十五 2006年6月
夕方の六時前後からは会社帰りの患者で少しだけ混み合う。
この時間受付嬢は帰ってしまい一人になる為、受付の仕事もやらなければならず少々の人数でも慌ただしくしてしまう。
今はベッドに二人、待合室に一人。
また一人入ってきた音が聞こえ、切りのいいところで施術の手を停め受付に向かう。
「すいません、初めてなんスけど・・・」
髪の毛を茶色く染めた中背中肉の作業服姿の若い男だ。
細く吊り上がった眼に少し厚い唇、色男とはお世辞にも言えないが全体的に見るとそれなりに整った顔立ちはしている。
昔は真面目な優等生、では確実になかったであろう雰囲気をもつ今風の若者だ。
「交通事故で追突されて首が痛いんスよ、診て貰えますか?」
ふてぶてしい口調の中に妙な人懐こさがある。
「それではこちらにお名前、ご住所、電話番号と、下は分かる範囲で結構ですのでご記入ください」
問診表を渡し、その間に他の患者の施術を行う。
「書きました、置いときまーす」
受付のほうから男の声が聞こえた。
一人の施術を終えて受付のカウンターに行き、問診票を確認する。
見覚えのある苗字に、ある女性の顔が脳裏をかすめたが、同姓など珍しくも無く、見知った相手とは顔つきも違えば歳も一まわりは違う。
何よりキリスト教が欠片も似合いそうにない。
普通に応対し、普通に施術し、普通に帰した。
「弟来たでしょ」
一週間振りに接骨院に姿を現したユキコは悪戯っぽく笑う。
病院に付き添った日から一ヶ月余りになる。
未だ「頼りにしない」と気張ってはいるが、一週間おきに来るところを見ると目標の達成はまだまだ難しいようだ。
無理に意地を張らずにもっと頼り、甘えて欲しいものである。
心配な病状は変わらずで、あれから体重もまた一キロ落ちたらしい。
あいかわらず発作も起きて度々寝込んでいると話に聞くが、今日は調子が良さそうだった。
「あの子そうなのか。おまえと同じ追突されたってのが来たけど」
コウスケ、という同じ苗字を持つ患者の顔を思い出す。
「全然似てないな」
どう違うかはさて置いて、素直な感想を漏らす。
「そうなの。私は父親似で弟と妹は母親似になるから」
弟とは十一歳、妹とは三歳違う。
妹は嫁にいき、家に住んでいるのは彼女と両親と弟の四人であるらしい。
「弟はキリスト教じゃないのか?」
想像はつくが一応聞いてみると、とんでもない、とでもいうように施術中にも拘らず首を横に振る。
「あの子だけ違うの、父も母も妹もみんなキリスト教なのに。小っちゃい頃はいい子だったのよ、ちゃんと洗礼も受けたのに」
【 洗礼とはキリスト教に入信する際に全身を水に浸す、もしくは簡略化して頭部に水を触れさせる儀式である。
これは水の中に完全に浸されることでキリストの死に預かり、そこから引き上げられることによってキリストと共に復活するという意味が込められている。
洗礼によってキリストの死と復活に預かり、原罪と自罪と及びその罰とを赦され、恩寵によって永遠の生命を受け継ぐものとなる、とされている。
原罪とは解釈が各教派によってかなり違うのだが、一例として挙げておくと「創世記」で蛇にそそのかされたイブが善悪の知識の実を食べて、主の怒りによりアダムとイブがエデンの園から追放され、その罪が子孫に引き継がされたことを指しているようだ。
自罪とは人間が生まれてから犯した罪のことである。
また洗礼を受ける時に洗礼名、クリスチャンネームを授かる。】
「あの子が中学生や高校生の時、大変だったんだから。何度も警察のお世話になって」
施術中、うつ伏せなので表情は見えないが、さぞ立腹した表情をしているのだろう。
どうやら身内だけに評価は厳しいらしく、普段と違い若干語気が荒い。
「高校でたら就職も一人で勝手に決めちゃうし、昔から心配ばかりかけて勝手なんだから、あの子は」
歳が離れている所為かまるで母親が息子のことを話すかのような口調だが、それでもやはりかわいいようで、言葉の中に愛情の響きを感じないわけでもない。
「まあ、今は真面目に働いていることだし」
「でもね、先生聞いて。夜は毎晩お酒飲みにいって遅いし、週末はいつも遊びに行ってるから、一緒に住んでても全然会えないんだよ」
子離れ出来ない親のようだ。
