十六 2007年1月

 先月十二月の初めにまた祖父が転んだ。

 以前倒れた時から右半身が動かしづらく、そのこともありバランスを崩したようだ。

 同じように頭を打ったのだが、今回は自力ですぐに起き上がったこともあり本人としては「大丈夫」の一点張りであった。

 それでも傍から見ると動作は鈍いしろれつがまわらないのも悪化したように感じる。

 掛かりつけの医院での、とりあえずの診断では問題なかったとはいえ、精密検査を受けるべきだと言ったのだが聞く耳を持たない。

 心配で駆け付けた叔母からもかなり口やかましく言われていたが、暖簾に腕押し糠に釘、どうも昭和初期の生まれは頑固でいけない。

 しばらくの間も体調を崩すなど、なんだかんだと目を離せない状況だった。



 そんななか正月が過ぎた頃、叔母が仕事を辞めて帰ってきた。

 祖父母を心配して、だけでなく色々あったらしいが、昼間何かあった時のことを考えれば心強く、今迄も頻繁に来ていた為、特に問題も無く同居が始まった。

 ここのところ仕事以外の時間は祖父母にかかり付けだった為、これには助かり、おかげで心配なく家を空け、再び接骨院に泊まり込むようなことも出来るようになっていた。



 土曜日、接骨院は午前中で受付終了。

 シャッターを閉めると気が抜け、早々に二階でビール片手にくつろいでいた。

 叔母の引越しも落ち着いてからは、土曜日の夜は接骨院に泊り、日曜の朝に家に帰る生活を送っている。

 年末年始におざなりにしていた事務や雑用を片付ける為と祖父母や叔母には説明したが、半分は独りで過ごす時間が欲しかったこともある。

 集中すれば一,二時間で終わる程度の事務も今日は気分も乗らず、アルコールがほど良く回った頃にはテレビを見たり、雑誌を読んだり、眠くなったので昼寝して、関係のないことにうつつ抜かしてすっかり遅くなっていた。

