十二 2005年11月
些かやり過ぎた件から一ヶ月以上経つ。
音沙汰の無いユキコが気懸かりだったが、退院した祖父の世話に追われ慌ただしいことを理由に、とりあえずは静観を決め込むことにしていた。
そのうち姿を見せるだろうと、そこはまだ楽観的に構えていた。
予想外だったのは久しぶりに接骨院に姿を見せたユキコが女友達と連れ立ってきたことだった。
「お久しぶりです。今日は彼女も一緒にお願いできますか?」
他人行儀な物言いは隣に人がいる所為か。
どことなしか疲れたような顔をしている割には妙に明るく振舞う彼女に違和感を受けながらも、それなりに元気な姿に安堵する。
相変わらずの来院時間は受付終了間際午前一時の五分前、受付嬢には新しい患者の受付を済ませたら帰るように告げ、他に患者もいないことから先に外の札を「準備中」に替えた。
友達、ケイコは今風の、かしましい女集団のなかに見かけるようなごく一般的なタイプの女性であった。
受付にいる間から傍らのユキコ相手に賑やかに話しかけている。
聞こえてくる会話の端々に表れる単語から同じキリスト教関連の友人、保険証を見ると二つ年下だが、あまり敬語らしい敬語を使っていないところをみると、それなりに親しい間柄のようだった。
気懸かりなのははユキコと自分との関係をケイコがどこまで知っているかである。
周囲に知られることは避けてきた関係も、友人であれば話している可能性は大いにある。
ユキコがまた二人きりになった際、お互いがやり過ぎる行為に走らないように友人を連れて来たことにはなんとなく察していた。
それでも単に誘っただけなのか、頼んでついてきて貰ったのかではニュアンスも違い、勘ぐれば時折こちらを見るケイコの視線に値踏みでもされ、監視されているような気もしないでもない。
とりあえずは「ユキコとは少しだけ仲のいい気のいい接骨院の先生」あたりの路線で接していくのが無難だろうと予防線を張っておくことにした。
「丁度こないだ片づけしてて肩とか腰痛めてたのよ」
問診にケイコが痛いところと理由を答える。
二人ともそれぞれベッドに入って貰い、ユキコには低周波をあて、ケイコの施療に取りかかった。
施療に関する会話はともかくあまり迂闊なことを言えない立場である。
気が重いながらも自然な会話を心がけようなどと考えてはいたが、マッサージを始める頃には隣同士のベッドで遠慮なく雑談を交わし始める二人の姿に、自意識過剰だったかと思い始めていた。
男の側から見れば女性同士の会話などやかましいもの以外何物でもなく、例にもれず二人の口を挟む間もない騒々しい会話には辟易し、少しだけ疎外感を味わう。
内容などは大したことも無く、服や飲食に関するとりとめのない事柄ばかりであったが気になるのはその話し方であった。
自分の知らない、初めて見る「友人と会話するユキコ」はいつもより何オクターブか高い声で、その笑い声も妙に甲高くはしゃいでいる様に聞こえる。
何を舞い上がっているのかと思いながら「先生はどう思う?」などと唐突な問いを苦笑いで受け流し、いつもと違い早く終わらないかと願う自分を自覚した。
騒々しく楽しくない時間は過ぎ、二人が帰ったあとは異様に疲れが噴き出した。
前回の件を考えれば仕方のないことだが、他人行儀で部外者の様な扱いにはストレスも溜まった。
立て続けに煙草を二本吸う。
吸い過ぎた気持ち悪さの混じる倦怠感に自虐的な気分を味わいながら身を浸す。
気持ちを落ち着けるにはもう少し時間が必要のようだった。
夜、携帯電話に着信があった。
「今日はごめんね」
「いいよ分かってる。独りじゃ来にくかったんだろ?」
引きずってはいなかった。
「うん、独りだとなんとなく行きにくかったから」
妙に気怠げな声が気になる。
「疲れてるのか?」
「どうして?」
「随分昼間と違って大人しいから」
「そうかな・・・」
返す言葉もなんとなく気が抜けている。
「・・・そうだね、昼間はあれからもケイコちゃんとずっと話していたから疲れたのかな」
ランチを食べ、買い物に行き、帰ったのは夕方だったらしい。
確かに疲れもするだろう。
納得出来ないことはないが、昼との落差の激しさに何かが胸に引っかかる。
「そんなに昼うるさかった?」
「まあ・・・」
違和感を思い出し言葉を濁らせる。
「友達と話す時はあんな感じだよ」
確かに彼女の日常を知っているわけではなく、以前も聖書の話を熱弁するいつもと違う彼女の姿を目の当たりにして驚いたこともある。
今回も宗教絡みの友人である為の違和感なのだろうか。
