十 2005年9月

 自分の意志で「待つ」と宣言した以上、誓いを反古にするつもりはなく週単位、長い時では一ヶ月近く姿を見せないこともあったユキコを辛抱強く待つ日々は続いた。

 肚をくくればこの状況にも慣れてきたものだ。

 相変わらず数回続けて来ては「もう会わない」と来ることを辞め、その後悩み煩悶し、寂しさの限界を超えた辺りで再び姿を現すことを繰り返す。

 言いたいことはあるものの、今ではそんな彼女が微笑ましくもあった。


 たまの逢瀬は遠距離恋愛のような昂ぶりを見せ、幾らか心の許した彼女の肉体的接触の許容範囲が抱擁と口づけだけとはいえ、他に患者や受付嬢のいない時などは逢わない時間を埋めるようにと自ら求めてくる姿もあった。

 もっともそのことが宗教倫理に縛られた彼女にとってあとで陥る自己嫌悪の対象であることは理解していたが、これは合意の上でもある、宗旨替えのきっかけにでもなればと些か勝手な言い分で放置することにしていた。


 土曜日、目のまわる忙しさも受付終了時間の午後一時を過ぎて残る患者はあと二名、受付嬢は帰って一人になったとはいえ充分こなせる人数だが、終わる頃には一時半をまわりそうだ。

 施術に取りかかると扉の開く音が患者の追加を知らせた。

 受付時間終了後の来院には溜め息の一つもつきたくなるが、こればかりは仕方がないと気分を入れ替え受付に向かう。

 そこに五日振りのユキコの姿を見て途端に頬が緩む。

 現金なものだと我ながら思う。

 久しぶりの再会に早く二人きりになりたい気持ちを抑えながら、手抜きにならないようには気をつけつつ、いつもより手際よく残りの患者を片付けることに勤しんだ。


 それでも意外に手間はかかり、最後の患者が帰ったのは予想より遅く一時五十分をまわっていた。

「調子はどう?」

 ベッドのカーテンを開けて尋ねると、仰向けで低周波をあてながらまどろむ彼女の疲れた顔が迎えた。

「・・・あんまりよくない、かな」

 最近眠れない、と原因を容易に想像出来る悩みを訴える。

 交通事故で負った首や腰の痛みも多少出ていることも口にする。

 かなり回復してここ最近痛みは治まっていたようだが、それでもやはりムチウチの後遺症は天気などの外的要因や体調・疲れなどでも度々現れる。

 加えて体調が悪くても素直に来院出来ない所為か、症状はなかなか治まりにくい。


 交通事故の自賠責についてはかなり前に示談し終了した。

 一般的に保険会社が定める治療期間は三ヶ月間、まだ症状が残っていればそれ以上の通院も認められる。

 症状はまだ残っており保険を使い続けることにも問題はなかったのだが、施術者との間に生まれた特別な感情に倫理的な面で問題でも感じたのかもしれない、ユキコは早々に自ら終了を決め示談に応じ、接骨院としても症状固定、これ以上症状の改善はみられないということで施術を中止とした。

 そのため彼女は示談が済んでからは自費で通院するつもりのようだったが、これは断り、以降は保険も使わず施術費は一切受け取っていない。


【 自賠責の慰謝料の計算方法は、

   ① 治療期間 (入院期間+通院期間)

   ② 実治療日数×2

 この①と②の日数を比較し、少ないほうの日数に4200円かけた値が慰謝料となる。

 こういった計算方法なので症状のある間は可能な限り治療を受けに通院したほうがいい。

 下手に我慢などして通院せずに示談してしまえば数万程度の慰謝料になり、その後、例え痛みが残っていると訴えても相手にされず、結局泣き寝入りするしかないことも少なくはない。

 ちなみに自賠責の上限は百二十万円。慰謝料・施術費・その他車の修理費や休業補償など諸々合わせての保障額で、この額を超えると各保険会社の計算式に変わり、慰謝料の一日当たりの額が低く計算される。】


