腕を組んでいる男とネットで接触したのは3日前だ。
『飴玉』は高価で、品切れ状態だから、女子高生に卸すには無理がある。が、10万円に加えて特別な事をしてくれるのなら、融通は出来ると、男は彼女に伝えた。
この時、登戸は元彼の笑顔を思い出す。
それは、初めてのキスの時に、彼が見せた笑顔だった。
その先の経験、時間、空間、匂い、汗や湿りの感覚も思い出す。
それから、別れの時の握手も。
吹奏楽部の彼と登戸の握力は互角だったが、彼女の方が強く握った。
本当は別れたくなかったのだ。
高校が違うという理由は、そこまで大きなものには思えなかった。
好きな子ができたんでしょう、と問い詰めたい。
けれど、彼女は訊けなかった。
だからその問いを、握力にこめたのだ。
あの時の感触は、今でも彼女の手の内側に残っている。
整理はついたはずなのに、とても鮮やかな記憶。
インターハイで負けた翌日に喪われたのは、彼との記憶ではないらしい。
登戸は、初めての相手が彼で良かった、と思った。
未経験だったら、男の提案に、彼女はもっと葛藤するはずだったからだ。
彼女はモニターの向こう側の提案を受け入れた。
待ち合わせ場所は、県庁所在地の駅。
大人っぽい身なりをしてくるように、との指示も受ける。
こうして現在、登戸は15分前に駅で待ち合わせた男と、腕を組んで歩いている。
男は中年で、組んだ腕は汗でべとついている。
体臭は彼女の鼻の奥をつき、生温い黴が上ってくるような錯覚を覚えた。
何より不快なのは、男が肘を胸に押し付けてくる事だ。
その度に、男の息は荒くなる。
登戸は不快に眉をひそめたくなるが、代わりに微笑む。
彼女は、仏頂面の登戸は怖いからもっと笑え、と元彼によく言われたのを思い出す。
あの頃は、そういう努力に慣れていなくて戸惑ったが、戸惑えた事も幸せだった。
今の彼女には、戸惑いは無い。
その胸には『飴玉』希望だけがある。
この希望は、何ものにも優先するのだ。
……この忍耐は、イルカの建物の前で限界を迎えた。
身体を自由にさせる前に、確証が欲しい。
一個舐めて、安心したいと思ったからである。
飴玉を探している間、登戸は副作用を実感した。
何も楽しくないのだ。視神経は色彩を感知するのに、脳が刺激を覚えない。
あらゆる感覚に対して、何の感動も覚えなくなってしまったのである。
飢餓感を覚えるのは、飴玉に対してだけだ。
後はどうでも良い。
そんな彼女に、男はいやらしい笑みを浮かべて、
「仕方ねえな」
と言ってながら、バッグから白い錠剤を1つ取り出した。
飴玉ではない。
錠剤だ。
登戸は激昂した。
その声は声になる代わりに、拳となって男を襲った。
脇、腹、顎、腹、ステップ、脇、腹、顎……。
怒りは、絶望は登戸の肢体を衝き動かす。
男の唇は瞼はみるみる腫れあがる。
拳が脇に突き刺さる度に、みしり、という感触が彼女の拳骨を伝う。
が、止めない。
死ぬまで止めないはずだったが、 止(と)めが入った。
見知らぬ男だった。
若い。七三分け。
「止めろ。死ぬぞ」
登戸は構わなかった。
むしろ彼女は、お前も殺してやる、と思いつつ男の腹に拳を繰り出した。
ブローの先は、肝臓にクリーンヒット。
男の身体はくの字に曲がる。
この時、登戸には何の感情も生まれなかった。
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