六 2005年3月初旬
もう三月になる。
状況は何一つ変わらないまま時間だけが緩やかに過ぎていく。
接吻を交わした去年のクリスマス以降、肉体的接触は施術以外では一度もない。
そんなプラトニックな恋愛に意外と馴染んでいるのは妙な気分だった。
それでもこのままでいいとは思わない。
互いの宗教に対する考えは今も平行線のままだ。
良好な関係は互いの領域に踏み込まず、一定の距離を置いているからこそ保っていられることに気付いていないわけはなかった。
毎月第二水曜日の午後を休みにしているのは平日にしか開いていない銀行や郵便局やらでの用事をする為だ。
それでも今日は用事が特に無く、昼からビールでも飲んでのんびり過ごそうかと患者相手に施術をしながら考えていた。
半日で受付終了する日は混み合うもので朝からそれなりに忙しい。
「ベルトはね、いつも着けるようなものじゃないんですよ」
このベルトとは腰痛用のベルト、コルセットなどのことである。
腹巻のように腰に巻く、背中側には背骨に沿うように細い鉄板が縫い込まれており、両サイドにあるゴムの副ベルトできつく締め上げると腰への負担がかなり軽減される。
取り外しもマジックテープで簡単だ。
整形外科や接骨院で腰を痛めた時に出されるものだが、説明不足のことが多い。
四十代男性で昨日腰を痛めたとのことだが、触ってみたところ腹筋・背筋がやけに弱そうで、聞いたところ十年以上前にぎっくり腰をやって以来、不安でいつも腰痛用のベルトをしていると言う。
「確かにこのベルトは筋肉の代わりをしてくれるから、着けていれば楽だと思います」
だいぶ痛みも治まってきているようなので施術をしながら説明する。
「ただ着けっ放しだと、自分の筋肉を使わなくなるのでどんどん腰は弱くなっていきます。そうなると腰の骨も変形して神経痛も出やすくなりますよ」
腹周りの筋力の衰えは骨の変形や内臓器官への悪影響を及ぼしやすい。
「そんな説明されなかったから、今までずっと着けてたな」
「まあ、いきなり外して生活するのも不安だと思いますので、仕事以外では外すとか、重いものを持つような時だけ着けるとか徐々に慣らしてみてください」
一通りの処置を終え様子を見ることにする。
「とりあえずこれで今日は終わります。腰のベルトはまだ痛みがある間は、寝る時以外着けるようにしてください」
「お大事にしてください」
最後の患者を見送ると、時計は午後一時をまわり、いい加減腹も空いた。
受付嬢は帰し、シャッターを閉め煙草を吸いに二階に上がるとテーブルの上に放ってあった携帯電話が何か点滅している。
ユキコからメールが来ていた。
今日の午後、空いてますか?
特に用事は無い。
メールを打つ動作が面倒なのでそのまま電話をかける。
「もしもし、何?」
「あ、先生。今日このあと夕方まで時間は空いてる?」
「それは平気だけど」
「行きたいところがあるの」
今まで人目を気にして外で会うのを拒絶していた筈が、どうした風の吹き回しだろう。
「分かった。とりあえず迎えに行くから、家でいいか?」
カルテを見れば住所が分かる。
「家じゃなくて違うところ。先生の車にカーナビは付いてる?」
古いが一応付いている。
自慢じゃないが方向音痴の為、無ければまず目的地に辿り着けない。
「待ち合わせの場所はメールしとくね。先に行って待ってるから」
電話を切るとすぐにメールがきた。
車でおおよそ二十分。
指定された住所の場所は隣町の市営体育館だった。
それ相応に広い敷地は平日の昼ともなると利用者もまばらで閑散としている。
他に周りには工場らしき建物と田んぼが見えるくらいで大したものがあるわけでもない。
彼女はすぐに見つかった。
有料駐車場の前にちょこんと立っている。
寒さの所為か身を縮こまらせながら、自分の軽自動車はもう中に停めたと助手席に乗り込ん出来た。
「また変な場所を待ち合わせにしたね」
「前に何度か来たことがあるの、ここなら知り合いに会うこともないと思って」
やはり人の目は気になるようだ。
「ごめんね、先生。親はまだ何も知らないから家の近所は駄目だし、先生の近所も知り合いばかりで、ここしか思い浮かばなかったの」
ここまで用心しなくてもよさそうな気もするが、それでも接骨院から彼女の家までは二キロも離れていないことを考えれば近場だと人目につきやすいのは間違いなく、そのうえ接骨院の店舗の大家であるツジさんも同じキリスト教の仲間だと聞かされていたことを思えば仕方がないのかもしれない。
