十三 2006年3月

「先生、今から会いに来てくれる?」

 時刻は深夜十一時半、およそ一ヶ月ぶりのユキコからの電話だった。

「眠れなくって…」

 鬱状態の暗く、思い詰めたような声。

 病状が今尚継続していることを伝えている。

「十五分で行く。着いたら携帯に連絡するから待ってろ」


 こんな夜遅くにどうしたのか、不安と心配に駆られ上着だけ羽織り家を出て車を走らせる。

 寝静まった年寄りを二人だけにして置いて行くのは気になる。

 たまに祖父がベッドから落ちて自分で起き上がれなくなるからだが、最近は体調もいいことだし大丈夫だろうと考えることにした。

 慌てていたようで、風呂から出たばかりの髪の毛は濡れて乱れたまま、服は寝間着代わりのスエットと久しぶりの再会にしては何とも格好のつかない姿のまま、煙草を吸うことも忘れアクセルを踏み続けた。


 十分程で着いた。

 夜はさすがに速く着く。

 わりと古そうな住宅街の並びに、一軒家の一階を工務店の事務所に改装してあるのが彼女の実家だ。

 家族も寝るのが早いのか、家の灯りは消えている。

 携帯電話で着いたことを知らせると、足音を忍ばせながら家の右横、死角になって見えないが勝手口からだろう、彼女は出てきて周りを気にしながら助手席に乗り込んだ。

「ごめんね、わがまま言って」

 久し振りに見たユキコの姿に綺麗だと思った。

 鬱状態が続いていたのは見れば分かる。

 暗闇のなか街灯に照らされたその貌は最後に会った日と比べても尚一層痩せ、その病状の翳を色濃く落としている。

 かつての健康的な溌剌とした姿は見る影もないが、そのことが逆に大人びた淑やかな雰囲気を醸し出しているようにも見えていた。

 伏せ目がちなその表情はどこか悲しげで、散り際の花のように儚いものの美しさを思わせるなどと言ったら不謹慎だろうか。

「どうしたの?」

 見とれていたとは言えない。

 何でもないと誤魔化して言葉を濁す。

「ねえ、とりあえず移動しよ」

 さすがに家の前では落ち着かないらしく近くの公園へと案内のまま車を走らせた。


「こんなことしたの初めて」

 深夜、親に黙って、外出。

 学生の頃なら誰でもしたことのある、学生の時くらいにしかしないようなことだが、ユキコにとっては冒険にも等しい行為だったようだ。

 両親が寝るまで待っていた。

 正面から出るには事務所を通らねばならず、玄関にはセンサーがあり入り口を開けるとチャイムが鳴る。

 だから裏口からこっそり出てきた。

 鬱による低くゆっくりした声は相変わらずだが、その初めての行為にやや興奮気味に抜け出す時の状況を説明した。

 町内の公園は街灯も少なく、この時間は時折車が通る程度で完全に人の気配は無い。

 それでも一応は人目につかないようにと、街灯から少し離れた路肩に駐車した。

 表情が分かる程度の暗い車内にアイドル状態のエンジン音だけが静かに響く。


「随分久しぶりに会うな」

 責めたつもりも無い挨拶代りの質問に、躊躇いがちに理由を話し始めたのはしばらくの沈黙のあとだった。

「母にね、行かないようにって言われてたから・・・」

「二人のこと、話したのか?」

 申し訳なさそうに小さく頷く。

「こんな相手じゃ親も反対するか」

 卑下するつもりもないが好感を持たれていないことは容易に想像がつく。

 クリスチャンの両親にしてみれば娘に寄りつく悪魔くらいに思っていてもおかしくないだろう。

 それでもこれから理解して貰えばいいと、口で言う程気にしていない。

「理由はそのことじゃないの」

 考えを遮ぎったユキコの訂正に早合点に気付く。

「先生とのことは母もそれほど反対はしてないの。そうじゃなくて今は外に出掛けることを止められているから」

 それなりに喜ばしい情報は、続く不可解な理由に打ち消された。

「何かあった?」

 切り出した問いに顔を、身体を強張らせる。

 再び訪れた沈黙のあと、精一杯の勇気を振り絞ったように彼女は告白した。

「私・・・パニック障害になったの」


【 パニック障害とはその発作を特徴とする精神疾患の一つで、原因としては単純なストレスや気にし過ぎなどといった安易なものではなく「脳内の神経伝達物質の異常」などの説があり医学的に対応が必要な「病気」である。

