七 2005年3月中旬

 ユキコを見送ったあと、家に帰らず接骨院に戻っていた。

 出掛ける前に、遅くなることを見越して接骨院に泊ることを祖母に伝えてあったから気が楽だ。

 机の上に出しっぱなしの、多少なりとも理解するつもりで買った三冊のキリスト教解説本が目に入る。

 昨日までは面倒ながらも少しずつ読んでいたものだが、終わったことを思えば不要に、無性に邪魔になり、どう処分したものか思案する。

 ふと脱ぎ捨ててあったコートからメールの着信音が聞こえたような気がした。


   今日はありがとうございます。

   先生と一緒に入られて幸せでした。

   ずっとこのままの関係でいたいとも思いました。

   先生の言葉を素直に受け入れられればどれだけ幸せでしょうか。

   それでも私の信じる教えに従えば、一緒にいられないのです。

   交際は結婚を前提として、 また結婚は同じ神の教えを信仰する者以外考えら   れないのです。

   自分がこんなにも弱い人間だとは思いませんでした。

   先生に会って、話して、触れられると、心がゆらぎます。

   その優しさが私を苦しめます。

   こんな気持ちではもう会えるはずもありません。

   今でもあなたを思うたび涙がでます。

   先生が愛してくださったことは忘れません。

   さようなら。


 ユキコからのメールは、無理に距離をおこうとする気持ちが痛いほど伝わる、堅苦しく、ぎこちない文章だった。


 分かってはいたが、やはり宗教を理由に別れを言われたことには多少の腹立たしさを感じる。

 それでも今この時も思い詰め、泣いているであろう彼女を想えば、仕方がないと自分自身を納得させ自嘲でもするしかない。


   分かった。

   それでも考えが変わったら会いにおいで。

   今もお前が大事なことは変わりない。

   当分の間は待ってる。


 少し未練がましいだろうか。

 後腐れ無い様にとも考えたが、僅かばかりでも心変わりを期待していないわけじゃない。

 無理だろうなと改めて文面を読み返してから送信する。

 一時間程待って返信が来ないことから再び終わりを実感した。

 それでもいい。

 あとはもし心変わりした彼女が来れば、その時考えればいい。

 一応振られたことになるのだろうか、そう思うと妙に孤独を感じ、人恋しさが増した。

 もう一度携帯電話を開き新たな番号にかける。

「今度の週末、暇か?」



 振られた直後に新しい女のあてがあるなどと準備のいいこともなく、約束を取り付けたのは高校の同級生、無論残念なことに男である。

 高校には寮があり日本全国各地の人間が寄り集まっていたが、同室で、出身地が自分の父親の実家と同じというこの男と妙に馬が合ったものだった。

 卒業後、互いの住処が他県ともなれば疎遠になりがちであったが、その父の実家に移り開業の折からは何かと世話になりっ放しである。

 接骨院の店舗改装は全てこの自称建築関係のなんでも屋、ノリヒコの手配だった。


「まあ、こういったワケだ」

 五分もかからずに終えた失恋話の間に、ウイスキーグラスになみなみと注いだ互いの日本酒も空となる。

 相変わらずペースが早い。

 土曜日はいつも通り午前で終了し、患者がいなくなってから丁度のタイミングでノリヒコは姿を見せた。

 普段から力仕事に従事する身長百八十センチに体重百二十キロ、その体格に五部刈りのとぼけた顔は、気のいい熊を連想させる。

 接骨院の掃除やらは明日やるから飯を買いに行こうとさっさと着替えてシャッターを下ろし、スーパーで買い物を済ませ今に至る。

 最近ではわざわざ外に飲みにいくのが面倒になり、つまみを買ってきては接骨院の二階で飲み明かすのが通例になっていた。

 刺身と惣菜を一メートル四方のテーブル一杯に並べ飲み始めたのが午後二時をまわったところ、やはり昼から飲む酒は旨い。

「なるほど。キリスト教の女の患者を口説こうとして振られたわけか。三十路男の失恋話てのは笑えないねえ」

 そういってカカカと笑う。

 こういう男だ。

「いかんよ、患者に手えだしたら」

 言いたいことを言われるが反論のしようがない。

「少しは慰めようという気は起こらんか?」

「ぜんぜん」

 そういって酒が無いぞと空になったグラスを振る。

 元より慰めて貰うつもりも無いが、優しさの欠片も無い物言いにとりあえず憮然とした顔を作りながら、傍らの一升瓶を片手で持ちグラスの淵ギリギリまで酒を注いでやる。

 今日の日本酒はとある酒造の生酒だ。


【 日本酒にも「生」がある。

 一般的な日本酒の場合、醸造した酒を加熱して酵母などを殺菌処理する「火入れ」という工程が二回あり、この工程により酒質が安定し、常温での長期保存が可能となる。

 この火入れを一回もしない酒を生酒、本生酒と呼ぶ。

 火入れを工程の中で一回だけした酒を、どの過程で火入れしたかによって生貯蔵酒(先生)、生詰酒(後生)と呼ぶ。これらは厳密に言えば「生」ではないが、それに準じたものである。

 これらは酵母が生きている為、香りや甘みが非常に高く新鮮な味わいである。

 反面、保存に難しく味が変わりやすい。開封前から冷蔵保存は必須であり、開封後も出来るだけ早めに飲みきってしまうほうがよいだろう。

 混同しやすいものとして、「原酒」は醪を搾ってから水でアルコール度数を下げる加水調整をおこなっていないもの、「無濾過酒」は濾過せず淡い琥珀色で雑味を残した酒本来の味に近いものなどがある。

