十四 2006年5月
差し当たっては接骨院に行く時は必ず母親に言ってから行く。
黙って抜け出されるよりかはいいからと、両親とはあれからそんな処で話は落ち着いたようである。
親として内心は行かせたくはないだろうが、ユキコの病気から来ているであろう「不安感」や「孤独感」を考えると首を縦に振らざるを得なかったようだった。
そんな彼女は相変わらず名目は「施術を受ける」為に、最近はまた週に一,二回のペースで通っている。
周囲の宗教仲間には二人の関係は秘密のままだが、親には本当のことを言えたこともあり以前の追い詰められたような表情も幾らか柔らかくなった気がする。
とはいえ「先生とは結婚できないよ」「早く先生に頼らないで生きていけるように頑張るね」などとこれは相変わらずであった。
それでも他人の様に平静を装いながらも来る彼女に、今のところは頼られ、愛されているのは間違いないだろうと自惚れている。
勿論こちらが愛していることに変わりはないが、最近では保護的な父性愛にも近い感情で接しているような気がしないでもない。
日曜日の昼飯時。
「昨日は随分遅かったみたいだな」
そう言って祖父は好物のカレーを口に入れる。
どことなく不自由そうなのはやはり脳出血の後遺症だ。
話し方もどことなく舌足らずではあるが、一時を思えば随分と回復したもので、まだ麻痺は見られるものの日常生活にそれほど不便なく過ごしている。
「全然気が付かなかったけど何時に帰ってきたの?」
これは祖母だ。
昨日、土曜日は午前中で終わりだったが、月の初めは健康保険への療養費支給申請書「レセプト」の作成をしなければならなかった。
一ヶ月にかかった施術費の医療保険者負担分を計算して請求用紙を作成、保険者ごとに仕分けし発送する。
今ではパソコンに入力すれば自動に計算してくれる為それなり楽にはなったのだが、その入力を普段からさぼっていた為、昨日はそれなりに時間がかかった。
「帰ってきたのは夜中の一時過ぎだったか」
起きたのはたった今だ。
起き掛けのカレーは少々胃に重たいが、祖母の手作りに文句は言わず口に運ぶ。
「それより悪かったな。午前中買い物に行けなくて」
いつもは午前十時に祖母を車に乗せて買い物に行く。
最近は膝の具合も悪く、歩いて買い物に行くのが辛いらしい。
自転車も危ないこともあり週に一度、まとめ買いに荷物持ちも兼ね連れて行っていた。
以前はちょっとしたものは祖父が買いに行っていたが、脳出血を起こしてからはそれも控えるようなっていたこともある。
食事を終え、祖母の片付けが終わるのを見計らい買い物に連れて行き、何かと用事を済ませた頃には午後二時をまわっていた。
五時半には晩御飯なのでどこかに出掛ける気も起らない。
仕事で平日は無理として、せめて日曜日くらいは祖父母と一緒に食事をしようと決めているのだが、昼は十一時、夜は五時半と高齢者にありがちな早い時間の食事は、いつも昼は一時過ぎ、夜は八時過ぎのサイクルのこの胃にとっては厳しく、ともすれば腹の調子を崩しやすい。
できれば食事は決まった時間に食べたいものだ。
まだ腹にカレーが溜まっている気がして、本屋にでも散歩ついでに行こうかなどと考えていると携帯電話の着信音が鳴る。
ユキコからだった。
「今日、付き合って貰いたい所があるんだけど・・・」
思いもよらない初めての日曜日の誘いだった。
考えてみれば日曜日に二人でどこかに出掛けるなどといったデートらしきことは一度も無い。
何しろ周囲に隠している関係上、人目に付きやすい休日に会うのは抵抗があることは当初から言っていた。
また大概はキリスト教関連の用事で彼女の予定は埋まっていることが多い。
こればかりは仕方がないと諦めていたものだ。
【 日曜日が安息日のイメージだが、正しくは土曜日である。
旧約聖書の創世記に、神は六日で天地創造を終えて七日目は休んだとある。この七日目が土曜日にあたり、安息日としてユダヤ教では神を礼拝する日とし、また戒律で家事を含め労働を厳しく禁止している。
キリスト教も初めは土曜日に礼拝していたようだが、後にキリストの復活、金曜日に処刑され三日目の日曜日に復活した逸話から、日曜日を「主の日」として礼拝するようになった。「主の日」は安息日と同様の扱いのようだが、ユダヤ教のそれと違い厳格な禁止事項があるわけでもなく、普段より心静かに過ごし娯楽などに興じることが多いようだ。