 症状としては「パニック発作」が繰り返し一ヶ月以上持続するもので、「予期不安」や「広場恐怖」を伴う場合がある。

 パニック発作とは、①心悸亢進・心臓がどきどきする・心拍数の増加、②発汗、③身震い・手足の震え、④呼吸が速くなる・息苦しい、⑤息が詰まる、⑥胸の痛みまたは不快感、⑦吐き気・腹部の嫌な感じ、⑧めまい・不安定感・頭が軽くなる・ふらつき、⑨非現実感・自分が自分でない感じ、⑩常軌を逸してしまったり狂ってしまうのではないかと感じる、⑪死ぬのではないかと恐れる、⑫しびれ感やうずき感などの知覚異常、⑬寒気またはほてり、などの症状が突然発症するもので、多くの場合は数分から数十分持続して消失する。

 予期不安とは、パニック発作がまた起こるのではないかと強く恐れることで、そのことがさらに症状を悪化させることになる。

 広場恐怖とは、パニック発作を恐れてすぐ逃げ出せないところや助けがたやすく得られない状況を嫌い、外出や乗り物を回避するようになることを言う。

 発作のない時でも自律神経系の症状が持続的に現れるほか、パニック性不安鬱病なども現れる。

 パニック性不安鬱病とは、気分の浮き沈みが激しい・理由なく泣く・時に自傷行為・食欲亢進・幾ら寝ても眠い・体が怠い・言葉に敏感に反応して切れたり落ち込む・逸脱行動などの症状が現れる。