「そんなに目くじら立てるようなことでもないだろ?男なんだから」
「・・・やけに肩を持つけど先生もそうなの?」
急に矛先がこちらに向いた。
「先生もコウスケみたいに夜遊びしたりして家にいない人?」
とばっちりだ。
「そういうわけじゃ・・・」
「やっぱり普通の男の人ってみんなそうなのかな」
彼女の家族と周りは同じクリスチャンの人間が大多数を占めており、身近な普通の一般男性のサンプルはどうやら弟のようだ。
彼女のクリスチャン以外の男に対しての一部偏った男性観は、どうもやんちゃな弟の影響を多大に受けているような気がしてならない。
他に患者がいなかったこともあり、ユキコの弟への不平不満だらけの想い出話は施術が終わるまで続くことになるが、久しぶりに楽しそうなので話すに任せていた。
「そういえば弟は俺とお前の関係を知ってるのか?」
午前の受付時間はとっくに終了して二人きり、帰り支度を始めた彼女に問いかける。
一応は確認しておかないといけないだろう。
「・・・内緒にして貰える?」
今のところは知っているのは母親と親しい友人・知人のみとのことだ。
ちなみに我が接骨院の受付嬢にも内緒にしている。
ユキコと顔見知りではないが何分近所ということもある。
関係上あまり口外出来るようなものでもなく、特に宗教という集団にある彼女にとっては嫁入り前ということもあり、確かに関係を知る人間は極力少数なのが好ましい。
「分かった」
わざわざ言いふらすことでもない。
「ありがとう。じゃあ先生、コウスケのことお願いね」
「はいはい」
結局最後まで弟の話で今日の逢瀬は終わった。
コウスケは車で四十分程かかる市外の工場に勤めており、仕事が終わって直行した二度目の来院は午後七時を過ぎた辺りであった。
「首がまた、だいぶ痛いんッスけど・・・」
最初の施術で幾らか首の痛みが和らぎ喜んでいたが、翌朝にはまた戻っていたことで不安もあるようだった。
初めのうちはそんなものであり、特に朝方は血の循環も悪いこともあるから悪い箇所はよく痛むことを説明する。
「時間はかかるけど徐々に治まってくるから大丈夫」
もっともある程度治まっても、気候や体調によってまた痛みが現れることを付け加え説明する。
ムチウチなどは後々も痛みが出るので完治するとは言い難いのが辛いところだ。
「そういえばユキコさんの弟だって?」
座らせて、背後から首に手技を施しながら聞いてみる。
「そうなんスよ。姉ちゃんから聞きました?」
タルそうな喋り方だが妙に人懐こい。
「やんちゃで夜遊びと女遊びが酷い、手のかかる弟だと聞いた」
女遊びは言ってなかったかもしれない。
「ひでぇ、そんなことまで喋ったんスか?」
「今でも真面目に働いてるのか心配だそうだ」
「勘弁してくださいよ、どっからどう見てもマジメな好青年じゃないスか」
姉のこともあり打ち解けやすかったのか、苦笑いしながらも冗談を返す余裕はあるようだった。
「まあ弟のことが色々気になるようで」
「昔から口うるさいんスよ、あの第二のかーちゃんは」
幼い時分、仕事で忙しかった母親に代わり面倒を見ていた姉は、歳が離れていることもあってか扱いは「かーちゃん」のようだ。
「だいたいハタチ過ぎたってのに未だガキ扱いッスからね。困ったもんッスよ」
屈託なく笑う辺りはそれほど嫌でもないようで、これでなかなか姉思いなのかもしれない。
「あの行かず後家は」
一言多い性格のようだが。
どうやら気が合いそうではあるが雑談ばかりしているわけにもいかず、ここは痛むか、動かすとどうか、などと接骨院の先生らしく尋ねながら手技を加える。
途中、隣のベッドの患者が電気治療を終えたので、今日はこれで終わりと会計を済ませ見送り戻ると、コウスケは思い出したように口を開く。
「そういや先生も宗教やってるんスか?」
他に患者も受付嬢もいない状況で聞いてきたのは彼なりの配慮だろう。
「違うよ、そうみえるか?」
「いや、全然みえないッスけどね」
どうみえているのか気になるところだ。
「ただねーちゃんがやけに勧めてたし、ほらここの大家さんも同じ宗教じゃないッスか」
大家のツジ家とユキコの家族とは同じキリスト教であり家族ぐるみでの交流があるそうで、コウスケも小学生くらいまでは家を行き来し、その手の集まりにも一緒に行くことがあったらしい。