 ようやく事務仕事を始めようとパソコンの前に座ったが、しばらくすると今度は仕事と昼寝でべたついた体が気持ち悪い。

 席を立ち、先にシャワーを浴びてようやくやる気がでてきた。

 時間はすでに午後九時をまわっている。

 ビールを一本だけ飲み、再びパソコンの前に座り、事務を再開したところで携帯電話が鳴り響いた。

 ユキコだ。


 十二月に入ってから携帯電話での連絡は取っていたが、直接会ってはいなかった。

 祖父のことなどがあり、また彼女が年末年始周辺にあったキリスト教の行事を優先して参加していたこともある。

 彼女の体調も気になっていたがすれ違いが多く、慌ただしさからメールが来ても返すことすら怠りがちであり、年が明けてからは電話もメールでも連絡が来ることは無かった。

 数週間連絡がないことは珍しくないが、やはり心配もあり、こちらからは連絡しないといった制約に幾らかもどかしい気分でいたところの電話だった。


「お久しぶりです」

 病状があまり思わしくないような低い声。

 挨拶もそこそこにユキコは本題を切り出した。

「今から来てもらえないかな?」

 両親が仕事の付き合いで地方に泊りで出掛けたらしい。

 弟コウスケが帰ってくる予定だったが土曜の夜だ、飲み会で明日の昼には帰ると連絡があったとのことで、家に独りで一夜を過ごすことが決定したらしい。

「急に不安で発作が起きたの」

 息が荒いのは治まってまだ間がないからだろう。

 アルコールが入っていたこともあり、歩いていくので少し時間がかかると伝えて電話を切る。

 事務の残りはまた時間を作ってやることにしようと諦めた。


 道路脇にポツポツとある店舗のシャッターも閉まり、民家も寝静まった時間は街灯があるとはいえ圧倒的に暗がりの占める割合が多い。

 一月中旬の深夜にしては軽装であったことを歩きながら後悔する。

 普段は車ばかりの移動でTシャツの上にコートだけでもそれほど気にならないが、歩いての移動ではその寒さが異様に身に沁みていた。

 少しばかり歩みを速めたその頬に冷たい感触を感じ、空を仰げば微かに見える程度の雪が舞い始めていた。


 家の前に着いたことを携帯電話で伝える。

 正面の玄関は店構えの大きな造りで出入りには少々目立つ為、家の右横の奥まったところにある勝手口から入るように言われた。

 指示通り家と家の狭い隙間に、周りに気を配りつつ侵入する。

 まるで夜這いにでも来た気分だ。

「ごめんなさい」

 そういって申し訳なさそうに出迎えたユキコは赤のチェックのパジャマに薄いカーディガンを羽織っている。

 いつもなら彼女は寝床に入っている時間だ。

 促されるまま二階に上がる際、念の為に靴はビニール袋に入れて持って行く。

 用心にこしたことは無い。

 二階の、玄関から見て一番奥の部屋がユキコの部屋であり、引き戸を開けると見覚えのある布が垂れ下がっていた。

「覚えてる?あの時の生地」

 一緒に行った店で買った布生地だと、正直柄は忘れかけていたが見たら思い出した。

 大きさを合わせて、端を綺麗に処理して、旨い具合に暖簾風に仕立てあげていた。

 夏の暑い日には風通しをよくする為、戸を開けた時などに便利だろう。

 なんとなく仕舞い込むのが惜しくて冬の間も掛けっ放しだと言う。

 贈り物のその後などあまり気にしたことがないが、こうやって使って貰っているところを見ると妙に照れくさい。


 部屋の中は女性にしては殺風景な、無駄なものが見当たらないよく整理整頓された部屋だった。

 入口から入って右手には壁に沿ってベッドがあり、奥の枕側の横に同じ高さの低い棚には目覚まし時計とライトスタンドとミニコンポが置いてある。

 向かいの壁際部屋の一番奥に学習机があり、手前には並んで化粧台が、六畳の部屋の中央には小さな丸テーブルがあり、それで目につくものは全てである。

 本棚は整理され、机や化粧台の上には目立つような小物は無く普段不要なもの引き出しなどにきちんとしまってあるようだ。

 ここまで見た目片付けが行き届いていると押入れの中なぞ勘ぐってみたくなるのが人情だが、彼女の性格を考えればさして意外性のある結果にはなりそうにもない。

「紅茶でいい?淹れてくるから座って待ってて」

 急ぎ足で階下に降りていく足音を聞きながら、言われるままに空いている場所に腰を下ろす。

 テレビはおろか暇をつぶせそうなものが何一つ無い部屋では大人しく待つより他はなく、暖房の暖かい風と抜けきっていないアルコールの所為もあり適度な睡魔が襲ってきた。

「おまたせ」

 戻ってくるのが一分遅ければ涎の一つも垂らしていたところだ。

 丸テーブルの上に紅茶の入ったティーカップを二つ、ご丁寧に受け皿付きで置き、砂糖とミルクを添える。

 ふとカフェインはと思いだし口に出かかったが、まあいいだろうと思い直す。

 今夜はずっと傍にいるつもりだ。

 すぐ横に座り紅茶に何か入れるか尋ね、いらないと答えると自分のカップにミルクを入れて一口飲むとフーと小さく一息ついた。

「こんな夜遅くに、男の人を部屋に入れるのも初めて」

 恥ずかしいような嬉しいような、そんな表情を浮かべている。

 規律の中で育ってきた彼女にとってはちょっとした冒険のように思えるのかもしれない。

 そんな初心な心根が感染でもしたのか妙に照れくさく、思わず目を逸らしカップに口をつける。