 会話は少なく、施術を受けながら時折眠りに落ちるユキコ相手に、穏やかな雰囲気のまま小一時間ほど時間は経過した。

「はい、終わり」

 あまり色艶のある展開が無かったのが名残惜しいが、どことなく思い詰めた雰囲気に刺激を与える行為は諦めることにする。

 大概このあとの別れ際は、もう来ない、会わないと宣言し、未練を断ち切るかの如く、悲しい顔で立ち去る彼女の後ろ姿を見送るのが常であった。

「ねえ、先生・・・」

 今日もそうだろう、と妙に慣れたもので、いい加減腹も減ったこともあり昼飯をどうするか考え始める。

「今日は夕方まで一緒にいたら駄目かな?」

 素直に喜べないのは今迄の経緯から、理由ならそれで充分だろう。

「何かあった?」

 先立つ「心配」に理由を尋ねる。

「父と母が今日、二人で出掛けて家に誰もいないの。それで家に独りでいるとなんとなく不安で・・・落ち着かないから・・・」

 若干、情緒不安定気味な答えが気になるが、それもなんとなく彼女らしい答えに思われ妙に納得してしまう。

 どちらにせよ一緒にいる時間が増えることに否応もない。

「分かった、とりあえず昼飯に付き合ってくれ。もう食べた?」

 土曜日だがこの時間ならそれほど混んでないだろう、と幾つかの飲食店を思い浮かべる。

「食べてないけど、外はちょっと・・・」

 今も二人の関係は周囲に隠したままだ。

 一緒にいる姿を人に見られたくない、公にしたくはない気持ちを尊重すると接骨院の外には出られない。

「じゃあ宅配のピザでいいか?」

 頻繁に郵便受けに入っているチラシは普段は鬱陶しく思う時もあるが、こんな時は大いに助かる。

 適当に選んで電話で注文をすると一時間はかかると言われた。


「二階に上がれる?」

 住居付店舗、二階の六畳と四畳半にはエアコン・テレビ・冷蔵庫など、住もうと思えば住める程度に家電用品も揃っている。

 くつろぐつもりなら二階に上がったほうがいい。

 上がれるか聞いたのは汚いけど大丈夫か、などの意味ではない。

 なにしろ今迄彼女を二階に上げたことは無かった。

 加えて彼女の信じるキリスト教の教えでは婚姻前の異性が部屋などの密室で二人だけになってはいけないとされ、やむなくそのような状況になる場合は部屋の扉は必ず開けておく、といった決まりごとがあることを聞いていたからである。


【サムエル記十三章に、仮病を装った兄が誰もいない部屋に妹を見舞いに来させて辱めた話がある。このことから異性と密室で二人きりにならない、相手をその行為に走らせる状況に身を置かないことを聖書は説いている。】


 今のところ接骨院の施術室内であれば彼女の許容範囲であった。

 拒否されれば味気ないが待合室の椅子か施術用ベッドでも利用して、飯なり何なり時間を過ごせばいいかと考える。

「・・・へんなことしない?」

 一瞬、詰まる。

 下心も無いことはない。

「まあ、嫌がることはしないつもりだけど」

 どの辺りまでの行為が「へんなこと」なのか、一度はっきり聞いてみたい。

「信用してもいい?」

「あんまりしないほうがいいかもしれない」

「・・・」

 困った顔がポーズなのか本気なのか、他の相手なら疑うところだ。

 この手の冗談が通じない彼女の思った通りの反応に吹き出すのを堪えながら、その子供のような脳ミソの詰まった頭を軽く撫でる。

「嫌がることはしない。約束する」


 見栄を張るわけでも見られれば困るものがあるわけでもないが、少し片づけると先に二階に上がり、とりあえずビールの空き缶やらコンビニの弁当の容器など袋に詰め込む。

 埃が舞い掃除機も考えたが、疲れた体にさすがにそれは面倒だと思いやめた。

 階段を上がって六畳間、入って右手に四畳半、物置代わりで段ボールの山が半分を占めている四畳半に無理矢理ゴミの類を放り込むと足の踏み場が心許無い。

 次に問題は六畳間の奥に敷いてある布団だ。

 万年床そのままの状態で女性を部屋にあげるのはいかがなものかと一応は考えてみたが、置き場所も無く面倒な為、まとめて二つ折りにして端に追いやる。

 見渡せば随分雑な片づけだが、格好つけて取り繕う程の若さも今は無い。

 こういった男の部屋に入った経験が少ない、もしくは皆無であるかもしれない彼女の反応が不安に思わないことはなかったが、この際これで良しと諦めることにした。


 待合室の椅子で少し緊張した面持ちで座って待つユキコを呼ぶ。

 まだ抵抗があるのか、幾らか躊躇いがちに階段を上がりながら「へんなことしない?」と念を押すようにもう一度聞いてくる彼女に苦笑しながら頷き返すと、観念したのかようやく部屋に一歩踏み入った。