「やっぱり苦手なんッスよ。いや、いい人達なんだけど宗教のあの考え方にはついていけないもんで」
うんざりした声には、自分以外の家族がキリスト教という環境で生活を送ってきたが故の実感がこもっている。
「洗礼とやらは受けたらしいのにな」
「あれは反則ッスよ、生まれたばっかりの物心つく前にやられたんですから。無効です、無効」
【 乳児や児童に授けられる洗礼を幼児洗礼または小児洗礼という。
元々は成人に対してのみ洗礼を行っていたものを、起源は定かではないがキリスト教初期あたりにはカトリック教会において幼児洗礼を基本とし推奨していたようである。
「成人」といっても二十歳以上を指すのではなく、各教派によって違うので明確な区分けは難しいが「教理を理解し本人の信仰の意志が確認出来る」年齢、おおよそ学生以上であれば成人洗礼にあたり、それ以下の年齢であれば幼児洗礼にあたると解釈しておく。
幼児洗礼は本人の信仰の意志を確認出来ないこともあり、認めていない教派・教会も多い。】
教派の方針や、母親が熱心な信徒であったことでコウスケは幼児洗礼を受けたわけだが、これにはかなり不満があったようだ。
反抗期の頃には家族はもとより宗教への反発が著しく、元々の性格もあったろうがグレることに時間はかからなかったと笑いながら言う。
それでも幼少より身に付いた宗教の道徳観や倫理観により犯罪に手を染めるような真似はせず、それなりに真面目であったとは本人の談で、どこまで本当か定かではないが一応半分くらいは信じておくことにした。
紆余曲折あったとはいえ高校卒業と同時に就職し本人曰く立派な社会人になった。
家族との関係も良好ではあり、宗教に関して許容することは出来ないまでも、無関心でいることにより平穏は保たれているようである。
「身内だから縁切るわけにもいかないし。大変なんスよ、いろいろ」
ある意味キリスト教との共同生活経験者としてはかなり年季のはいった先輩の実感のこもった苦労話に、自分の現状を重ねてしまい奇妙な親近感を覚える。
いつの間にか通常の施術時間を超過し会話が弾んでいたのはその所為だろう。
適当なところで手技を切り上げ首回りの調子を聞いてみる。
「スゲー、だいぶ楽になりましたよ」
他の患者がいないのをいいことに三十分以上の手技を行っていたのだから、それなりに調子も良くなって貰わないと立つ瀬がないものだ。
素直な感情表現と感謝を述べる笑顔にも何ともいえぬ愛嬌があり、なるほどユキコが可愛がるのも分かる気がすると納得した。
「先生、一度私達の集まりに来てみない?見学だけでも」
携帯電話の向こうでユキコが探る様に聞いてくる。
以前に一度断ってからは、その後口に出すことは無かった。
またそのうち誘われることもあるだろうと思ってはいたし、初めの頃であれば一度くらいは付き合って行くことも仕方がないかと考えていたこともある。
それでもここは丁重に断ることに決めた。
「やめとくよ」
べつに嫌で行かないという理由だけではなかった。
躁鬱状態が頻繁に見られていた時期、「接骨院の先生」との関係を彼女は周囲の親しい人間に相談していたことがあると聞いている。
勿論、同じキリスト教の仲間にである。
聞いただけでも母親を筆頭に接骨院の店舗の大家、一度接骨院に連れて来た娘を含む同世代の二人の友人には程度の差こそあれ事情を話しているらしい。
それ以外には洩らしていないとは言うが、精神疾患によるものか記憶の欠落がまま見られる為当てにはならないこともあり、その場の雰囲気で他の人間に話している可能性は否定出来ない。
またそうでなくとも狭い集団内のことであるから噂程度にしろ広まっていてもおかしくはなかった。
噂の中身はユキコと一般男性との交遊と、同時期に精神疾患が加わっている為、醜聞に近い何かがあったと勘ぐられている可能性もある。
「そんなことは無いと思うけど・・・」
さすがにそれは反論があるようだが、こちらとしてはクリスチャンだからといってそれほど人間性を高く評価しているわけでもないので、「温かい目で優しく見守ってくれている」などと楽天的な考えも無い。