 一般的な治療法は発作を抑える為の「薬物療法」と、併せて医師が病気に対する理解や対処法を教育する「精神療法」により発作の減少・消失への有効性が確認されている。】


「先生はパニック障害って知ってる?」

「一応はね」

 過去、パニック障害の患者を診たことがある。

 勿論他の症状での、確か足首の捻挫で来院して施術の途中でたまに発作が起きていた。

 「パニック障害なので心配ない、すぐに収まる」と言われ、事実十分前後で発作は収まっていたのだが、さすがに気になり調べたこともあった。

「急に息ができないくらい苦しくなって内科に行ったの。でもそこでは異常は無いって言われて・・・」

 精神病の分野はまだ新しく、高齢の医者は習っていないこともあるので見過ごされることがある、とどこかで聞いたことがある。

「母が精神的なものじゃないかって精神科に連れて行ってくれて、それでパニック障害って言われて・・・」

 初めて病を自覚したことを告白する。

 治療は今尚継続中だが症状は変わらず、突然起こる発作に怯える日々が続いていたことをユキコは語り、その貌に泣きそうな笑顔をつくった。

「先生だってもう嫌だよね、こんな・・・わたし・・・」

 病により変わった日常に、変わるかもしれない関係に、悩みすり減らしていた心は限界に達したかのように声と身体を震わせる。

「だからもう・・・」

「愛してるよ」

 次の言葉を聞く必要は無かった。

「大丈夫、今も愛してる」

 身を乗り出して唇を、変わらぬ想いを伝えるように重ねた。

「馬鹿な心配はしなくていい。俺から嫌いになるなんてある筈がないだろ?」

 伸ばした掌で涙のこぼれ始めた頬に触れる。

 その温もりに感情が溶けだすように、溢れ出した涙は止まることはなかった。

「・・・うん・・・うん・・・」

 泣きじゃくるユキコの頭を胸に抱き寄せる。

「こうするのも久しぶりだな。遠慮なく泣いとけ」


 ようやく落ち着きを取り戻し始めたのか、ユキコはそっと体を起こし恥ずかしそうにうつむいた。

「ダメだね、私。すぐ先生に頼っちゃう」

「そのほうが俺は嬉しいけどね」

 肘掛けを間に挟んでの抱擁はさすがに体勢に問題があったようで、腰が痛み運転席で軽く伸びをする。

「大体、根本の原因は俺にあるんだから、こっちが謝らなきゃいけないくらいだ」

 原因は宗教と恋愛の板挟みに間違いない。

「どうして?」

 そのことに自覚があるのかないのか不思議そうに返される。

「だって俺とのことが原因だろ」

 少し考え込む。

 ポーズなのか本気なのか、本当に病気と直結して考えたことが無かったのか、その辺りは分からない。

「・・・そうなのかな、分からないけど・・・でもそんなことはないよ、全部私が悪いの。私が弱いからこんなになっただけだから・・・」

「いや、全部俺の責任だからお前は悪くない」

 なんとなく意地になって言い張る。

「・・・でも、もし本当にそのことが原因でも先生は普通の人と同じように当たり前の様にしてただけで悪いことはしてないよ。悪いのは流されて「教え」を守らなかった自分自身だから」

 例えそうであっても元々人の所為にするような彼女ではなく、そしてまた神様の所為にすることも無かった。

 現状を自らの行いの結果として真摯に受け止めている姿がいじらしく、それでもやはり「教え」が彼女を縛っていることには苛立ちを覚える。

「そう言ってくれるのはありがたいけど、責任は俺にしておけ」

 本当にそのほうがずっと気が楽だった。

「でも・・・」

「そうしたら「責任とって結婚する」って言えるだろ」

 少し呆気にとられ、あはは、何それと声をあげて笑う。

 久しぶりに聞く彼女の笑い声。

 力は弱く、翳りがあり、切なく感じるものの、それでも尚愛おしかった。

「別に冗談で言ったわけじゃないんだけどね」

 拗ねたように言ってみる。

「分かってる。先生、ありがとね・・・」


 突然だった。

 急に苦しそうに表情を変えて胸を押さえる。

「どうした?」

「・・・うん・・・ちょっとはしゃぎ過ぎたかな・・・発作みたい・・」

 パニック障害は突然起きる。

 薬を飲めば治まるから、と苦しそうに前屈みの姿勢のまま鞄の中を探るユキコをそのまま、少し離れた自動販売機に飲み物を買いに外に出る。


【 コーヒーなどカフェインを含む飲料は、煙草と共にパニック障害を引き起こす原因になりやすい。

 その為カフェインを含むコーヒー・紅茶・緑茶・烏龍茶・ココア・栄養ドリンクの類は除外したほうがいい。

 ちなみにチョコレートにもカフェインは入っている。】


 好みは考えず、結局オレンジジュースを買って車に戻る。

 飲み物無しでも薬は飲めたらしいが、とりあえず二口ほど口をつけた彼女を、シートを倒して姿勢を横向きにし寝かせた。

 抱えるように手を伸ばし背中を擦る。

 パニック障害の発作に効果があるのかは不明だが、他に出来ることがあるわけでもなく、何もしないよりマシだろう。

 十分前後で発作は治まった。

 分かってはいるものの、初めて見る彼女の発作の苦しげな表情に改めて罪悪感を呼び覚まされ、彼女とは別の意味で胸は苦しく、その時間を随分と長く感じさせていた。


 発作が起こるのが怖くて外出はあまりしなくなった。

 キリスト教の集まりにもあまり出ていない。

 家業の事務仕事も自分の部屋でやれる範囲でしている。

 日に日に得体のしれない不安や恐怖は増大し、夜発作が起き眠れないことも多い。


 現状をぽつぽつと説明する。

 まだ胸の動悸が治まらないのか、時折胸を押さえて表情を歪める。

「今日も寝ようとしたら発作が起きたの。それからずっと不安な気持ちで、落ち着かなくて・・・ずっと我慢していたけど、そうしたらどうしても先生に会いたくなって」

 顔を上げ、そして涙をこぼした。

「もう会わないようにしようって決めてたのに・・・変だよね、やっぱり逢うとほっとする・・・」

「ごめんな」

 何に対して謝っているのか自分でもよく分からない。

 たぶん全部に、なのだろう。

「ごめん」

 かける言葉が見つからず、彼女にとっての元凶であることを充分に自覚しながら馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返す。