 温かい紅茶が胃に流れ込むと気持ちよく身に沁みて、改めて冷え切っていた自分の体を自覚した。


 ようやく人心地がついた気分でコートを脱ぎ無造作に後ろに押しのけると、ユキコは当たり前の様に立ち上がり、コートを拾い上げハンガーを取出し壁に掛ける。

 几帳面にもしわを伸ばしている姿が妙にほほえましい。

 何を見てるのと言いながら元の位置に座る。

 どうも見過ぎていたようだ。

「そういやここのところ連絡無かったけど調子はどう?」

「調子は・・・相変わらずかな」

 病気のことを尋ねるといつも辛そうに笑顔をつくる。

 そんな姿が痛々しい。

「年が明けてからはちょっとダウンしてたの。年末は家の仕事で忙しかったからそれでかな」

 どうも自分の体調を考えずに許容以上の仕事量をこなしていたようだ。

 元々の性格に加え病気のことで引け目もあり、無理していたのかもしれない。

「まあ正月休みとでも思ってゆっくり休め」

 たぶん気休めにもならない言葉だ。

 何かの役に立ちたいと常日頃強く願う彼女にとって現状はもどかしさで身を切る想いだろうことは理解している。

 かける言葉を探す間の沈黙のなか、ユキコの体が大きくよろけた。

 咄嗟に手を伸ばし支えようとするが、すぐに回復したように姿勢を伸ばして顔を上げる。

「ごめんね、ちょっと眩暈がしただけ」

 明らかに大丈夫じゃなさそうな顔で大丈夫だよと笑いかける。

 考えてみれば謙虚な彼女が「ちょっとダウンしていた」だ。

 現実は体調を崩し起き上がれず寝込んでいたことを指すのに等しい。

 そして今も尚その状態であり、表には出さないように努めていたことを今更ながらに気付いた。

「調子が悪いなら早く言えよ」

「・・・余計な心配をかけたくなかったから」

 実は座っているのも辛いと、ここでようやく申し訳なさそうに小さく呟いた。

 呼び出された時点で心配はしているわけで、今更の気遣いだ。

 この辺りは根本からズレているとしか言いようがない。

 性格か病気の所為かはこの際問うまい。

「もう大人しく寝ときな」

 問答無用で抱きかかえる。

 ひとりで立てる、歩けると抵抗はされながらも無視して運びベッドに下ろすと、ユキコはむくれたような顔をしながら布団に潜り込んだ。


 ベッド脇の床に腰を下ろして布団の中のユキコの手を握る。

「今夜はずっとこうしててやるから安心して寝てろ」

 思いつく限り紳士的に振舞おうとは思っていた。

 どうせ不安になって呼び出したはいいが、どうやって一晩ふたりで過ごすかまでは考えていないのだろうと高をくくっての配慮だ。

 元々今回の訪問に何かを期待していたつもりもなく、彼女の宗教的倫理観をまた無用に刺激しないように初めからこうするつもりだった。

「ずっとそうしているつもり?」

「おう」

 おあつらえ向きに暖房はついていることだし寒ければコートを羽織ればいい。

 座りながら寝るのは学生時代の授業中の要領で慣れている。

 下手をすれば疲れていたこともあり、このまま彼女よりも先に寝てしまいそうだ。

「・・・こっちにきて」

 手に引っ張る力が加わった。

「無理するな、これ以上は・・・」

「いいから・・・横にきて」

 どうしたものかと迷いはした。

 それでも特に固辞するほど固い決意だったわけでもなく、言われるままに布団の中に潜り込み腕枕などしてみる。

 彼女の頼みでもあり、このくらいまでなら大丈夫だろうと判断しておく。

「これでいいか?」

「・・・電気消して欲しい」

 なら布団に入る前に言え、とぼやきながら照明の灯りを消しに布団から出ると、ユキコは寝たままの姿勢でエアコンのリモコンに手を伸ばして停止のボタンを押しながら、寝る時には真っ暗にするから、と注文を付け加える。

 言われた通りに垂れ下がる紐を三回引っ張って完全に消灯してから、再度布団に潜り込んだ。

 そのやりとりの間、隠しているつもりなのだろうが、かなり調子が悪いことは声に含まれた響きで嫌でも気付く。

 何が出来るわけでもなく、大したことも思いつかず、馬鹿の一つ覚えのように向かい合うように抱き寄せて背中を擦り始めた。

 嫌がる素振りも無くされるがまま、自分から身を寄せ、体を密着させて足を絡ませてきた。

 鼻腔をくすぐるシャンプーの香りと、薄い布越しからも感じる肌の温もりと感触。

 自重していた下腹部の男の部分が彼女の太腿の位置で次第に固さを増していた。

 さすがにユキコも何が当たっているのかに気付いたようで少し身を固くする。

「襲ったりしないから安心しろ。気になるなら少し離れたほうがいいぞ」

 健全な男子の反応で、こればかりはしょうがない。

 行為に及ぶつもりはないとはいえ反応に抑えが効くほど下半身とは従順なものではないのが厄介だ。

 とりあえず身を離そうとした。

 気にしない、とでもいう風にユキコは無言のまま、改めて体を密着させて胸に顔をうずめてきた。

「先生は私の、宗教のことがあるから我慢してくれてるんだよね・・・」

 苦笑で答える。

 困ったことに元々それほど禁欲的でもない。

 確かに宗教を考えなければ、この状況なら遠慮なく頂いてしまう自信があるので否定が出来ない。

 それでも彼女に対しては結婚しない限りその行為に及ぶことが出来ない、許されないことは言われるまでもなく理解しているつもりであり、何を今更と背中を擦り続けて聞き流す。