 例を挙げると「無濾過生原酒」と表記してあるものは濾過、火入れ、加水調整をしていない酒ということになる。】


「しかしいつ来てもここで飲む日本酒は旨いな。こいつも親父さんが送ってくれた奴か?」

 酒に関しては無類のこだわりをみせる呑兵衛の我が親父殿は、ちょくちょくお薦めの酒を送ってくれる。

 そんな酒の一本であった。

「深い甘みがあって香りもフルーティー、それでいてくどくなく後味もすっきりしとる。うん、いい酒だ。こいつは飲み過ぎちまうな」

 分かったような台詞をのたまいながら、二杯目をグラスの半分近くまで一気に空けた。

 空いた自分のグラスにも注ぐと鼻孔に鮮烈な香りが漂う。

 この「生」の香りと味は酵母菌により短期間で薄れていく為、開封後は最低でも1週間以内と極力早めに飲むように努めている。

 だがそんな心配も今日はいらない、まず残らないだろう。


 樽の様な体に勢いよく肉や魚を詰め込みながら、ついでのように聞いてくる。

「で、何か落ち込んでるのか?」

「未練はあるけど、落ち込んでるってわけでもないな」

 強がっているつもりもなく、言うほど感傷的にもなってはいない。

 そもそも宗教が理由で振られただけで嫌われたわけではない、あえて言うなら感情の大部分は宗教への腹ただしさが占めていた。

「そうか、泣いてくだでもまかれるんじゃないかと心配だったんだ」

「するか、馬鹿」

 酒には記憶を定着させる作用がある、という説がある。

 嫌なことを考えながら飲めば忘れるどころか逆に記憶にこびりつくらしい。

 やはり酒は楽しく飲まねばならず、旨い酒を目の前にして自棄酒など勿体無いことこの上ない。

「本当に落ち込んでたら貴様は絶対呼ばん」

 そんな時に一緒に飲めばもっと落ち込みそうだ、などと効かないであろう皮の厚さを持つ面にとりあえず毒づく。

「キリスト教ってのはあれだろ?教会行って拝んだり、神父やらシスターがいて、ついでに歌って踊りまくったりする奴。詳しくは知らんけど」

 そういえばこいつはアメリカのコメディー映画が好きだった。

 前に面白いから見ろと言われた讃美歌をロックやソウル調で歌うシスターの映画を思い出した。

「映画の知識しかないのか、おまえは」

 それでも宗教に無関心な一般人の認識など、映画やテレビ、本などのメディアからもたらされる断片的な情報によるもの程度だろう。

 特にキリスト教は、仏教や神道のように日常の行事毎に積極的に関わってくるようなものではない。

「その映画にでてくるのは多分カトリックだな。分かるか?カトリック」

 本で得たばかりの知識をひけらかす。


【 キリスト教の三大教派にカトリック、プロテスタント、東方正教会がある。


 カトリックとはギリシア語を語源として「普遍・公」などの意味を持ち、一般にはローマ教会を中心としたものを指す。

 このカトリックの共通原理に行為義認・伝承主義・階位制度がある。

 行為義認は善行によって神に義として認められるもの。

 伝承主義は、教会はイエス・キリストの神秘体という分身のようなもので、その教会がまずあって「聖書」を聖書とするとの考えから、聖書の解釈は教会でし、聖書以外の神の啓示などとして伝わる教会のつくり定めた「教え」も信仰の対象に含んでいる。

 聖職者と平信徒の区別があり、ローマ教皇を首長として司教や司祭、神父やシスターなどの聖職者がいる。ちなみに聖職者は結婚出来ない。