まだ引っ掛かることはあったが、昼間のストレスもあり、友人の話に煩わしさを感じて話題の転換を計る。
「それより大丈夫なのか?身体は」
腕が動かなくなるほど取り乱していた、その後が気懸かりだったが、施術中のあの状況ではさすがに聞けなかった。
「あのあとから、今でも他に身体の異常は無かったか?」
「大丈夫、何も無いから心配しないで」
元気だとでもいうように明るい声を出して答える。
例え何かあってもユキコは心配かけないよう素直に話しはしないだろう。
「それでもごめん、ちょっと調子に乗り過ぎた」
「・・・べつにいやじゃなかったからいいよ・・・」
まるで独り言のように呟く小さな声は、それでもはっきりと耳に届いた。
それから週に一、二度と来るようになったユキコは、終わり間際ではなく午前中なら十時や十一時、午後なら五時や六時と受付嬢や他に患者がいる時間帯を狙って、もしくはケイコと連れ立って接骨院に来るようになった。
あの件以来、乱れた反動で宗教倫理が強く働いてでもいるのか、たまに抱きしめようとすると身をよじる様に逃げ「もうそういうことはしません」とけんもほろろの態度で取り付く島もない。
本人としては「施術を受ける為だけに来ている」といった意思表示を示しているようである。
それでも彼女の明るく振舞い親しげな表情を見せるいつも通りの接し方は変わることはなく、しこりを残していないことは救いだった。
また前と変わらぬ関係の日常が始まる、そう思いながらも奇妙な違和感は依然付き纏っていた。
身体の異常も無いと言い、わだかまりも感じられない。
何も心配することなど無いように見えるユキコと接する度に、どこか不安定な感覚に陥る。
どこかおかしい。
それが何なのか気付くのに時間はかからなかった。
もっとも初めのうちは時折見せる挙動不審なおかしな態度も、今までの経緯を合わせてみれば、照れ、羞恥、背徳感、恋愛感情の裏返しなどが含まれる感情の起伏で片づけていられた。
それでもひと月と時が経つにつれ、その異常性を認識せざるを得ないところまで彼女の症状は進行していた。
躁鬱病、それが今のユキコの症状だと判断する。
【 躁鬱病、今では双極性障害・気分障害などと呼ばれているらしい。
気分が異常に高揚した状態の「躁」と抑うつされた状態の「鬱」が周期性の経過をとり、または混合して表れる精神疾患で、統合失調症と並ぶ二大内因性精神病のひとつである。
遺伝性が高いことが指摘されており、初発年齢は思春期以降で女子に多い。
原因としては家庭や仕事場、人間関係のストレスやショックなどにより引き起こされる。
躁鬱病になりやすいタイプというのもあり、肥満型に多く性格は循環気質であるとしている。
この循環気質とは
1.社交的・善良・親切・温厚
2.明朗・ユーモアがある・活発・激しやすい
3.寡黙・平静・陰鬱・柔和
などがあり、その他に思い込みが激しく頭の切り替えが難しい、真面目で几帳面、組織など整った状態に密着して生活しているなども指摘されている。
躁状態の症状は、興奮・高揚・大声で話す・多幸感・自己中心・過度の要求・情動不安定・誇大性・我慢出来ないなどの特徴があり、悪化すると支離滅裂な会話・判断力の欠如・金銭感覚の欠落・無秩序・妄想・幻覚などがみられる。
鬱状態の精神的症状は抑うつ気分・興味や喜びの喪失・易刺激性・不安・快感消失症・感情減弱・引きこもり・死へのとらわれ・自己批判・無価値観・罪悪感・悲観・絶望・集中力の欠如・記憶障害・うつむきかげんでゆっくりした動き・涙もろい・悲しげな顔がみられるなどで、身体的症状は不眠または過眠・食欲不振または亢進・体重減少または増加・口や皮膚の乾燥・便秘・動悸・息切れ・眩暈・発熱・冷感などの自律神経の失調を伴う。
治療は気分安定剤などを用いる薬物療法が主体であり、その他再発防止・疾患教育・ストレス管理などを含むカウンセリングも重要である。
予後は良好で自然治癒もあり、正常に戻る時にはほとんど障害を残さないが、一部には鬱の症状が長期にわたり持続する「難治性鬱病」などもある。】
ユキコは接骨院に来るとよく喋った。
大きな声で頬を紅潮させひっきりなしに話しかけてくる。最近は買い物や食事に外へ出ることが多いらしく、友人とどこそこへ行った、何を食べたなどの話をよく聞く。聞いているうちにいつのまにか違うことを話しているなどざらにある。言動が気になることもある。話題のニュースなどに対して批判的・攻撃的な言動が多い。宗教的な話になれば妙に高揚して熱弁をふるう。ドアの開閉が乱暴である。思いつきで即行動に移そうとする。宗教などの活動に積極的で異様な充実感を持つ。「私は本当はこうじゃない」と理想を多く語る。
