第5話 敗北

「登戸千鶴っ!」

 女の子の声が、自分の名前を叫んだ。

 視線をやると、インターハイ予選の相手、村雲だった。

 だが、彼女との記憶が無い。

 知識としてはあるのに、予選の記憶がすっぽり抜けている。

 が、彼女は動揺を覚えなかった。

 飴玉に比べれば、そんな記憶の欠落など、些事に過ぎない。

  

 村雲がこちらに駆けて来る。

 登戸は視線を村雲に据えたまま、七三男の顎先にジャブ。

 男はアスファルトに崩れるが、やはり彼女は彼を見ない。

 視線の先は、あくまでも村雲だ。

 両手の拳を握り、構える。

 登戸は村雲より10㎝ほど長身である。

 リーチも長い。

 

 突進する村雲に、登戸の左ストレートが放たれる。

 上体を沈めかわす村雲の額を、登戸の拳がかすめた。


 村雲はインファイターだ。密着に近い間合いは彼女の空間である。

 腰を大きく回転。左鉤突き。拳の軌道は半円に近い弧を描き、登戸の右リバーに直撃……する前に、こめかみに衝撃。

 

 村雲は、何が起きたのか分からなかった。

 ただ、首から上が吹っ飛ぶかと思った。

 横方向に吹っ飛び、肩からアスファルトに崩れる。

 暗い路地のアスファルトは生暖かく、肩の肌も酷く擦る。


 登戸は、半身になっていた。

 腰の上まで左膝を上げて、村雲を見下ろしている。

 ストレートをかわされた瞬間、彼女の膝は自然に動いた。


 中学の時に空手をやっていたし、夜にはムエタイの教室にも通っていた。

 彼女のしなやかな肢体はムエタイ向きだ。

 動体視力も優れている。

 が、細身すぎて重いパンチが打てない彼女は、高校でボクシングに進んだ。

 ずっと忘れていた動きである。

 が、記憶がなくなったからだろう。

 代わりに中学の空手を、身体が思い出したのだ。


 登戸にとってそれは驚きだったが、感動ではない。

 ただの事実である。

 膝をこめかみにまともに受けて、地にはいつくばる村雲奈菜子は、呼吸する肉の塊であり、それ以上の意味を持たなかい。

 だから登戸は感情なく、村雲を見下ろした。


 村雲は彼女の目を冷たく感じた。

 メイクが濃いからではなく、本当に別人の瞳だった。

 熱量が無いのだ。インターハイの時よりも、強くなっている。

 実力は伯仲していると評されていた村雲のこめかみに、膝回し蹴りを叩き込んだのだ。

 容赦もためらいもない、見事な一撃だった。一撃というよりも、それは熱量の塊だった。

 格闘に関わる者の拳には、熱がこもる。それは、身体を、技を、そして心を鍛えぬく時間が拳に宿るからだ。

 けれど登戸の瞳は、死人みたいだった。

 死体のような、冷たい潤み方をしている。

 彼女はその瞳のまま、大人の表通りに向けて踵を返した。


 黒猫が物影からひょい、と現れて、優雅に路を横断する。

 途中、村雲に一度視線をやってから、興味をなくしたのか、反対側の物陰に消えた。

 

 熱くぼやける視界の中に登戸の姿を探すが、もう、どこにも見えない。

 何故視界がぼやけるのか。

 膝回し蹴りの衝撃か、眼の端から溢れる涙のせいか、村雲は分からない。両方かもしれない。


「登、ど……」

 自分の喉から出て来るのが、呼びかけなのか、泣き声なのかも、村雲は分からなかった。ただ、とても悲しかった。


 登戸は坂を下ってから、繁華街を抜け、駅に至ったが、その時点でバッグから財布が消えている事に気が付いた。

 どこかで落としたのだろうか。

 男2人と少女を1人、派手に打ちのめしたのだ。

 財布を落としたのなら、そこだろう。

 と、登戸は思ったが、戻る気にはなれなかったので、彼女はそのまま自宅まで歩くことにした。

 照りつける陽は強い。身体は水と塩分を欲している。

 が、それ以上に強いのは、飴玉に対する飢餓感だ。

 彼女は一度眉をひそめてから、自宅に続く路、市立病院の前を通る大通りを歩き出す。

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Candy 症候群 くろすろおど @crossroadtkhs

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