「それはいいんだけど、行きたいとこってドコ?」
「あ、森林公園・・・」
聞いたことのない地名の森林公園。
地元でない土地では、未だに市内も把握していない。
場所の見当もつかずに近所か尋ねると首を振る。
それこそ市外はさっぱり分からず、素直に地名をカーナビに入力することにした。
予想到達時間が九十分。
「山の中の国道を抜けていくから一時間くらいだと思うけど、いい?」
「俺はいいよ、デートできるならどこでも」
「デート・・・なのかな?」
ここで首を傾げられるからたまらない。
「違うの?」
「よく分からない」
相変わらずの答えに脱力感を感じつつ、とりあえずアクセルを踏んだ。
中古で買った特に高級感もない三ナンバーのセダンの長所は静粛性と室内の広さくらいだが、今日はその広さが運転席と助手席の間、二人の距離を肘掛が隔てさらに遠くに感じさせていた。
「オートマだから左手が空いてる」
肘掛に載せた左手を軽く振る。
意図は察しているようだが無反応。
「つながない?」
そういって掌を上にして置いておく。
国道に出るまでは入り組んだ小道を走る為、視線は前を向いたまま、左手はしばらく放置されていた。
躊躇する気配は伝わっている。
ここで恥ずかしがられるとこちらも照れる。
赤の信号で彼女のほうを向き、改めて手を差し出した。
「どうする?」
答えが分かっている聞き方に少しむくれた表情を見せる。
それでもそこは素直に、ユキコは自分の右手を重ねてきた。
考えるまでもなく接骨院以外の場所で会うことは初めてである。
待ち合わせも、ドライブも、手をつなぐことすらも初めてである。
その割にこれといった盛り上がりや新鮮味が無いのはいかがなものかとも思うが、過度の期待を持てる相手ではないことからもやむを得ない。
「そういえば仕事は?」
いつもならこの時間は家の仕事を手伝っている筈であった。
「今日は父と母が用事で出掛けて休みなの。帰ってくるのも夜九時過ぎくらいだからその前に帰ればいいし」
言い訳せずに出てこられる状況に偶然今日なったらしい。
それでも彼女にしてみれば珍しく思い切った行動だ。
「毎年行ってるところなんだけど一度先生と行ってみたかったの。ちょうど時期もいいし」
山や自然が大好きだと彼女は前から話していた。
田舎育ちの身の上としては、わざわざ森林公園なぞと造られた自然に行くなどは考えたこともないが、こういった相手のあることであれば否応もない。
天気もいいし、絶好の散歩日和だった。
「水曜日はいつも空いてるの?」
今後のことも考え聞いてみた。
「ううん、こんな日は珍しい。今日は仕事の付き合いで行かなきゃいけなかったみたいで母はそれのお供」
「仲良いな。そういえば両親も同じ宗教だったけ」
ふと気になっていたことが口をつく。
「やっぱり親がそうだから結婚相手は同じ宗教限定なのか?」
相手はクリスチャン限定なのは、なんとなくキリスト教だから、で納得していたので理由を聞いたことが無い。
「それもあるのかな」
推奨はされているが戒律などで決められているわけではないとのことだ。
それだけならそこまで拒絶しなくてもよさそうなものだが、話は続き、他にもやはり理由はあった。
クリスチャンとそうでない者との結婚もそう珍しいことではなく、知人にも数人いるそうだが色々問題があるらしい。
当人同士だけでなく嫁姑、親類縁者、結婚は当人だけの問題では済まない。
争うつもりはなくても波風は立ち、形だけとはいえ意に沿わぬ他宗教の慣習に付き合わなければならないことも多々ある。
結婚後に初めて気付く価値観の違いや相手の本性も有り、後悔しても宗教上の理由から離婚出来ないともなれば慎重になるのも無理はない。
「それでも私、普通の人とつきあったことはあるんだよ」
普通の人、これは勿論無宗教の人間のことだ。
告白されての交際はやはり価値観の違いから長く続かなかった。
それだけで済めばまだ良かったが別れを告げたあとに執拗なストーカー行為を受け、恐怖で心的外傷を負った。
今でも少し男の人が怖い、そう言って辛そうに笑う。
そんな背景があれば結婚はおろか交際を躊躇うのも納得せざるを得ず、無理強いなど出来る筈もない。