また年に一度、キリストが処刑されてその後復活した日を記念する日は別に「復活祭」「イースター」と呼ばれるものがあり、カトリック・プロテスタントなどの西方教会では「春分後の満月の次の日曜日」と定めた年毎にその日付が変わる移動祝日がある。】
【 暦関連でひとつ。
カレンダーでよく見る大安・仏滅などは仏教を連想しそうな言葉であるが、これは占いの類であり仏教とは全く関係がなく、中国で生まれたとされる「六曜」というただの占術で何の根拠もない迷信の類である。
本来仏教、それにキリスト教もであるが占いは認めていない。】
「あのね・・・今から病院に行くのに付き合って貰えないかな・・・」
まあ、デートの誘いでないことは予想していた。
声の様子からは不安感と鬱状態が伝わり、あまり精神状態は良くなさそうに聞こえる。
一緒に病院になど言われると、俺の子か、などと身に覚えのない冗談の一つも言ってみたくなるものだが、彼女には通じそうにないので止めておくことにした。
「いいよ、どっか調子悪いの?」
ある程度は察しているが一応聞く。
「違うの、そうじゃなくて心療内科なんだけど・・・」
「分かった。二十分くらいでそっちに行くから」
頼られるのに悪い気はしない。
電話を切り、支度を済ませて部屋を出る。
居間では祖父母がソファーに座り、テレビを見ながら二人ともうつらうつらと船をこいでいた。
「ちょっと出掛けてくる」
声をかけると二人とも驚いたように目を覚ます。
昼寝の邪魔をして悪いことをした。
「遅くなるかもしれないから、夕飯は先に食べといて」
「なんかあったのか」
さも今まで寝ていなかったように取り繕い祖父が尋ねてきた。
どうも年寄りは昼寝していたことを隠す傾向にあるようだ。
「ああ、業者が来るから接骨院に行ってくる」
祖父母にはユキコの話をしていない。
まず、孫の結婚を切望している節があり余計な期待を持たせたくない。
それとどうやら二人ともキリスト教が嫌いらしい。
かなり前だが祖父の二番目の姉の旦那の葬式に行った際、その旦那の一家がクリスチャンで、葬儀もキリスト教方式で執り行っていたらしい。
大きな違いと言えば「御霊前」は宗教に関係なく使えるとして「香典」が「御ミサ料」「お花料」となり、焼香は無く、読経の代わりに聖書の朗読や聖歌を歌うといったところか。
肌に合わなかったようだ。
文化の違いとはいえ祖父母達の目にはふざけているようにでも映ったらしく、大層ご立腹され、帰ってきてからしばらくの間文句が尽きなかった。
当分は内緒にしておくのが無難だろう。
「あんた夕飯はどうするの?」
今度は祖母が不満げに口にする。
それなりに孫に料理を作ることや、一緒に食事をすることを楽しみにしてはくれているようである。
「遅くなるかもしれないから、いらない」
心苦しいが優先順位は彼女が上だ。
夜には帰ることを伝え、尚も何か言いたげな二人をあとにして急いで車を走らせた。
家の前に着いたことを携帯電話で知らせ、待っている間に外に出て煙草を吸う。
パニック障害には煙草も誘因の一つであるから、彼女の傍では当然吸えなくなる。
念の為、来る時は窓を全開にして走らせながら換気し、今も煙草用の消臭スプレーをかけておいた。
「おまたせしました」
家から出てきたユキコはいつもより小奇麗な格好をしているように見える。
病気のこともありタイトな服装は避け、淡い色を基調としてゆったりとしたTシャツにカーディガン、下は相変わらず膝下までのロングスカートだが、普段見慣れた服装よりも色合いや造りが良く、その上に乗った顔の化粧からも気合の入り具合がうかがえる。
「今日は化粧が濃いな」
素顔、またはそれに準じた薄化粧が好みの為、つい口にしてしまう。
すぐに顔色の悪さを隠し、血色よく見えるように化粧しているであろうことを察して後悔する。
「おかしいかな?ちょっと街中に出るからきちんとしてみたんだけど」
それは身だしなみと同時に彼女の周囲への気遣いだった、などと断言したら惚れた欲目の過大評価に聞こえるだろうか。
それでもたぶん、そうなのだと思う。
「いや、よく似合ってかわいいよ」
月並みな台詞が恥ずかしい。
とりあえずご近所の目もあることなので早々に車に乗り込む。
「それにしても街中って?」
「あ、今ね、隣の○○○市の心療内科に通ってるから」
そういって口にしたのはここより都会の隣町である都市の名前だった。
この辺りはどちらかというとベッドタウンにあたる。
