エピローグ

 季節がいくつか移り変わった。

 あれから一時的に酒も煙草も止め、毎晩走り込み身体を鍛えることで鬱だった精神との平衡を取り戻すことに努めた。

 今では少しだけ作り笑いが出来るようになった。



 受付時間を過ぎ、残った患者の施術も終えて院内の片付けでもしようかと腰を上げた午後八時半。

 ほんの数分前にマナーモードを解除した携帯電話は、懐かしい名前を液晶に映し出しながら着信音を鳴り響かせた。

「御久し振り・・・です」

 姓が変わった ―ユキコのぎこちない挨拶。

「ああ、元気か?」

「はい、お陰様で」

「調子はどう?発作とか」

「だいぶ良くなりました。発作は・・・まだ、たまに出ます」

「なんだか他人行儀な喋り方だな」

「・・・もう人妻ですから」

 改めて本人の口から聞く言葉に、少しだけ胸が痛む。

「今、大丈夫ですか?」

「構わないけどそっちは今一人なのか?」

「主人は今日、帰りは九時過ぎだから」

 主人などという言葉も出来れば聞きたくないものだ。

「コウスケから元気がなかったように聞いたんですけど、先生は調子、大丈夫ですか?」

「まあ、とりあえずは」

 コウスケ相手には極力平静を装っていたつもりだ。

 その程度で伝わっているのなら彼女が気に病むことはないだろう。

「それで?久しぶりに声が聴けて俺は嬉しいけど、何かあった?」

「うん・・・実は来月引越しすることになったの。主人の仕事の都合で」

「そうか・・・どこへ?」

「――県」

 遠くの県の名前を口にする。

「遠いな」

 今でも近くにいるからといって会うことは無い。

 それでも何故か離れることに寂しさを感じた。

「だからその前に謝りたくて」

「何を?」

「先生のお祖父さんが亡くなってから、私が何も言わずに会いに行かなくなったことを・・・」

「心配しなくても気にしてないよ」

「でも先生が辛い時に見捨てたようで、本当は私、傍にいようと想ってたのに・・・」

「でも、通夜に来てくれてたんだろ?」

 電話の向こうで息を飲む音が聞こえる。

「知ってたの?」

 彼女はこちらに気付いていなかった。

 思い返せばあの位置からは逆光で、こちらの顔は分からなかったろう。

「駐車場脇の道路の白い車、自信無かったけど多分そうじゃないかと思ってた」

「うん・・・入れなかった・・・」

 言葉少なに答えたのは異なる宗教の祖父に配慮してのことだろう。

 何を言い訳にしても否定につながる。

「まあそのあとじゃ嫌でも気付くよ、なんで来なくなったのかくらい」

「・・・そうだったんだ」

「お前の病気のこともコウスケ君から聞いていたから悩んでいたことも分かってる。だから俺も我慢した。予想外なのは結婚くらいか、あれには驚いた」

「落ち込んだ?」

「いや、素直に受け入れたよ」

 少しくらいの見栄は許されるだろう。

「恨んでない?」

「全然」

 これは本当だ。

「恨むようなら最初から好きになったりしないよ」

「ありがとう、嘘でも嬉しい」

 いつのまにか以前のような自然な口調で話している。

「今、幸せか?」

 あまり聞きたくないが、聞けば安堵出来るような気がした。

「分からないけど、穏やかには暮らしてる」

 相変わらずの彼女らしい答え方だ。

「主人もいい人よ。こんな身体の私を受け入れてくれたし、婚約する時、先生のことも話したの。それでも構わないって」

「旦那のことは愛しているのか?」

 聞きたくもないが、自分が身を引いただけの甲斐があったのかを知りたかった。

「いい人・・・だと思う。でもほら、女は愛されているほうが幸せになれるって言うし・・・」

「違うのか?」

「・・・どうなのかな」

 何か引っかかる煮え切らない答えは、彼女の幸せに疑心を湧き上がらせる。

「本当にお前が望んだ結婚だったのか?」

 意に沿わぬ結婚ではないかと考えていたこともある。

「同じ宗教って理由だけで結婚したのか?」

 ただ流されての、病から逃げる為の結婚も、彼女が望む結婚の形であればそれが幸せに繁がるのかもしれないと自分を納得させていた筈だった。

「素直に受け入れられたわけじゃない。本当は全部捨ててもお前を奪いに行きたかった。それでもお前の意志で決めたことならと耐えていただけだ」

 否定も肯定も無く沈黙を続ける彼女に、抑え込んでいた想いが噴き出す。

「それが幸せだと、お前が笑っていられるならと、そうじゃないなら・・・」

「だって分からないよ」

 彼女に声を荒げ遮られたのは初めてだった。

「先生がいなかったから・・・寂しくて・・・苦しかったから・・・」

 次第に啜り泣くような声に変わっていく。

「不安で・・・怖くて・・・逃げ出したかったから結婚って言われた時にわたし・・・」

「・・・悪かった」

「いまでもわたし・・・せんせいのことが・・・すきなのに」

 かすれた声でむせび泣く彼女にかける言葉が見つからなかった。

「あいたい・・・あいたいよぉ・・・」


「ごめんね、先生。また困らせちゃったね」

 結局最後まで泣かせてばかりだった。

 これではとても幸せになど出来なかったのだろう。

「いや、俺のほうこそ・・・済まなかった」

「だけどもう、これが最後だから・・・」

「ああ」

 漂う寂寥感が偽りない終焉を迎えたことを胸に告げる。

「まあ、嫌になったらいつでも離婚して戻っておいで、貰ってやるから」

「知らないの?キリスト教は離婚できないんだよ」

 多分、寂しそうに笑いながら言っている。

「分かったよ」

 離婚出来るようにと、イギリスをローマカトリック教会から離反させたヘンリー八世のような権力は、無い。

「じゃあね、先生」

「ああ、愛してるよ」

「・・・うん」

 どちらが先に切ったのか覚えてはいない。

 話し相手のいなくなった携帯電話を机の上に置き、揺れる煙草の煙をただ眺めていた。


 ― 終 ―

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接骨院にクリスチャン 藤 雅道 @masamichi

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