過去の男に無性に腹ただしさを覚えると同時に、それでも彼女が今隣にいることの意味を考えれば嬉しくもあった。
気長に待とう、そう思いながらもまだ何か言いあぐねているような彼女の表情にどこか不安を覚えていた。
目的地の森林公園に着くと、やはり平日の所為か駐車場の車もまばらだ。
「あんまりゆっくりできるか分からないけど」
時刻は三時をまわっていた。
夕方になれば陽が落ちるのはまだ早い。
「とりあえず行ってみようか」
長袖のTシャツとジーンズ姿に肌寒さを感じて後部座席から取出し羽織ったのは、膝下まであるダボッとした形が気に入って着古している大きめな灰色のワークコートだ。
街中なら少々小汚い格好だが山に入るには問題ない服装だろう。
対照的に車から降りて改めて見る彼女の姿は随分洒落た小奇麗な格好だ
ベージュのハーフコートと、その下の薄い藍の足首近くまであるロングスカートはよく似合い、街中であれば申し分ないだろうが山歩きには些か不向きに見える。
「山だと歩きにくくないか?」
「大丈夫、靴はスニーカーだから」
そう言った足元には着ている服には不似合いな年季の入った運動靴を履いている。
まあ本人がよければそれで良しとしよう。
梅は少し遅く、桜にはまだ早い時期だろうか。
それでもここのところの暖かな日和は木々や草花の芽吹きを誘い、景観に彩りを添える。
造られた自然とはいえ鬱蒼とした木々の合間の木洩れ日や葉を揺らすそよ風を感じれば、そこに郷愁にも似た奇妙な感慨が呼び起こされるような気がした。
緩やかな斜面の歩道を順路通りに、どちらともなく手をつないで歩いていた。
つなぎ方が年甲斐もなく初々しい。
恋人みたいに見えるかな、と彼女は笑う。
その姿が、無理をして明るく振舞っていたように見えたことは気付かないフリをした。
奥へ進むと木立が途切れ、見通しの良い、大きな池が見える開けた場所に出た。
休日ともなれば池のほとりで弁当を食べる親子連れが見られるのだろう、簡素な木製のベンチが景観を損ねない程度に配置されているのを見つけた。
「少し休憩しよう」
屋外のベンチにそのまま座らせるのもいかがなものと思うが、ハンカチを持ち歩く習性は残念ながらなかった。
おざなりに表面を手で払う。
そう大して綺麗になるわけでもないが気分の問題だ。
「どうぞ」
とりあえずはレディファーストで、続いて横に座る。
周りを見ると人影は無い、そう確認して身を寄せてきたのはユキコからだった。
初めて口づけを交わしたイブの日以来、プラトニックを貫いてきた。
目が合った。
躊躇う理由もなく肩に手をまわし、抱きしめるように身を引き寄せ口づけを交わす。
求め合っていた。
離れ、そして重ねる。
息をするのも忘れるほどに長い、長い間。
不安定だった体勢を変えようと、ベンチに跨る様に座り直し、改めて抱き寄せようと彼女に手を伸ばす。
まわそうとしていた腕が宙で止まった。
顔を上げた彼女は口を一文字に結び、目から涙がこぼれないように耐えていた。
幼子が懸命に泣くのを堪えているように見える。
そのまま抱き寄せ顔を胸に押し当てた。
人の目から隠すように、こんな時大きなワークコートは便利なもので、包み込むように彼女の上半身を覆った。
外界から遮断されたコートの中から微かに嗚咽が漏れる。
「いいよ、泣いとけ」
堪える理由を失い、彼女は堰を切ったように大きな声を上げて泣き始めた。
不器用な泣き方だった。
泣くことに慣れていない泣き方だ。
言葉に出来ない想いを訴えるかのように大きな声で泣いた。
声を聞きつけたのか、少し離れた木々の合間から、路を歩いてきた老夫婦が何事かとこちらの様子を窺っているのが視界に入る。
困ったことに、確かに素通りしにくい状況だ。
近寄りかけた老夫婦に、コートの下に彼女を抱きかかえたまま、努めてにこやかに苦笑しながら会釈する。
なんとなく雰囲気を察してくれたのだろう。
誤解無く理解して頂いたようで「邪魔したね」というように片手を挙げ、無言で立ち去ってくれたのはありがたい。
あとはただユキコの背中を擦ることだけ。
今は他に、胸のなかで嗚咽を繰り返す彼女に出来ることはなかった。
陽が朱く染まり始める頃、ようやくユキコは落ち着きを取り戻した。
「もう大丈夫、ごめんね」
そう言って笑う顔は「クリスチャンであろう」とする顔だ。
結局そうやってぎこちない仮面をまた被る。