初めは近所の精神科に行っていたそうだが、薬があまり効かず、性格的にか担当の先生と合わなかったようで、人づてに隣町の心療内科の話を聞き転院したそうだ。
「今行っているところは日曜日も診療していて、いつもは母が仕事休みだから付き添ってくれるんだけど・・・」
その母はどうしても断れない急な用事が出来て夫婦で出掛けてしまった。
母親としては心配だったのだろう。
今日病院へ行くことは止めるようにとは言っていたが、本人は最初調子が良かったこともあり独り車で行くつもりだったようだ。
予約をしていたこともある。
それでもやはり、いざとなると不安感に襲われたらしくどうするか悩んだらしい。
片道でも三十分はある距離だ。
病気、特に発作のことを考えれば不安になるのも無理はない。
「ごめんね。ちょっと遠いけどいい?」
独りで留守番していたことにも不安があったのだろう。
頼ってくれたことは素直に嬉しい。
「構わないよ。じゃあ行こうか」
病院の住所をカーナビに入力して車を走らせる。
「そういえば予約の時間は大丈夫なのか?」
「えーっと、五時半」
時計はまだ三時前だ。
「だって、せっかく一緒なんだから・・・」
車を病院から少し離れた立体駐車場に入れて外に出る。
こういった街中に出てくるのも何年ぶりだろうか、田舎者の習性か立ち並ぶビル街におもわず見上げてしまう。
「先生、あっち」
この辺の地理は把握済みのようで、ユキコは細い路地を指差し歩みを進める。
予約時間まで二時間程度。
買い物に付き合って欲しいと、すでにどこに行くかは決めていたらしい彼女の案内のまま、十分くらいでその店に辿り着く。
布生地の店、五階建てのビルの大きな店だ。
「母とこの前来た時はゆっくり見れなかったから」
日曜ということもあり人の多い店内は彼女にとって大丈夫か心配だったが、問題ないようで混雑した中でも器用に人混みを避けながらお目当てのコーナーまで辿り着いていた。
「部屋の入口にのれんみたいに掛けたいの」
自分で作る、少しだけ自慢げに他にもスカートや簡単な服ならたまに作ると微笑む。
その為の生地も探しているらしい。
「こんなのはどうかな?」
そう言って選り分けた候補の生地を広げて見せる。
隣町ということで人目を気にすることもない所為か、珍しくデートらしい雰囲気になっているのは嬉しい限りだ。
普段なら女の買い物など面倒に思うところだが、久しぶりに見る彼女の楽しげな姿に今日はとことん付き合おうと腹を決めた。
たまにはいいだろう。
どうもピンとくる生地が無いようで他のコーナーも周ることになり、結局は店内の一階から五階を二往復することとなる。
発作が気懸かりだったが彼女自身の精神状態もそれなりに良好だったのだろう。
時折苦しいのか胸を抑える仕草を見せ、一度薬を飲んだものの、回復したのか心配をよそに休むことなく店内を歩きまわっていた。
自分なりにいくつか候補を見つけたようだがなかなか決められない、というよりどうやら選んで貰いたいらしい。
しきりに意見を求められるのだが、なかなか答えが彼女の趣味と合致しない。
もう一度上の階にとエスカレーターへ向かう途中、彼女の足が止まった。
今迄棚に陳列してある商品しか目が行かずに気が付かなかったが、レジ正面の柱を飾る様に掛けて広げてあるアジア系の柄の生地が目に留まったようだ。
連れ回されて覚えた彼女の好みの傾向と照らし合わせれば、確かに趣味に合いそうだ。
キリスト教といえばカトリックやプロテスタントが盛んなヨーロッパをイメージしていた先入観があり、ユキコの趣味も西洋系だと決めつけていたところがある。
だから小物など全般的にアジア系のものが趣味だったことは意外だった。
もっとも聖書や聖地などは西アジアなど中東に出自を持つ。
イエス・キリストの生まれた場所もパレスチナのベツレヘムで、ヨーロッパ寄りとはいえアジア系の民族であるといった説が有力のようだ。
キリスト教も仏教と同じアジアの宗教であった、だから彼女の趣味もアジア系なのかと納得するのは余りにこじつけ過ぎだろうか。
「これ綺麗だね」
そう言ってユキコは手を伸ばし感触を確かめるが、それでも値札を見るとすぐその手を引っ込めた。
「気に入ったんじゃないの?」
「うん、でもだいぶ予算オーバー」
名残惜しそうにその場を立ち去ろうとするユキコを引き止め、思っていたことを口にする。
「じゃあそれは俺がプレゼントするから」
