十九 2007年後期
九月の下旬。
祖母が体調を崩したり、叔母と口論があったりとはいえ、とりあえずは大した問題も無く、接骨院も順調で平穏な日常が続いている。
ユキコからの音沙汰がない日々は、それでもまだ平常心を保っていられた。
確信と言っても勝手な推論、面と言われたわけでもなく、長く姿を見せないことも珍しいことではなかった。
今でも心変わりを期待し、再び姿を現してもおかしくないと、まだ希望を持っていた。
完全な終わりを認めたくはなく、現実から逃避していたのかもしれない。
それでもそんな楽観的な観測は久しぶりに姿を現した弟コウスケの、悪気無い一言で打ち砕かれた。
「ねーちゃん、婚約したんスよ」
その男が姉の見舞いに現れたのは七月頃だった。
彼女と同じキリスト教の団体、コウスケも昔から顔は見知っていた男だった。
それから毎日のように見舞いに来ていた。
そこで何があったのか知らない。
九月に入り突然母親から姉が婚約したことを知らされた。
「それで三ヶ月後には結婚って話ッスから、何考えてるのか分からないッスよ」
コウスケが施術中でベッドにうつ伏せでいることが幸いした。
今の顔を見られたくはない。
「お姉さんの体調はもう大丈夫なのか?」
情けなくも動揺し、幾らか上擦った声だが気付かれてはいないようだ。
「まだ寝込んではいるみたいッスよ。あんなんで大丈夫なんですかね」
それでも一時期よりは回復した、食事の量も増え、時折家事をする姿を見かけると言うコウスケの言葉に安堵し、まだ相手を気遣う余裕のある自分に安心する。
早過ぎるとはいえ彼女が同じ宗教の相手と結婚をすることなど予測の範囲内だった。
これが彼女の決めた未来ならただ受け入れるだけ、そう決めていた筈だ。
それでも思考とは裏腹に心臓の鼓動がやけに早く聞こえる。
口の中は乾き、手が微かに震えていることに気付く。
鳩尾の辺りに僅かな痛みが走る。
平常心と言う名の仮面を被り直すには、今しばらくの時間が必要だった。
シャッターを下ろして、急な用事が出来たから今日は泊ると電話に出た叔母に告げる。
とてもじゃないがこんな気分では帰れない。
冷蔵庫から常時冷やしてある缶ビールを取出し一気に飲み干す。
空きっ腹の所為かやけに胃に沁みるのを堪えながら続けて煙草に火をつける。
二本目のビールを半ばまで飲んでも酔うことは無かった。
接骨院の目の前の路を時折通る車の音しかしない部屋の中で、椅子に身を任せ、中空を見上げて放心する様は傍から見ればさぞ滑稽だろう。
これでユキコは幸せになれるのだろうか。同じキリスト教同士の結婚は彼女が自ら望んでいたものだ。相手も昔ながらの宗教屋で知らない仲じゃあないらしい。それでも本当にこれは彼女の望んだ結果なのだろうか。鬱で弱った心に耐えかねて逃げただけなのではないか。弱った心に付け込まれての結婚なのではないか。彼女は本当に愛した相手と結婚するのだろうか。
客観的にみれば精神疾患を患った相手を嫁に望んだのだ、そのことだけでも相手を悪く言う謂れは無いのは分かっている。
それでもまるで、その相手の男が悪意を持っているかのような疑念さえ湧き上がる。
ユキコが本当に愛した相手と望んで結婚し、幸せになるなら身を引くことは厭わぬ覚悟だった。
それだけに違うのであれば正に身を切られるような思いになる。
あらぬ妄想や空想が泉の如く湧き上がる。
いつしか暴力的な衝動に包まれ、自制するように拳を強く握りしめた。
それでも彼女にしてきたことを想えば耐えるしかない。口約束でも立てた誓いを破る気はない。彼女の意志で決めたことなら、受け入れるより他はない。
気が昂ぶっていたのか午前三時をまわるまで、幾ら目を閉じても眠りにつくことは出来なかった。
それでもうとうとして、目が覚めたのは午前五時。
あまりにも早過ぎる目覚めに二度寝を決め込むが、全く眠れそうにはない。
原因は考えるまでもない。
心の動揺に、自覚したことのない精神の脆さを感じて我知らずに苦笑する。
このまま寝転がったままでもいいが、おそらく今はもう眠れないだろう。
諦めて起き上がり煙草に手を伸ばす。
これでよかったんだろう。
その結婚はユキコが望んだことで、宗教が優先なら例え愛が無くても幸せじゃないとは限らない。
癪だが現に精神疾患も回復の兆しを見せているとの話だ。
これで俺も吹っ切れる。
虚勢を張るように嘯きながら今はただ静かに夜明けを待っていた。
待つ必要が無くなった。
ただそれだけの変わらぬ日々が過ぎていく。
何も変わることはない、そう思っていた。
あれからまともに睡眠がとれない。寝つきが悪く二・三時間ですぐ起きる。起きて口の中が血だらけになっていたのは歯軋りの所為で、その音で度々目が覚める。