「意外にきれいにしてるね」

 雑然とした部屋を見渡しての一声は、それこそ意外な感想だった。

「弟の部屋なんてもっと散らかってるもの」

 免疫はあったようで部屋の汚い弟に心の奥で感謝する。

 安心したところで座椅子に座るように勧め、四畳半にある冷蔵庫からビールを取り出しながら聞いてみる。

「飲むか?」

 首を横に振り断られる。

 自分が飲むことの許可を頂いてから彼女の飲めそうなものを探すが、ビールばかりが冷えている冷蔵庫の中は気の利いたものは無く、それ以外だとペットボトルのお茶しかない。

 とりあえずと客用の湯呑に冷たいお茶を注ぎユキコの前に置いてから、満を持して缶ビールで喉を潤した。


 考えてみれば二人きりで、向かい合って会話を交わすのは森林公園以来だった。

 施術中などは後頭部と話しているようなものだし電話では声だけ、落ち着いて正面から見据えての会話に柄にもなく気恥ずかしさを憶える。

 それでもさして盛り上がりがあるわけでもない他愛のない会話は時が経つことを忘れるくらいには充分なもので、ピザの宅配の到着を告げる呼び鈴の音で一時間近く経っていたことに気付かされた。


 食事を終える頃、ビールは500の缶を三本空けていた。

 人心地つくと急に眠気が襲ってくる。

 どうにも瞼が重たい。

 食べ残しを冷蔵庫に入れゴミを袋にまとめる、それが限界だった。

「少し寝るからテレビでも見てて」

 そういって席を立つ。

「どこ行くの?」

「下のベッドで寝てくる。何かあったら呼んで」

「・・・待って」

 階段を下りかけたところで声をかけられた。

「ここで寝ればいいのに」

 そういって二つ折りにしてあった布団を、ご丁寧にシーツも綺麗に整えて敷きなおす。

 そうしてまたちょこんと座椅子に坐り直した。

「一応、気を遣ったんだけどね」

 拒否する理由も見当たらず、確かに独りにして放置するのはどうかと思い直し御言葉に甘える。

 何しろ眠いので思考も鈍い。

 布団にもぐりこみ、三十分後に目覚ましのアラームをセットした。

「ああ、気にならないからテレビはつけたままでいいよ」

 遠慮してテレビを消した彼女の姿を見上げながら、ふと欲が出た。

 手を伸ばし、すぐ横に座っている彼女の腕を引っ張る。

 少し驚いた気配を無視して手を握る。

「おやすみ」

 これで満足出来るささやかな欲だ。

 握り返された微かな力に、何事もなかったようにテレビをつけた彼女の顔を想像しながら抗えぬ眠りに落ちていった。


 寝過ぎた。

 普段から遮光カーテンを閉め切っている室内は常に暗いとはいえ、太陽が昇っている間はその隙間から光が洩れている。

 その光も今は感じることが出来ないことを考えれば、少なくとも夕方の六時はまわっているかもしれない。

 目覚まし時計は気付かぬうちに消してしまっていたようだ。


 まだ酔いが残っている所為か状況の把握がいちいち遅い。

 横向きに寝ていたその背側に人の気配を感じたのはしばらく経ってからあとであった。

 上体を起こし、振り返る様に体の向きを変える。

「ああ、おはよう・・・」

 動いた気配で起きたのか元々寝ていなかったのか、目が開いているのが暗がりでも視認出来る。