「そんな、私全然買って貰うつもりなんてないよ」
驚いたように断り続ける彼女を無視して店員を呼び、寸法を伝えるように促す。
一応生地の長さを決めて裁断して貰わないといけない。
このことさえなければ、あとで買ってサプライズも出来るのだが仕方があるまい。
まだ何か言いかける彼女を、贈り物の支払い金額を見るのはマナー違反だと強引に追い払い会計を済ませた。
店外に出て時計を見るとかなり時間は経っており、今から病院に向かえば予約時間に丁度といったところだった。
「本当にいいの?」
「身に着けるものか、部屋に飾れるようなものを前から贈りたかったんだ」
考えてみれば初めてのプレゼントになる。
相変わらず「同じクリスチャンじゃないと結婚しない、だからつきあえない」というスタンスの彼女は、意識して避けているのか誕生日やクリスマスなどのイベント周辺の時期には接骨院に顔を出すことがない。
そんなこともあり何か贈ろうと考えてはいたものの、なかなかきっかけも無く贈り物を買うまでには至らなかった。
とはいえそれは言い訳にもならず、やはり怠慢だったと思っていたところに今回の買い物だった。
「今回は俺の我儘ってことで素直に受け取って貰えると嬉しいんだが」
「そんなこと・・・ありがとう」
嬉しそうに笑顔で礼を言い、小走りで横に並ぶとユキコは腕を絡ませてきた。
人目を気にしなくていい所為か、今日はやけに積極的だった。
「私達、やっぱりこうしてると恋人同士に見えるかな」
「初々しさが足りないから夫婦あたりに見られているかもな」
三十過ぎのいい歳だ。
「そっか,夫婦か・・・」
その言葉がどこか嬉しそうに、ユキコはもう一度「夫婦か」と小さく呟いた。
病院に着いたのは予約時間の五分前だった。
受付を済ませ待合の椅子に座るとユキコは小声で囁く。
「たぶん一時間くらい待つと思うよ」
予約時間に入っても診察がすぐに行われないようで、近くにあった本屋で時間を潰して来たらどうかと勧められたが、独り置いて行けるわけがなく、断り一緒に待つことにする。
診察にはかなり長い時間を割いて話を丁寧に聞いてくれると言う彼女の言葉通り、一人が入って出てくるまでの時間は二十分から三十分はかかっていた。
それなりに広く明るい造りの待合室には、まばらにまだ四人ほど患者が座って順番を待っている。
何番目なのか分からないが確かに待つことにはなりそうだった。
一時間以上待ってようやくユキコの名前は呼ばれた。
「外で待っているから」
診察室へ入る彼女に断りを入れ見送ったあと、外に出て玄関から少し離れた喫煙場所へと向かう。
懐から煙草を取出しジッポで火をつける。
数時間ぶりに吸う所為か軽く眩暈を感じ、それでも肺一杯に煙を吸い込み満喫した。
パニック障害の誘因になる為と我慢していたが、喫煙者としてはやはりこれがたまらない。
カウンセリングの内容に予想がつくとはいえ気になりながら、診察が終わるまでこのまま暇を潰すつもりでいた。
【 パニック障害の発作を直接抑えるものとしては薬物が必須だが、やはりそれだけではなく病気に対する理解と対処法を学ぶことが必要である。
それが医師の行う「精神療法」なのだが、これには「認知療法」や「行動療法」などがあげられる。
認知療法とは自分が今いる場所・時間などに対して周囲の状況と関連して、注意・知覚・判断・記憶などを総合して正しく理解すること。
行動療法とは行動理論に基づいて、症状を誤って学習された不適応行動と考え、不適応行動の消去・適応行動の学習を目指す治療法である。】
結局三十分、四本目の煙草を吸い終わったあと、診察を終えた彼女が姿を現した。
時刻的に一応晩飯でもと誘ってみたが、親が帰る九時前には戻っていたいと聞き、諦め素直に帰ることにする。
八時過ぎには着くだろう。
車に乗る頃にはすっかり日も沈み、ユキコは疲れたのか助手席のシートに深く沈み込むようにもたれかけている。
着いたら起こすから寝ていたらどうかと勧めてみたが眠れそうにはないようだった。
「診察でもやっぱり俺が原因って言ってなかったか?」
慣れない街の狭い路地を抜けて国道に出ると、ようやく会話をする余裕もでてきた。
「・・・そんなこと・・・」
おそらく気を悪くさせないようにと気遣いながら、ユキコは歯切れ悪く言葉を選びながら肯定する。
心療内科の先生にはキリスト教や接骨院でのことを話せる範囲で話してあるそうだ。