食事を身体が受け付けない。胃が悪いのか鳩尾の辺りがキリキリ痛む。食べても戻すか下すかの二択に、固形物の摂取は必要最低限に控えて栄養剤の世話になる。どこまで吸収されているか判らないが一ヶ月で五キロは痩せた。
表情がうまく作れない。顔は強張り、意識して口角を上げようとしても引きつり無表情を強制する。
以前はそれなりに社交的な会話を操り、接骨院内においては患者との談笑や無駄話に興じていたが、あれから業務以外のことは口にしなくなった。冗談や明るい話題さえも付き合う余裕が無くなり、単純な相槌程度はするものの症状の説明が限界で会話が思いつかない。
かろうじて施術は今迄通りにおこなってはいるものの、無表情に無口、どこか病的な様相にまともな応対が出来ずに空回りするばかりで患者は離れ、受付嬢も退職を願い去っていき、いつしか接骨院では独りの時間が増えていた。
客観的に診るまでもなく鬱状態を含む精神疾患に罹ったのだろう。
そう追い込まれるほど祖父の死で弱った心に彼女の結婚の報せは予想を遥かに超える衝撃で、その喪失感は初恋の時のそれ以上でもあったようだ。
ユキコを病に追い込んだ自分が、彼女のことで鬱になるなど因果応報もいいところだった。
頭では、理性では受け入れていたつもりでいたが、感情は別のモノだとつくづく思い知らされる。
彼女が出したどんな答えも黙って受け入れる、この有様で今思えば随分と安請け合いをしたものだ。
仏教書に極楽や地獄について集められた三巻十章からなる「往生要集」がある。
その地獄の描写の中、八大地獄のひとつ衆合地獄に、淫らなことを繰り返し行った者に与えられる責苦で「刀葉林」がある。
その林にある木の葉は刀の刃の様に鋭い。
地獄に落ちた男が木を見上げるとそこに美女の姿がある。
美女を求めようと木に登る男の身体を葉の刃が切り刻む。
抗えないのか抗う気がないのか全身の筋肉を引き裂かれながら頂上に登りきると、そこに美女の姿は無い。
見下ろすといつのまにか木の下に美女がいる。
男がまた求めて降りようとすると再び葉の刃が全身を切り刻む。
降りると美女は木の上に現れ男はまた登りはじめる。
これを永劫とも呼べる時間、何度も繰り返す。
失ってもまだユキコを愛し想う己に刀葉林が重なる。
叶わぬ恋に手を伸ばし自分自身が傷つく。
思えばユキコも同じ、会いたいと求める心が自分自身の心を傷つけていた。
求めなければ傷つくことも無いのに、ただそれだけのことが難しかった。
ユキコの結婚を迎える日が近づくごとに心は病に蝕まれ、その病状は悪くなるばかりだった。
いっそ仕事も何もかも投げ出し、この地を離れれば楽になれるのかもしれない。
それでも今日も朝から接骨院のシャッターを開ける。
鬱に任せてこの場所から消えることは、彼女と過ごした時間を否定するような気がして出来なかった。
彼女が離れたことにより何かが変わることを許さずにいた。
独りよがりのユキコへの想いが鬱に屈することに抗い、かろうじて生業を続ける為の心の平衡だけは保っている。
現状を知れば彼女は重荷とし、自分の所為だとまた思い詰めかねない。
知られてはならない。
面と向かって会えば異常に気付かれる。
だから会わずにいよう。
いつか会う時に心の底から結婚を祝い、幸せを望むと笑って言えるよう、今はただ平穏を装った日常を、足掻きながら意地でも送り続けようとしていた。
十二月、ユキコの結婚式当日。
初めて彼女と会ってから三年の月日が経っていた。
今年一番の冷え込みを報じるニュースを聞きながら、今日は天気がいいからと祖母を墓参りに連れ出す。
祖父の墓は家から近く、車で十五分程の小高い丘の上の霊園の一画にあり、祖母の気晴らしにでもなればと、納骨後は毎月必ず祖父の月命日前後の日曜日に連れて来ていた。
まばらに生えた雑草を引っこ抜き、花を供えて線香に火をつける。
コウスケから聞いた時間通りなら今頃式も始まっている頃だろう。
未だに断ち切れぬ想いに、自覚する病状は頂点に達し、胃の腑の辺りが握りしめられたように痛む。
いつもであれば祖母の前ではおくびにも出さずにいられるが、ここ数日はさすがに辛く知らずの内に顔が強張る。
たまらず空を見上げた。
こんな気分の時は誰でもするだろう。
やるせない心を映したかのような空の青がやけに目に沁みた。
祖母の呟くように拝む声が聞こえる。
墓参りや拝むことに意味を求めるのは野暮だろう。
これで祖母が慰められるなら、それなりに価値があるというものだ。
後片付けを済ませて帰り際、墓を振り返る。
宗教は嫌いだ。
死後の世界も信じちゃいない。
それでも
「また来るよ」
墓に声をかけた。
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