 行儀よく上向きの姿勢で寝ているユキコに、いまひとつ状況が呑み込めぬまま間抜けな挨拶をした。

「俺はここで寝ててもいいのかな?」

 勿論この状況だけなら「誘っている」と判断し、「据膳食わぬは・・・」などと考えるのが妥当だ。

 それでも相手が相手なだけに余計な期待はせず不粋とは知りつつ尋ねた問いに、小さな頷きと釘を刺す言葉が続いた。

「へんなことはしたら駄目だからね」

 自分からもぐりこんできたわりに、一杯一杯の表情と予防線を張る言葉がいかにも彼女らしく、なんとなく毒気を抜かれた気分になる。

「まあ腕枕はしとこうか」

 多少調子に乗って、返事はまたずにユキコの頭を持ち上げ枕を滑り込ませる。

 大きめの枕はつめれば二人分の頭をのせることが出来る。

 そうして隙間の出来た首の後ろに右腕を差し込むと、彼女は驚き、感心したように呟く。

「腕枕ってこうやってするんだ」

「どうすると思ってた?」

「腕にそのまま頭をのせるのかと思ってた・・・」

「それじゃあ腕がしびれちまう」

 顔を見合わせ小さく笑う。

 この状況で目の前にある頬に口づけをしたところで誰が咎めよう。

「!」

 驚いた表情で少しだけ身を離す。

「そんなに逃げなくてもいいだろ?今更ほっぺにキスしたくらいで」

「・・・だって・・・いつもと状況が違うし・・・」

 明るいところで見れば耳まで真っ赤になっていることだろう。

 恥ずかしさととまどいの入り混じったような感情がよく伝わるが嫌がってはいない。

「へんなことしたら駄目なんだからね」

 一線を守る為の言葉も、おざなりのように繰り返せば効果は無い。


 真面目一筋と思われていたユキコの大胆な行動に、やはり彼女自身も興味や願望はあったのだろうと都合よく解釈する。

 待たされた分、他の事情を斟酌する気は無かった。

 過度の期待は禁物とはいえ、合意の上でならとりあえずは流れに任せて、嫌がる様ならやめればいいか、などと安易に考え行動に移る。


 体を抱き寄せ、上半身を覆う様に強く抱きしめた。

 長袖のシャツとロングスカートの薄手の生地は、その下の体温をやけに感じさせる。

 腕から少し緊張が伝わるが、それは決して拒絶の反応ではなかったことが次の行動へと背中を押す。

 交わす、というより奪うような口づけに対して真一文字に閉じられていた口元は、その唇へのかるい愛撫だけで抗うことなく舌の侵入を許した。

 初めてした時に比べれば上達した、それでもどこかぎこちなさの残る舌の動きに愛しさを覚え、貪るように求め弄い、抱きしめる腕には徐々に力が込められる。

 柔らかな胸は狭まる二人の間に押し潰され、ユキコは声を漏らす。

 絡ませる舌の音が次第に高く響き、まるで理性により抑圧された本能への枷がひとつひとつ解放されるようにその動きもまた荒々しく勢いを増していく。

 たかだかキスだけの行為が飽きもせず延々と、執拗に繰り返されていた。

 受け身なだけの彼女でもなかった。

 手持無沙汰におろしていた細い腕は不慣れさを感じさせながらも抱きつくように、離れないようにと背に手をまわし、唇を離そうとすれば追い離れず、ともすれば自ら舌を絡ませることも厭うこと無く求め、応じた。