躁状態であることを考えるべきだった。
ユキコが姿を見せず、時折電話やメールで連絡をよこす時は大概落ち込んでいた。
疲れたように、眠たげに話す。何もする気が起こらないという。話の最中に突然泣き出す。食欲がない。クリスチャンである自分への批判・罪悪感を独り言のように呟く。理由も無く不安を口にする。出会ってからの記憶に曖昧なところがあり、完全に忘れていることもある。動悸がするようになったという。眠れない時があるという。最近体重が減った、と初めのうちは少し嬉しそうだった。
鬱状態だろう。
奇行が若干目立つものの、元々持ち合わせていた宗教倫理のおかげで極端に無軌道な行動に奔るような事態にはならずに済んでいるのは不幸中の幸いだった。
もっともその倫理観が原因の一つでもあるからとりたてて宗教を肯定する気は起らない。
そして原因のもう一つは自分にあることも自覚している。
積み重ねていた二人の関係と想い、引き金になったのは接骨院の二階での行き過ぎた行為かもしれない。
少なくとも今のユキコを真っ当な状態に戻すのであれば、「宗教」と「恋愛」の取捨択一は必須だろう。
すでに「宗教」を選択しているとはいえ彼女は「恋愛」に関しては捨てることが出来ずに先送りにしている。
両立を目指していれば少しは前向きな考えも出来ていたかもしれないが、相手が改宗するか関係を断つかの二択しかなかったことが自分自身を追い詰める結果になったのだろう。
厄介なことになったと思う。
突き放し、関係を断つ選択肢を選ぶべきだと理性が囁く。
それでも彼女の病が癒えるのを見守り、彼女の答えを待ち続けることを選んだ。
失いたくはない、身勝手な只の我儘を抑えることが出来ない。
気付けば何よりも深くユキコを愛していた。
躁鬱は周期的に症状を変え、症状の初期を認識したあの友人と共に接骨院を訪れた日からおよそ二ヶ月を経過した。
今は躁状態に入っているようだ。
「ちょっと落ち込んでただけで、もう元気になったから大丈夫」
そういって目の下にうっすらと隈をつくり、随分とやつれた姿で陽気に笑う。
出会った頃はぎりぎり肥満未満であり、少しふっくらして健康的な印象を持つ彼女であったが、その頃と比べて三キロ以上は痩せている。
BMI法の計算 標準体重(㎏)=身長(m)×身長(m)×22
22を標準、25以上を日本では肥満とする。
お世辞にも健康的とは言い難く病的な翳を色濃く落としていた。
「一度だけでも病院に行ってみたら?」
本人にはまだ「病気」の自覚は無い。
「母にも言われているけど、今はもう元気だし・・・」
躁状態は高揚し、やる気や充実感を感じる為に本人が病気であることを自覚出来ない場合が多い。
鬱の時は「疲れ」や「ちょっと落ち込んだ」程度に考えていたり、悩み過ぎくらいの気持ちでいるのかもしれず、これも病気であるとは考えていないようだ。
それでも初期の頃と違い症状が進行した今、母親も気にしているように素人目にもどこかおかしいと感じるだろう。
「どこか悪いのかもしれないし検査だけでも行っておいで」
内科だろうと外科だろうと、医者なら診れば何かしらの精神的異常に気が付いてくれると期待していた。
そこで精神科なり専門医を薦めて貰えば、ある程度は彼女も納得して行き易くもなるというものだ。
やはり「精神科」だと名前だけで敷居が高い。
「先生がそう言うなら考えてみるけど・・・」
なにしろ専門外であり当事者であるから、確信があるとはいえ「躁鬱病だ」と告知するのは問題があるように思えて未だに言い出せない。
もっとも彼女に言ったとしても躁鬱病を病気と認識せず「そうかな」で終わってしまう可能性も少なくない。
やはりここは専門医を訪ねて診断を受け、病気であることをきちんと受け止め、真摯に向き合って貰うことが望ましい。
「あまり行きたくないな」
「どうして?」
「だって先生以外の人に触られたくないから・・・」
人の心配を余所に呟いた台詞に、少し嬉しい気分になった。
そしてまた暫らくして鬱状態に入ったのか、姿を見せなくなってから一週間、二週間と過ぎて一ヶ月が経った。
気にならないわけがない。
それでも出来ることは、ただ、待つしかなかった。
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