十一 2005年10月
祖父が入院した。
脳出血だった。
先日、朝の散歩中に転んだことは知っていた。
どう転んだのかだいぶ派手にやらかしたようで、禿頭と顔面の右半分を傷だらけにしていた。
転んだ直後、倒れたまま動けずにいたところを通行人に助けられ、幸い意識はあったことから救急車は呼ばず、とりあえず連れ添われながらも近くの医院で傷の手当だけして貰い帰ってきたと聞いていた。
その二日後、祖父は入院した。
入院を知ったのは夜、仕事を終え接骨院から家に帰ってからだった。
玄関を開けると見覚えのない女物の靴があり、こんな夜遅くに誰だろうと居間に行くと祖母と、久しぶりに会う叔母の姿があった。
父の妹で数年前熟年離婚をし、子供は無く、隣町で気ままに一人暮らしをしている叔母だった。
ことによれば遺産相続などの問題で対立もあり得る間柄ではあるが、家に入る際に継ぐつもりはないと明言していたおかげか、それなりに仲良くやっている。
小遣い稼ぎのパートは時間の融通が利きやすいらしく、仕事の無い日は昼間などに度々顔を出し、たまに泊っていくので珍しいことではないが、祖父の居ないことにも気づきどうかしたのかと尋ねる前に叔母から先に口を開いた。
「じいさん、入院したのよ」
それほど驚きはなかった。
祖父の喋り方にろれつがまわっていないことに気づき、脳の障害と考え病院で精密検査を受けるようには勧めていた。
それでも孫の言葉など聞かないとでもいうように「大丈夫」の一点張りの祖父を、二・三日様子を見て、眩暈や吐き気が出る様なら接骨院を休みにして無理矢理にでも病院に連れて行こうと思っていた矢先であったからだ。
叔母によると、転んだことを聞き見舞いに来た午前十時頃、祖父は具合が急に悪くなったと布団で寝ていた。
聞くと吐き気がする、気持ち悪いとの答えにさすがに異常を感じて救急車を呼び、叔母が付き添い市民病院へ搬送、検査の結果即手術、入院となったらしい。
叔母は一度家に戻り、着替えなどを用意し、祖母を連れて再び病院へ向かい、それから入院の手続きや何やらで家に帰ってきたのも夕方遅くとのことだった。
「連絡してくれればよかったのに」
事後報告に些か憮然とする。
「あんたの連絡先知らないもの」
接骨院と携帯電話の番号はメモ用紙に書いて祖母に渡してあるはず、と言ってはみたが、見当たらなかったと言われれば仕方がない。
「脳出血とか言ってたけど命に別状は無いみたい」
【 脳出血とはその名の通り脳の血管が破れて出血することで起こる。
祖父の場合は老化により脆くなった血管壁と転倒による外傷が原因だが、一般的に高血圧性によるものが多く、高血圧の影響により脳内の小動脈に発生した小動脈瘤などが日中活動時などになんらかの原因で破れ発症する。
出血部位にもより異なるが、症状は頭痛・嘔吐・麻痺などから始まり時間の経過とともに急速に悪化、意識障害や昏睡になることもある。
今回のように二・三日経ってから症状が出てくる場合や発症から数分・数時間内で進行する場合があり、どちらにせよ異常を感じたら早期の対処が必要となる。
似た言葉で脳梗塞があるが、これは血管内に出来た血の塊である血栓などが脳に行く動脈で詰まり、血管が閉塞・狭窄することにより酸素などの栄養が不足し、脳の組織が壊死などを起こす病変である。
またこういった脳の血管の病気の総称を脳卒中と呼ぶ。
こういった脳血管障害では麻痺や半身不随など損傷した脳の部位により症状が残ることは少なくなく、老人では寝たきりや痴呆にも繁がりかねないといった心配もある。】
「そうか、よかった」
先々は不安だが、とりあえず命を取り留めたことに安堵する。
それにしても祖母はかなり取り乱していたのか、今はすっかり放心状態に陥っていた。
これではこちらのほうが心配だ。
叔母も同じ気持ちのようで今日は泊っていくことにしたようだった。
当分は出来る限り来て祖父の着替えやらの面倒も見るとの言葉に感謝しながら、こんな時自分に嫁でもいたら便利だろうなどと呑気に考える。
こういったことは仕事があると手が回らず、女性に頼らざるを得ない。
とりあえずは自分に出来ることと、祖母に安眠の為にとマッサージを始めた。
晩飯の用意をするとは言っていたが、あとは温めるだけでいいようなので祖母と叔母には寝て貰う。
何しろマッサージが終わって夜も十時近い。
台所の灯りをつけ冷蔵庫を開けると、おかずは今日も山盛りで用意されていた。
祖母なりの愛情と好意的に受け止めてはいるものの、やはり自分の健康も考え、残して申し訳ない気持ちを抑えつつ何品かを皿に取り分け、電子レンジで温めながら待つ間に日本酒をちびりちびりとやり始める。
このあと、おそらく何らかの障害を抱えるだろう祖父の介護、身の回りの世話やその他日常での問題に対応出来るかを考えると、日中祖母一人では荷が重く、現状ではやはり厳しいものがあり不安を感じる。
僅かな希望は叔母の存在だが、別居ではその対応にも限度はある。