そこで問題なのは共に連れ立って教会に行くことにより一部噂が真実へと変わってしまうことである。
ユキコの相手の男を知らない人間にまで認識させてしまうことで、根も葉もない噂に拍車をかけかねないような気がするのだ。
最も恐れるのは純潔や貞操に関して懐疑的な目で見られることにあり、一般的な考えならさして問題にならないのだろうが、キリスト教内の狭い社会に対してではやはり必要以上に警戒してしまう。
「考え過ぎじゃない?」
「俺もそう思うんだけどね」
あまり望ましくない話だが将来ユキコが仲間内、同じキリスト教の男性と結婚する道を選んだとすれば、過去の男との妙な噂話は邪魔にしかならない。
その場合、その後も宗教社会で生きていくことになるのだから知る人間は少ないほうが良く、彼女の以前からの希望通り隠せるなら隠し徹したほうが良い。
「結婚でもしたあとなら幾らでも付き合うから、今はまだ止めとかないか?」
「・・・先生が一人で来て離れたところにいるとかは」
「それは勘弁してくれ」
ユキコと同じキリスト教の人間がご近所にはそれなりに住んでいて患者として結構来ている。
信者になるつもりも無く独りで行った日には碌な結果になりそうにない。
「とにかく今は時期尚早。前向きに検討しておくからあせらずにいてくれないか?」
「・・・はい」
納得したような、していないような声の返事は仕方がないだろう。
また数ヶ月が経ち、季節が変わり、肌に寒さを感じ始めた頃。
パニック障害は癒えぬまま、ユキコは週一回程度の間隔で接骨院に顔を出している。
やはり今はそれくらいが逢わずに耐えられる時間のようだった。
ここのところ目に見えて衰弱が激しく、不眠・食欲不振による体重減少、頬はこけ目の下には隈、袖から見える手と腕は痩せ細っていた。
以前であれば躁状態には必要以上に元気に見える時もあったものだが、今では鬱状態でいることが多く、その姿にさらなる暗い翳を落としている。
病気前の彼女しか知らない人間なら、すれ違っても気付くことは難しいかもしれない。
病院にはまた二回ほど付き添った。
どちらも違う病院だった。
医師に対しての不満、薬が効かなくなったことでの医者に対する不信、なかなか治ることのない病気へのあせり、理由は様々だが他にも何度か病院を変わっているらしい。
パニック障害、躁鬱病、強迫性障害、自律神経失調症など病院が変わるたびに病名も変わり、また経過によって薬も変わる。
このことにもストレスを感じて、あたかも得体のしれない病気を患っているかのように不安に苛まされていた。
あまり頻繁に病院を変えるのはどうかと思う。
ある程度は仕方が無いにしろ、一つ所で腰を落ち着けて経過を見るのも必要なことだ。
だいたい精神科・心療内科などまだ途上の分野である。
下される診断は問診によりその症状からあてはまる疾患名を提示するわけだが、明確に疾患名を特定出来るようなものではなく、その時の二次的な症状や医師の解釈によって病名が違うなど珍しい話ではない。
問診以外の検査なども内臓や代謝などに異常がないか、症状の原因がそこからのものでないかを確認するだけのもので、精神疾患そのものを対象としているわけではない。
そもそもパニック障害や鬱病など精神疾患は脳内の神経伝達物質の異常ではないかと言われてはいるが完全に解明されたわけでもないのである。
確実な診断、必ず治せると過大に評価し期待を持たないほうがいい。
カウンセリングで原因の特定、対処法、どのようにして克服していくのか、納得のいく明確な説明を受けているなら充分ではないか。
薬は症状が治まらなければ変えて貰えばいい、また効かなくなってくるのは耐性が出来るからで、強い薬に変えるのは早期回復を目指す為にもやむを得ないと割り切ることも必要ではないか。
三回目の病院に連れて行く車の中、病院を変わればいいというわけではないと考えを口にする。
「そうなのかな」
納得はいっていない表情。
「今の病院はどうなの?」
「先生が女性で話しやすいから、しばらくは通ってみるつもり」
そう言った彼女は、しばらくしてまた病院を変えた。
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