 その他に、祈りの対象はキリストとマリア。日曜日にミサを行う。ロザリオを持ち祈りの後には十字を切る。司祭が罪を許す「告解」がある。


 プロテスタントは十六世紀、教えを歪め財政確保の為に免罪符を売るなど堕落したカトリックに対する批判により生まれ、語源に「抗議・抵抗」などの意味がある。

 このプロテスタントの共通原理は、信仰義認・聖書主義・万人祭司主義である。

 信仰義認は、人は善行ではなく、信仰のみによって神から義として認められるという考えである。

 聖書主義は、当時のカトリックの伝承主義を否定し、聖書のみを信仰の根拠として解釈を個人に任せる。

 万人祭司主義は、聖職者も平信徒も、神の前では等しく祭司であるということを意味して、代表の形で牧師がいる。また牧師は結婚が出来る。

 その他に祈りの対象はキリストのみ。ミサは無く礼拝。告解やロザリオは無い。


 東方正教会はギリシア正教とも呼ばれ、中東、東欧、ロシアを中心に十八の自立教会からなる連合体である。

 日本では馴染みは薄いが、発生はローマカトリックなどの西方教会と同じ、十一世紀に相互破門し分離した教派であり歴史は古く、ローマカトリックよりも古代教会の姿に近い。】


 一口にキリスト教といっても聖書などの解釈によって細かく教派が分かれているようだが、拝む神様は一緒であるのに面倒なことである。

 なんにしろ信者でない者にとっては一括りに「キリスト教」で大した区別はないものだ。

 それでも一般的な「キリスト教」のイメージは大体カトリックになるのだろうか。

「あんな映画みたいなやつなら、まだとっつき易い」

 思い出しながら煙草に火をつけ、煙を目一杯吸い込み、溜め息と共に吐き出した。

「いい娘だったんだけどなぁ・・・」

「未練があるなら今からでもキリスト教に入信しちまえばいい」

 毎度のことながら酔うと出す答えも大雑把だ。いや、酔っぱらってなくてもだが。

「だからその宗教が受けつけん」

 宗教などは神を名目に集団としての権利の行使・既得権の確保・利益の追求やらを行う活動の為に組織されたただの集団に過ぎず、経典の教えとやらは運用を円滑にする為にこじつけて造り上げられたただの決まりごとに過ぎず、信仰は特権階級意識を持たせ縛りつけるためのただの精神論に過ぎないと、それ以上の感想は持てない。

 神はいないとは言わないが、その輪の中で拝むことは違う。

 好きな女の話を聞いてなお今でも考えが変わらない以上、入信に関して一考の余地も無かった。

「その娘が宗教から足洗うように説得してみたら?」

 何度か試みたことがある。

「駄目だな、宗教をやめる意志は欠片もない」

「それじゃあ仕方がねえな、あきらめろ」

 決まっていた結論を改めて言われれば苦笑するしかないものだ。

「それに奇跡的に彼女が説得に耳を傾けたとしても環境的に難しいな」

 両親も筋金入り、接骨院の店舗の大家を含め周囲一帯にキリスト教のお仲間がいる環境では、今更抜けることなど出来ないだろう。

 それこそこの土地を離れることから始めなければならない。

「厄介だな」

「ほんと、困ったもんだ」

 完全にお手上げの気分になり、グラスに残った日本酒を一息に飲み干した。

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