ここに来た当初はそのうち嫁でも貰い、何かあれば任せる、など漠然とごく一般的な対処法を考えていた。
それが未だ嫁どころか恋愛の過程で躓き、足踏みばかりの状態であるから話にならない。
なまじ元気であった祖父母の姿に問題を先送りにしていたこともあり、改めて予想していた筈の現状を迎えると準備不足に代替案さえ無いのが悔やまれる。
酒の所為もあってか、いつか自虐的な気分に陥っていた。
鬱な気持ちに入ったところで電子レンジが温めの終了を告げる。
古い機種は時間がかかり余計なことを考えていけない。
なるようにしかならない。
とりあえず明日は昼の休み時間にでも病院に行く、話はそれからだ。
疲れた体に軽く酔いのまわった頭では大して考えのまとまる筈も無く、飯を詰め込み早々に風呂に入り寝ることを決め込んだ。
翌日、午前の施術を終え昼の休憩時間、接骨院から車でおおよそ十五分の距離にある市民病院へと向かう。
「きてくれたか、ありがとう」
そう迎えた祖父の言葉はろれつがまわらずどこかたどたどしい。
点滴を打つ姿はまだ上体を起こすのは辛いようで、顔だけこちらに向けて笑いかける。
転んだ時に打った顔の傷が痛々しい。
「大丈夫か?大変だったな」
そういって傍らの椅子に腰をかける。
病室は個室だった。
部屋の空きがないとのことで個室にまわされたらしい。
六畳ほどの部屋にベッドとテレビ、小さな冷蔵庫があるだけの殺風景な部屋で、窓ガラスの面積を多くとり光が差し込む明るい雰囲気であるとはいえ、一人の時などは少し寂しそうだ。
入口を入ってすぐ横にトイレとシャワーが付いており、これは身体の不自由となった祖父にはありがたいことである。
「ばあさんたちがさっきまでおったよ」
医師から色々と説明を受けたあと、しばらくしてから帰ったという。
「シュジュツっていっても、ちょこっとアナあけたくらいでよ」
そういって禿げた頭を見せるように体を動かそうとする。
「そんでアナからチをすいとるカンタンなモンだったらしいわ」
出血の部位や量によっては頭を開くことなく、小さな穴を開け管状の器具を挿入し血腫を吸い出す手術があり、この方法であれば負担も少なく手術の傷の回復も早い。
おそらく頭のガーゼの下には手術痕があるのだろう。
見ている分には痛々しく感じるが、本人は大して痛みも無い所為か気にしていないようである。
九十手前だが、社交性もあり、元気な時などは一日中外に出て喫茶店やらゲートボールなどに興じていた祖父にとって、さすがに独りでいることは退屈だったらしく喋り始めるとろれつが回らないながらも話が尽きることはない。
声に張りのないのは入院したてということもあり心配するほどでもなく、多分に空元気もあるだろうが落ち込む姿を見せないことには感心した。
途中看護師が入ってきて簡単に状態の説明を受け、大事は無さそうとのことで改めて一安心する。
横から大丈夫だといっとろう、と口を挟む祖父が早速小憎らしい。
時刻はいつのまにか三時をまわっていた。
「午後があるから、そろそろ戻るわ」
後ろ髪を引かれながらも席を立つ。
まだ少しは心配だ。
「明日もこれくらいの時間に来るから」
「べつにムリせんでええよ」
また来る、ともう一度言い部屋を出た。
午前の施術が終われば昼飯を喰い、腹がこなれてきたら雑務を済ませ、十五分前後の昼寝をしたあと、用意をして午後の施術を始める。
これが今までの日課だったが、祖父が入院してからは午前が終われば病院へ行き、午後の施術の前に戻ってくるといったパターンに変わった。
昼の行動に制限の無い自営業ならではだが、やはり限られた時間のなかではやれることにも限度はある。
昼飯は病院へ向かう車の運転中に野菜ジュースと握り飯を食べることで済ましているが、問題は昼寝の時間だ。
長年の習慣で、昼寝をしない日などの午後は眠くて頭が働かない。
【 昼寝は作業効率をアップさせる。
十五分から三十分程度の短い昼寝をすることにより疲れた脳を回復することが出来る。
これが三十分以上であると深い睡眠に入る為、目覚めた後の脳の覚醒に時間がかかり逆効果となるので注意が必要である。
またどうせ長い昼寝をするのであれば、生体のリズムを考えて九十分程度がいいといった説もある。】
病院に行き、やることといえばマッサージだ。
着替えや手続き、生活面などは祖母や叔母、看護師さんに任せているので、それくらいしか出来ることもない。
寝てばかりいると腸の働きが悪くなり栄養の吸収や便通などにも影響がでる為、二日目からは腰を中心に揉みほぐす。
首・肩を控えるのは脳の血管の出血があった為、血行がよくなり再び血管が破れないとも限らないからだが、経過を見ながら上半身のマッサージも行っていった。
ボケ防止も兼ねて一時間ほど会話などもしながらマッサージをし、終ると仕事に戻るといった生活を送る。
そして二週間後、祖父は無事退院の日を迎えた。
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