それでもそんな彼女がたまらなく愛おしかった。
彼女の髪をかきあげ顔を近づけると、拒否するように一度だけ顔をそむける素振りをする。
抗いきれないのは弱さなのだろうか。
そして唇を重ねる。
また一筋、彼女の頬には涙が流れていた。
帰路につく車の中、距離が近くなったような、遠くなったようなユキコ相手に会話はいつしか途切れ、また彼女を追い詰めるかもしれないことを知りつつ、いつもの質問が口をつく。
どこか焦りがあったのかもしれない。
「やっぱりまだ相手は同じ宗教限定で結婚前提のつきあいしか認められないか?」
資格に結婚が必要なだけならそれは受け入れられる。
障害である宗教に関しては愛さえあれば大丈夫、などと言うつもりは無いが、それでもなんとかなるだろうと前向きに考えていた。
「俺じゃ駄目か?」
ユキコの小さく頷く姿にいつも通りの失望と後悔を抱きながら、やはり納得はいかず、意地になり再び説得を試みていた。
「それでももう一度考えてみてくれないか?俺も理解できるように努力はするつもりではいるから。もしかしたら妥協できるところも見つかるかもしれないだろ」
自分に対する好意以上の、恋慕の感情を彼女が持っていることを確信している。
それだけにこのまま二人の関係性をあやふやなままでいることにも限界も感じていた。
「どうなのかな」
困ったような、悩むような、何とも言えない表情をつくり思いあぐねながらしばらく沈黙をつくっていたユキコは、やがて意を決したように口を開いた。
「聖書について・・・聞いてくれる?」
初めての申し出。
これまで「宗教上の理由でできない」ことの説明くらいでしか意図的には宗教について語らなかった彼女であった。
彼女が、いや互いに踏み込むことを恐れ意識して避けていた領域。
「構わんよ」
今でも宗教に興味は無く、勧誘されるつもりも無い。
それでも話を聞けば共感や理解出来るものがあるかもしれず、互いの主義主張に落とし処を見つける為にも対話は必要とは考えていただけに異論は無かった。
何から話そうかとユキコは言葉を選ぶように宙を仰ぐ。
「先生は神様を信じてる?」
「どうだろうな」
本音を言えば信じる以前に興味が無い。
あえて考えるのなら自然崇拝などの事象や物事に対しての擬神化のように、畏怖や感謝の対象として捉えるのであれば「あってもいい」と思う程度である。
少なくとも「救う」「導く」などをお題目にした、人に都合のいい神様の存在は信じない。
それでも今は真剣な語りのユキコ相手に反論し混ぜっ返すことはさすがに憚られ、ここは理解に勤めようと素直に耳を傾ける。
「まずね、見えないものでもきちんと信じることができないといけないと思うの」
『「私達は見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」 コリントの信徒への手紙2』
だから信じなければならない。
「そうか」
「こうやって人が生きていけるのも主がこの世界をお創りになられて、見守ってくださるからで、だから私達はその教えを守っていかなきゃいけないの」
『「心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさい」 マタイによる福音書22』
だからそうしなければならない。
「そうか」
「聖書はどれくらい古くからあると思う?そういう古い本が世界でもこれだけ広まっているのは、書いてあることが本当に正しいことだからなの」
『「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ・・・」 テモテへの手紙2』
だから信じることが出来る。
「そうか」
そしてユキコは延々と聖書を語る。
だから信じられる、信じるべきだ、教えは守られるべきだと、それが真実正しいと語る。
頷きながら次第に彼女を遠くに感じていく。
会社帰りの渋滞に巻き込まれたようで車の流れが遅い。
信号待ちの間、熱を帯びた様に語り続けるユキコと目が合った。
「死ぬことで終わりじゃないよ。イエスを信じなかった人達は地獄で永遠に苦しみ、最後まで信じていた人たちだけが救われて天国で永遠に生きていくことが許されるの」
完全に死後の世界がある、信仰に疑いを持たない宗教家の目に、いつの間にか服の下の肌は総毛だっていた。
「私は・・・先生も救われて欲しい」