 混じりあった唾液がのどに絡まったのか、ユキコはたまらず咳き込む。

「大丈夫か?」

 返事を期待するのは酷のようで、しばらく落ち着くのを待たなければならなかった。

 横向きの姿勢を確保し、手をまわしむせ続ける彼女の背中を擦るが、裾のめくれたシャツはともすれば引っかかり、邪魔になるのがもどかしい。

 せっかくなのでいっそのことと遠慮がちに邪魔なシャツの下に手を滑り込ませ、素肌に直接触れて擦ってみた。

 施術以外で初めて触る肌の感触に調子に乗り過ぎかとも思ったが、さして抵抗もお咎めもなく、それどころではない彼女は息を整えることにいそしんでいた。

「だって息継ぎのタイミングが分からないから」

 落ち着いての第一声がこれだった。

「先生がずうっとしていて離れてくれないから・・・」

「素直に鼻で息できなかった?」

 驚いたように目を開き、一度瞬きをしてから初めて気が付いたようにそう、そうだよね、と呟く。

 その姿につくづくこの手のことに関してはお子様であることを思い知らされる。

 この状況では父性愛にでも目覚めそうだ。

 背を擦ることそのまま「よしよし」とあやしてみる。

「あ、ごめんね、擦っていてくれて。疲れるでしょ?もういいよ、ありがとう」

 落ち着きを取り戻すと、やはり背とはいえ素肌に触れられることに恥じらいがでてきたようだった。

「嫌か?」

「そういうわけじゃないけど」

「肌の感触が気持ちいいからこうしていたいけど・・・駄目か?」

 堂々と正直に言ってみると「もう」と呆れながら、それでもまんざらではないらしく「別にいいけど・・・」 と諦めたように呟く。

 易々と許可を与えられると図に乗るのが男の生態であることを彼女はまだ知らない。

「さて、じゃあ次からはもう少しゆっくりしてみようか」

 仕切り直すように、始めは軽くふれるように唇を愛撫し、舌で弄い相手の動きを誘う。

「こんなこと・・・」

 そう言いながらも、求めて絡める舌の動きから少しずつ躊躇いとぎこちなさが消えていく。

 慣れてきた頃合いを見計らい、背を擦る手の動きに変化を加えてみる。

 手の平ではなく五指の指先が軽くふれる程度に背中を這わすと、僅かに身を固く震わせ声を漏らす。

「なんか・・・いやらしい・・・」

「やめる?」

 都合の悪い問いには無言で答えるのが彼女だ。

 ゆっくりと這わす指の動きに合わせて口づけを繰り返すと次第に息は荒く、唇の隙間から熱い吐息が洩れはじめる。

 ゆっくりと足を絡ませ、顔をずらし耳元に口を近づけ息を吹きかけるとびくんと体を震わせる。

 腕に抗う気配を感じるも耳の中と裏を交互に舌を這わせ、噛み、弄ぶように責めるとたまりかねてか喘ぐように声を漏らす。

 慣れてないわりに、いやその所為か耳と背を責めての過剰ともいえる反応は、絶頂に達するかのように痙攣と弛緩を繰り返し、止まることのない感覚に身を委ねているようだった。