「でも・・・今は忘れて・・・我慢しなくていいよ」


 その言葉がどういう意味をもつのか理解するまで数瞬かかった。

 背中を擦る手を停め頭の中を整理する。

「いいのか?しても」

 たいがい野暮な台詞だが、相手が相手なだけにおもわず聞き返す。

「・・・してもいいなんて言えないけど・・・」

 けど、に続く言葉は肯定にしかならないだろうが口にはしない。

 それでもキリスト教に縛られた彼女にとっては、それが言葉に出来る限界であることは容易に察することが出来る。

 目が慣れてきた暗闇のなか、胸の中で顔を上げたユキコと目が合う。

 その表情は不安と幾らかの怯えを浮かべながら、それでもその真っ直ぐな眼差しに意志は固く、強い決意を込めていた。


 顔を近づけるように体を動かすと抱きしめていた腕から緊張が伝わる。

 熱く荒い吐息を感じる距離までゆっくりと近づく。

 目を閉じた彼女に唇を重ねると受け入れ、呼応するかのように舌を絡ませる。

 幾度口づけを繰り返しただろう。

 初めの頃はぎこちなかった舌の動きが今では滑らかにこちらの動きに反応し、時に驚くほどの技巧を見せ、貪るように求めている。

 飽くことなく続けられる行為の中、まるで離れるのを恐れるかのように身を摺り寄せ、いつのまにか背中にまわされた彼女の腕には、感情の昂ぶりと共に次第に力が込められていくのを感じる。

 熱く火照ったユキコの肢体を強く抱きしめ、その頬から首すじに唇と、舌をゆっくりと這わせていき、なかごろで大きく吸う。

「あっ・・・」


 身体を起こしてユキコの髪を撫でる。

「やっぱりやめよう」

「・・・え?」

 呆気にとられた表情が暗闇の中で浮かぶ。

「どうして?」

「さっきから震えっぱなしだ、それに・・・」

 親指で目の下の頬を拭う。

 我ながら気障な振舞いだ。

「こんなこと、泣きながらするもんじゃないだろ」

 我慢していた、それでもこぼれていた涙だった。

 張りつめていた糸が切れ、堰を切ったように涙を流して声をあげながら泣きじゃくり始める。

 深夜に響くその声が隣近所に聞こえないか、それが心配だった。


 腕の中でユキコが落ち着きを取り戻したのはかなりの時間が経ってからのことだった。

「随分らしくない真似をしたもんだ」

 あれから背中を擦り続けていた所為か少し腕が怠い。

「だって、私には何もできないから・・・」

 思い詰めたように口を開く。

「先生は優しくて、色々としてくれて、私は迷惑をかけっぱなしなのに・・・」


 好意による優しさはいつも不安が付き纏う。

 行動に見返りを求められるのは怖い。

 それは過去のストーカー行為により受けた心的外傷に含まれる。

 「あれだけしてやったのに」は男の動機の言葉だった。

「最初は先生に優しくされることも不安だったの」

 それが杞憂だったと分かる頃、あまりにも相手の優しさに甘え頼りきっていた自分がいたことに気付いた。

 想いに応えたい、その気持ちに報いたい。

 それでも交際は、結婚は出来ない。

 そのことが相手の為に何かしたいと言う心に歯止めをかける。

 関係を断つことが出来ずに、甘えたままでいる弱さが嫌だった。

 清算を決意し、最後に何かを遺してから終わらせようとした。

 出来ることは思い浮かばずに、その時初めて今の自分自身には何も無いことに気付いた。

 病のこの身体しかなかったと彼女は語った。


「今の私には・・・これしかないから」

 悲しそうに眼を伏せる。

「一度だけ先生の好きなようにして貰って、できるか分からないけど終わりにしようと思ったの。そうしたらあとは一生独りで生きていくつもりで」

「独り?」

「相手は同じクリスチャンの人じゃないと、っていうのは変わらないの。だけどそう言っても、こんな病気の人もらってくれる物好きもいないでしょ。だから結婚は諦めたの。だから・・・」