自分のことを彼女主観ではどういった対象として他人に話しているのか興味はあるが、どう聞いたにしろ病原と断じることに疑いはないだろう。
「やっぱりいつまでも先生に甘えてないで、独りでも生きていけるように頑張らないと駄目だよね」
目標を持つのは良いことだが、その中に自分との決別が入っているのが切ない。
「相変わらず悲しいことに俺と一緒になるっていう選択肢は無いんだな」
言われて自分の言葉の意味を理解したのか「ごめんなさい」としおらしく謝る。
いつもながら悪気がないだけに苦笑が絶えない。
「俺としちゃあ妙なこだわりを捨てて、俺と結婚するって言って欲しいところなんだが」
返事がない。
返答に困る様なことをつい言ってしまうのは悪い癖だ。
「まあ今のところ、俺が入信でもしないといけないわけだ」
「形だけだと意味ないんだからね」
見透かしたように、寂しそうな笑顔でたしなめる。
「先生が聖書を信じることができないことは分かってる。考え方を変えられないでしょ?」
確かに宗教的な考え方には未だ馴染めない。
話題に上るたび否定的な意見を唱えることで、どれだけ彼女を傷つけていたのだろうか。
彼女のあきらめにも似た台詞が胸に刺さる。
「そうだな・・・ごめん」
彼女の為に信じるといった選択肢はどうしても選ぶことが出来ない。
格好をつけるつもりはないが、やはりそれは生き方の問題だからだろう。
「ううん、いいの。先生頑固だもんね」
「お互い様だ」
「・・・うん」
妥協してキリスト教に入信するか、彼女がキリスト教をやめるか、それとも互いが互いの宗教観に干渉することなく添い遂げるか。
単純で明快な解決法が示されていても現実に実行出来なければ何の意味も無い。
こと宗教に関しては交わらぬ平行線のまま、落とし処が見つからずに堂々巡りを繰り返すばかりだった。
「いつまでも駄目だよね、このままじゃ・・・」
鬱が入り始めたのか、またひとりで悩み考え込むような物言いと共にうつむくユキコの右手を握る。
「細かいことはもういいから、とりあえず病気が治るまででも俺の傍に居ろ」
「でも・・・」
彼女の声が震え始めている。
見なくてもわかる、また涙を流しているのだろう。
繋ぎ、握りしめた手に力を込める。
「結論を出すのは病気が治ってから。今は悩んだところで悪いほうにしか考えられないだろ?」
生真面目な性格は、悩み自分を追い込んで結局は自滅を繰り返す。
「でも、それでも私、治っても先生との結婚はできないし、何もしてあげられないよ」
「そん時になってもそうなら素直に受け入れるよ。別に慰謝料とか請求するつもりもないから心配するな」
「でもいいの?今も私、先生のこと好きかどうか自分の気持ちも分からないんだよ?それなのに振り回して迷惑かけてばかりで・・・」
数学の定理の様に理屈で説明出来ない感情は否定する性格も、根拠も無く「好き」を連発されるよりは好ましく思える。
「俺が「好き」で「愛してる」からいいんだよ。お前は気が済むまで甘えてればいい」
でも、は続かなかった。
「今はこうやってお前に必要とされて、頼られているだけで充分なんだから」
「・・・うん・・・ありがとう・・・」
ユキコの家の前に着いたのは午後八時三十分。
まだ彼女の両親は帰っていないようで、玄関の灯りも点いてはいない。
「遅くまでごめんね」
「親が帰ってくるまで独りで大丈夫か?」
「うん、家に入ったらもう横になって休んでおくから。今日はいっぱいありがとう」
布生地の入った紙袋を腕の中に抱え込んで頭を下げる。
喜んで貰えているようで何よりだ。
忘れ物がないか確認し、ドアを開けようとしてから思い出したようにユキコは振り返った。
「先生、ちょっと目をつぶって」
「何?」
この状況なら、とある種の期待を込めて言われるままに目を閉じる。
頬にユキコの唇が触れる感触。
「今日のお礼」
頬を染めて、照れ隠しのように勢いよく助手席のドアを開け外に出る。
「おやすみなさい」
「・・・おやすみ」
そのまま玄関の鍵を開け、もう一度振り返り、手を振り中へと入っていった。
考えてみれば頬とはいえ、初めてのユキコからの口づけであった。
彼女の香水の香りが残った車内で、甘酸っぱくもこそばゆい気持ちに包まれながら自宅へとアクセルを踏みだす。
妙にいい気分だった。
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