第2話 インターハイ



 登戸千鶴は8月初めの本選で、1回戦負けをした。

 TKO、判定負けだ。

 彼女は万全の態勢で試合に臨み、自分と同じタイプのアウトボクサーと戦った。

 1発の重さは村雲の方が重い。

 空間の取り方は登戸の方が巧い。

 手数は同じ、ポジショニングの実力も伯仲。

 ただ、相手のリーチが登戸より3㎝長い。

 そのため拳は、数発分、多く届き、結局それが勝敗を分けた。

 

 試合終了後、登戸千鶴は俯いて、コーチの慰めの言葉を聴く。

 コーチは試合内容を詳細に渡って振り返りながら、『負けてはいなかった』という事をひたすら言い続けた。

 が、彼女の心はそこになく、ただ、2か月前の試合を思い出していた。

 砲弾のような女子高生、村雲奈々子との濃密な時間。

 

 工業高校の村雲からすれば、私立進学校の女子生徒など、なまっちょろいもやしと変わらないはずだった。

 が、村雲が放つ異彩は群を抜いていた。

 その異彩と2か月前に、魂をぶつけ合ったのだ。


 ― 予選決勝でわたしが勝った時、村雲奈菜子(あのこ)はどう思ったんだろう? ―

 

 敗北は魂に響いてきて、頬を涙が自然に伝う。

 それを手の甲でぬぐいながら、登戸は村雲と話したくなった。


 その晩、彼女は不思議な夢を見る。

 翌朝起きると、何かとても大切な記憶が、喪われているのを感じた。

 それが何か分からない。

 ただ、村雲奈菜子と話したい、という気持ちは綺麗さっぱり消えてしまった。

 

 その夜、彼女は自宅を抜け出し、自転車で繁華街のクラブに向った。

 年齢を偽って入店し、音楽に合わせて身体を動かす。

 波にたゆたうクラゲのような気分で、ひたすら踊る。


 これは、ごくたまにする彼女の火遊びだった。

 火遊びといっても、仏頂面のため声はかけられないから、問題は起きない。

 が、この夜は違った。


「むしゃくしゃしてんだろ」

 金髪に顔中ピアス。前歯が上下一本ずつ欠けた男が、話しかけてきた。

 むしゃくしゃしているのは、事実だった。

 大切な何かが喪われている。だけど、それが何か分からない。

 焦り、不安、悲哀、その全ては一体となって、結局怒りという感情になった。


「『飴玉』あるぜ。とびきりのヤツだが、お試しって事で、タダでいい」

 分かりやすいやり口。

 普段なら無視をする。が、この時は違った。

 登戸は頷き、金髪に先導されて、トイレ前まで行く。

 変哲の無い、赤の飴玉を渡され、男に首を傾げる。

 男は悪戯っぽく笑った。


「ま、試してみろって。すげえから」


 本当にスゴかった。

 大切な物とか、記憶とか、この世のあらゆる物がどうでも良くなる位の多幸感。

 とても熱く濃密な感覚。全てを出し切った後にこそ到達できる境地。

 

 ……登戸は飴玉の虜になった。

 

 翌日、貯金を全額下ろしてクラブに向う。

 男を探し、金を渡して、ありったけの飴玉を買った。

 そして、その晩に全て舐め切ってしまう。

 飴玉は固いが、舌の上にのせると、一瞬で溶けるのだ。


 その夜、登戸は親の財布から金を盗み出し、やはりクラブに向った。

 が、男は

「もう、在庫ねえよ」

 と言って肩をすくめて笑うのみ。

 それは価格を釣り上げる方便だとか、口実に何か怪しい事をさせる、とかそういう事ではなく、本当に

無い様子だったので、彼女は落胆した。

 が、仕方ない。

 それならば、自力で探すのみである。

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