向けられた懇願にも似た痛切な願い。
それでも初めて間近に見る、宗教家として聖書を語る彼女の雰囲気に目を逸らさずにいられなかった。
この時点で彼女とはもう本当に終わりにしたほうがいいと思わなかったわけではない。
「神様を信じるってだけじゃ駄目なのかな?」
それでも宗教を差し引いてもまだ、彼女を諦められない往生際の悪さを自覚しながら活路を見い出そうとしている自分がいた。
「まだ聖書は理解できないし入信は無理だ。でもキリスト教の神様を信じて拝むぐらいは努力してみる」
仏教の在家信者のようなもの、出家した者と違いとりたてて宗教活動はせずに自由に日常生活を送るやり方くらいしか思い浮かばない。
宗教の枠組みにの中に入り聖書の教えを守ることは難しいが、拝むくらいなら出来る、精一杯の妥協案だ。
「入信はしなくてもお祈りには付き合うしボランティア活動とかなら参加もする。あとは清く正しく善いことをして、お天道様に恥ずかしくないよう真っ当な生き方をするってことでどうだろうか」
無宗教者にとって、現状では最大限の譲歩のつもりだ。
「それじゃあ駄目なの」
ユキコは首を横に振り、寂しそうに答える。
「その気持ちは本当に嬉しいんだけど・・・」
正しい信仰とは神と聖書に疑いを持たず受け入れ教えを守ることにある。
祈ることも善行も、洗礼を受けクリスチャンになり聖書に基づいたものでなければならない。
でなければ神に認められることはなく救われることも無い。
うつむきながら静かに語るユキコの言葉に、それ以外は認めず妥協を許さぬ揺るぎない意志を感じて頑固なものだと辟易する。
「やっぱり先生には理解できないよね」
否定は出来ずに無言で答えた。
沈黙は続き話題も思いつかないまま、気が付けばカーナビが目的地への接近を伝える。
「結構遅くなったな」
陽が沈み、時計は七時をまわっていた。
市営体育館の敷地は夜間の使用者がある所為か、体育館やグラウンドの照明でそれなりに明るい。
念の為にと人目につかないよう照明や街灯の光を避けて、有料駐車場入口近くの暗がりに車を停める。
シートベルトをはずし、大きく一つ深呼吸をしてからユキコは口を開いた。
「先生、私今日でもう終わりにするね」
台本を読むような台詞と作り笑いはぎこちない。
「今日は会う前から決めていたの。最後にするって」
驚きはなかった。
今日の唐突な誘いに予感がなかったわけじゃない。
彼女が最後の想い出作りをしようとしていたことになんとなく気付いていた。
ただ気付かない振りをしていただけだった。
もし帰りの車の中で、彼女の宗教の話に理解を見せていたら結果はどうなっていただろう。
今でも考えを変えることが出来ない以上、確かめる術は無い。
「我儘に付き合わせてごめんね」
それでもそう言って寂しそうに笑う彼女に手を伸ばした。
もう一度触れれば、抱きしめれば何とかなるなどと思い上がりもあったかもしれない。
そんな心を見透かしたように少し身を引いて彼女は言葉を続けた。
「もう接骨院にも行かないし電話もしない。勝手なのは分かってる。でもね、もう・・・決めたの。いままで・・・ありがと・・・」
暗がりに浮かぶ表情はいつしか強張り始め、覚悟を決めた一方的な宣言は次第に涙で濡れていた。
「分かったよ」
「ありがとう、今日は楽しかった」
ユキコは助手席のドアを開け、涙を滲ませた顔で最後に笑顔をつくる。
「気をつけて帰れよ」
引き留めることは出来なかった。
「先生も・・・じゃあ」
自分の白い軽自動車に向かう後ろ姿を見送りながら、ようやく一人になった車内で煙草に火をつける。
駐車場の出口で料金を精算して出てきた車が目の前をよぎった。
ガラス越しに彼女と目が合う。
小さく手を振る姿を最後に、ユキコは未練を断ち切るようにアクセルを踏み走り去っていった。
どこか肩の荷が下りたような気がするのは、やはり無理をしていたからかもしれない。
これで終わりならそれもいいと思っている自分もいる。
冷静に状況を判断すればむしろそのほうが互いの為だろう。
案外あっさりとした別れに少しばかりの寂しさが煙とともに車内を満たす。
半ばまできた煙草の火を見つめながらシートにもたれかかると、ニコチンに刺激されて空いた腹がぐうと鳴いた。
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