「ううん、こっちこそごめんね、勝手なことばかり言って」

「・・・もっと我儘になってくれたほうがいい・・・必要になったらいつでも呼べ」

 それでも結局は同じような台詞になる。

 ユキコは何かを言いかけ、「うん」と一言だけ答えた。


 また疲れたのか、休ませてと断りを入れたユキコは身体をシートに預けた。

 その手を握り、同じようにシートにもたれ車の天井を見上げる。

 手の温もりに穏やかな時間が流れ、しばし微睡む。

 静寂は携帯電話の着信音で破られた。

「・・・母からだ・・・」

 ゆっくり起き上がると鞄の中から携帯電話を取り出し、バツの悪そうな顔で電話に出る。

「母が心配して私の部屋を覗いたら、居ないから驚いたみたい」

 電話を切ると意外に落ち着いた声で説明を始める。

 夜中の発作は頻繁に起こる為、親としても心配なのだろう、何かにつけてはこまめに様子を見に来ていたらしい。

 困ったことにそれを知りながら夜抜け出すことに慣れていない彼女は、布団の中に毛布やら丸めて寝ている様に偽装することを怠ったようである。

「ごめんね。もう帰らないと・・・」

「このまま二人で遠くに逃げる?」

 このまましがらみを捨て、誰も知らない場所にでも行けば何か変わることが出来るかもしれない。

「・・・できたらいいな」

 呟いた彼女も同じ気持ちだったのかもしれない。

 出来る筈もない提案にお互い目を合わせ寂しそうに笑い、そして車を彼女の家へと走らせた。


 玄関は灯りをつけず、母親は中でひっそりとユキコの帰りを待っているようだった。

 箱入り娘の夜遊びはさすがにご近所への体裁もあろうことで、目立たぬようにするのは仕方がないことだろう。

「謝りに行きたいんだが」

 一応申し出ては見たものの、聞きに行ったユキコの口から母はもう遅いし寝間着だからと断られたことを伝えられる。

 案外会いたくないだけかもしれないが、何しろこれで親の好感度は下がるだけ下がったに違いない。

「必要になったら我慢せず呼べよ」

 別れ際の彼女への言葉はそれが精一杯だった。


【 パニック障害の人の接し方については、まず「病気」であることを認識すること。「気の持ちよう」などの精神論は論外であり、「症状」として捉えることが必要になる。

 他人の言葉や態度に敏感になりやすい為言動には注意を払い、常に「安心」を与えるように配慮することが必要である。外出などでも不安を感じるのであるから付き添うことにより安心させることも出来るだろう。

 発作時においては周囲は必要以上に騒ぎ立てないこと。本人が一番不安定な状態であり、周りの反応によりその不安や恐怖が増長し悪化する恐れがあるからだ。そばに付添い、体の一部に触れ「安心」であることを強調するのが望ましい。

 精神病患者に対しては「励ます」ことも注意しなければならない。「がんばれ」などは言ってはいけない言葉として代表的だが、これは本人が努力し病気を克服しようと頑張っていることを忘れてはならず、そこへさらに過度のプレッシャーを与えることになり逆効果となるからだ。すくなくとも周囲は気長に回復を待つ余裕を持たなければならないだろう。】


 ユキコに対する気持ちは変わらずにいるとはいえ、今後の対応にはそれなりの注意を払わなければならないのは確かだろう。

 問題なのは彼女の病気の原因、克服すべき対象が自分であることだ。

 仮に病気の回復を望み彼女との関係を断ったとしても、回復はおろかそれが原因で孤独により不安や恐怖が増大し、症状の悪化を招くとも限らず躊躇われる手段である。

 またその場合は本来彼女の拠り所である宗教に関しても、会うことが無かった長い間、日常の傍らにありながら症状の回復や精神の安定に何の役にも立っていなかったようでありあまり当てにはならない。

 かといって現状の維持が徒に症状を長引かせることも考えれば、このままでいいとも考えていられない。


 とにかくこれからは、これ以上の進展は望んではいけない。

 精神が不安定な今、下手に関係を深めようとすることは弱みにつけこむようで自分自身も納得がいかず、例え求められても歯止めを利かすのが男の役割だろう。

 何が正しく最良なのかは分からないが、それでも結局は今の関係を保ち続けることを選んだ。

 以前と変わらず必要と求められれば応じるだけ。

 そして新たにユキコが完治するまで「待つ」意志を固めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る