 調子に乗って今度は首筋に舌を移す。

「・・・もう・・・これ以上は・・・」

 切なげな、か細い声も拒絶の意志がなければ構うことなく、どころか淫虐心を震わせた。

 いきおい舌を這わせ、また唇を密着させかるく吸う。

「・・・痕が残ったら困るから駄目だよ・・・」

 キスマークは知っていたらしい。

「これくらいなら大丈夫」

 こんな時に駄目など逆効果だ。

 何か理屈をつけているうちは本当に拒否する気持ちのないことが透けてみえる。

 本当に嫌がるのなら止めるつもりも、まだそうではないようだと再び舌を這わせる。


 場違いに明るい曲が鳴り響き、驚き数瞬二人の動きが固まる。

 傍らの彼女のバッグから無遠慮に鳴っているのは携帯電話の着信音だった。

 行為の背徳感に、何か見つかって咎められた気分になったのは彼女も同じだろう。

「たぶん、母から・・・」

 申し訳なさそうに目を伏せる。

 着信のメロディーで分かるようだ。

 切り上げ時だと判断して身を起こした。

「出たほうがいいだろ」

「・・・うん」

 そういって起きようと身をよじる彼女の動きが止まった。

「・・・先生、どうしよう」

 顔だけ向けて泣きそうな声で訴える。

「手がうごかないよぉ・・・」


 ユキコは完全に取り乱していた。

 上半身を起こして座らせ、手を動かせるか聞いても首を振るばかりでどうしようと繰り返すばかりであった。

 今にも泣きだしそうな勢いであり、携帯電話の着信音がそれに拍車をかける。

「大丈夫、すぐ治してやるから」

 意外と冷静でいられるのは、たまに発作を起こしたり、意識を失ったり、呼吸が止まりかけたりする患者を少ないとはいえ診て場馴れしていたことがある。

 脈を取り、知覚はあることを確認し、眩暈・吐き気・頭痛の無いことや明瞭に話しが出来ることを確認する。

 専門ではないが考えられるのは一時的な心因性のショック症状か過換気症候群だろうか。


【 過換気症候群とは若い女性に多く、精神不安など何らかの原因で過呼吸、息が荒くなるなど過剰に呼吸を行うことにより血中の二酸化炭素が減少し引き起こされる。

 症状は呼吸の激しさにより強くなり、息苦しさ・胸部の圧迫感や胸痛・動悸・眩暈・手足や唇のしびれ・痙攣・意識混濁、その他脈が一分間に百を超える頻脈がみられる。

 数十分から数時間程度で自然に軽快はする。

 緊急的な措置として紙袋を口に当て呼吸を繰り返し自分の息を吸うことにより血中の二酸化炭素濃度を上げる方法もあるが、他の酸素を必要とする傷病の場合は逆効果で死に至ることになりかねず、相手が過換気症候群であることが確定している場合のみ行うことを覚えておきたい。】


 両方の肩から先、腕が全く動かせないようだが、他に取り立てて症状の無いことから対応を決め、落ち着かせる為に深呼吸をさせ背後にまわる。

 やることは単純だ。

 些か乱暴だが強い刺激を与えればいい。

 肩井というツボがある。首と肩関節の真ん中辺り、乳頭を垂直に上る線上の筋肉の盛り上がっている辺り。肩こりなどでよく紹介されるツボである。

 両肩の肩井を親指でゆっくりと、強く押す。

「少し痛いけど我慢してくれ」

 いつもの施術より強い刺激も、それどころではない為か文句は出ない。

 親指の圧を一定に保ち一分ほど経ったところで動くか聞いてみる。

「・・・動く」

 まだ思い通りとまではいかないようだが、なんとか指や肘を曲げられるようだ。

「まだこのまま肩を押し続けるから,もう少し我慢して」

 その後は数分と経たずして腕は元通り動くようになり、他に異常のないことの確認を終えてひとまず安堵した。

 明かりをつけて布団の上に座ったままの彼女を後ろから支えるように抱きしめる。

「お子さまには刺激が強すぎたかな」

「・・・私のほうが年上なんですけど」

 むくれてはいるものの、さすがに照れくさいのか耳が真っ赤だ。

 目を閉じ、疲れが出たのか身を預けるようにもたれかけてきたユキコの頭を撫で、しばしまどろみ時が過ぎた。


 思い出したかのように携帯電話の着信音が再び鳴り始める。

 ひとつ大きな深呼吸をして身を起こし、ユキコは躊躇いがちに電話に出た。

 会話の間傍らにいるのもどうかと気を遣うと同時に、煙草が恋しくなり、身を離し換気扇の下へと移動した。

 数時間ぶりの、騒動後の一服はひとしお旨く感じる。

 吸い終わり戻ると、通話も終わり着信履歴を眺めているところだった。

 騒動の最中、気付かなかったが何回かかけ直していたらしい。

「母が家に電話してもでないから心配してかけていたみたい」

 出掛けていたから、と説明していたのは聞こえていた。

 嘘ではないが本当のことは言えないバツの悪さが彼女の表情を曇らせるのを見ると、さすがに良心の呵責を感じる。

「帰りが十時過ぎになるから、ってことだけだったんだけどね」

 時計は八時十五分、結構時間が経っていた。

「落ち着いたら送るよ」

 横に座ると甘えるように抱きついてきた。

「最後に抱きしめて貰ってもいい?」

 遠慮がちに囁く彼女が愛おしく、強く抱きしめ優しく唇を重ねた。

「帰したくないな」

「・・・帰りたくない・・・」

 時が許さないことを知りながら、最後にもう一度強く抱きしめた。



 翌日昼近くに目覚めるとユキコからメールが届いていた。

 冒頭の親とは特に問題が無かったこと、揉み返しで肩が痛むことの報告に続き、綴られた自戒や懺悔の文章に変わらずクリスチャンとして生きる確固とした意志を確認することになる。


   さようなら。


 また泣きながら綴ったであろう思い詰めた文章は、何度も目にした、耳にした言葉で締めくくられていた。

 謝罪と再び待ち続けることを伝える返信をする。

 またしばらくは姿を見せることは無いだろう。

 雰囲気に流されずプラトニックを貫くべきであったと反省し、頭を掻いた。

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