 背にまわしてきた腕に再び自らの決意を示すかのように力を込める。

「だから・・・先生、続けて」


 断る理由は無い。自らの意志で抱かれることを選んだのだ。ここまで言われて相手に恥をかかすこともないだろう。抱いたからといって責任を負う必要もない。


 そんなことを考えなかったと言えば嘘になる。

 それほど人間が出来ちゃいない。

 それでも答えは決まっていた。

「やめとく」

 男としての機能に問題があるわけでもない。

「どうして・・・もう泣かないから」

 そう言いながら今にも泣きだしそうな表情で顔を上げる。

「それともこんなになった私じゃ、する気も起こらない?」

 痩せ細った躰に乾いた唇と肌。

 いつ始まるか分からない発作といつ終わるか分からない鬱。

 まるで価値が無いとでも言うように自分を卑下して諦観したような言葉は、これまで独り悩み苦しんだ悲痛な想いの叫びにも等しい。

 だからこそ出来るわけがない。

「したいのは山々だけどね。でもそいつは結婚してからのお楽しみにとってある」

「結婚はできないって言ってるのに・・・だから・・・」

 切実な眼差しと目が合い、静かに呟く声が耳に届く。

「希望を持つのは自由だろ?まかり間違って添い遂げる可能性も無くは無いんだ。その時は気兼ねなく、この身体を思う存分楽しませて貰うつもりだから楽しみにしておけ」

 背中をポンとたたく。

 慰めることより未来を語ることが彼女の救いになるような気がした。

「だからお前は気兼ねなく処女のままでいればいい。ちゃんとヴァージンロードを胸張って歩けるようにってな。こいつはもう俺自身が決めたことだ」

 それでもまだ彼女は続けることを止めなかった。

「でも私がもう会わなくなったり他の男の人と結婚したらどうするの?報われないと思わない?そうなったら幾ら先生でも恨んだり憎んだりするでしょ?だからせめて一度だけでも・・・」

 だから身体を許して免罪符の代わりにでもしようというのか。


 変わることのない哀切の願いを断ち切るように一度、唇で口を塞いだ。

 言葉を発することが出来なくなった代わりに涙が溢れ出したユキコから、ゆっくりと身体を話して静かに、穏やかに尋ねた。

「お前は俺のこと、まだ好きか分からない?」

 まだ彼女は頑なに言葉にはしたことが無い。

「こんな時に何を・・・」

 今迄は分かりきっていたことだから追及する気も起きなかったが今は違った。

「答えて」

 濡れた頬に手をあて真っ直ぐに見つめると、躊躇いながらも口にした。

「すき・・・かもしれない」

「愛してる?」

「・・・愛してる・・・とおもう」

 初めて口にした言葉に恥じらうように目を伏せる。

「充分、その言葉で報われた」

 呆気にとられたように顔を上げる彼女が愛おしい。

「見返りなんてその言葉で充分、もっとも言わせなくても分かってたから今迄も報われていたけどな。だからそれ以上を望むってのは、それこそ過ぎた話だ」

 愛したことだけで幸せになれていた、愛されていたことでなお報われていた。

「俺も、愛してる」

 今はただそれだけを伝えたい。

「愛して、愛されて、それで充分だ。例え今の関係が一生続いても、愛し続けることを約束する」

 再び声をあげて泣き出す彼女が落ち着くまでには、また暫らく時間が必要だった。


「ごめんね、もう大丈夫」

 パジャマの袖で涙を拭うその顔に、今は穏やかな表情が浮かび始めている。

「大体散々事前説明されているんだ。今更お前がどんな結末を選ぼうと恨みやしない、それこそ余計な心配ってもんだ」

「信じていいの?」

 もう疑っての言葉ではなかった。

「おう、だからもう二度と変なことは考えるなよ。その代り今日はキスなら飽きるまでしてやるから、それで我慢してくれ」

 我慢なんて、と少し怒ったように反論しかけた口を唇で塞ぐと、すぐに応じるように自ら積極的に求め始めてきた。

 まるで何か吹っ切れたかのように。

 腕の中で全てを委ねるように身体を預ける彼女が愛おしく強く抱きしめたると喘ぐように囁く声が耳に届いた。

「せんせい・・・あいしてる」


 まだ陽も昇らぬ冷え込みの厳しいなか、街灯に照らされながら接骨院へと帰る道筋を辿る。

 午前五時頃の人気のないうちにユキコの家を出たのは、両親が何時頃か分からないが朝方に帰ること、ご近所の目のことも考えてのことだ。

 寝不足気味の靄がかかったような頭で昨夜のことを思い出すと随分と恥ずかしい台詞を連発していたものだと赤面する。

 あまり深夜に語るような真似をするもんじゃない。

 妙な高揚感は気分に流されて碌でもないことを口走る。

 それでも帰り際のユキコの表情を思い出せば、それなりに甲斐はあったのかもしれないと前向きに考えてみることにした。

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