四 2005年1月
休み明けというのは大概混み合うもので、正月の不摂生に慣れた身体には些か応えた。
施術の間も胃の辺りはムカつき、二日酔いの頭は動作のたびにふらついていたが、休み明けから三日目ともなればようやく身体も慣れ始めてきたところだった。
「正月の片付けでね、腰をやっちゃったのよ」
五十代、少し賑やかな女性。
押入れの中の物を出し入れしていた最中に傷めたらしい。
体を前に倒すと腰に痛みが走ると言うが、まだ動けない程ではない。
「立ったり座ったりする時にちょっと痛むのよ。歩いてる時はそんなでもないんだけどね」
ベッドに腰をかけた姿勢で陽気に喋る。
懇切丁寧に自分の状態状況を説明しながら、興が乗ってきたのか正月に何をしていた何を食べたなど話は拡がり脱線していく。
放っておけばいつまでも続きそうだ。
「じゃあちょっと腰のほう診させて貰いますね」
適当なところで切り上げ後ろに回る。
服をめくりズボンをずらして腰を露出させ、前に倒すと痛みの出る部位の周辺を指で押す。
「少し筋肉が張ってますね。これから痛みがきつくなるかもしれませんよ」
思ったよりも腰部の筋肉の緊張がきつい。
急性の腰部捻挫・挫傷で痛みの出方から分類すれば、痛みの強弱はさておき、何かをしたその時に痛みが出る場合と、その時はそれほどではなくても時間の経過とともに悪化する場合とがある。
この場合、筋の緊張具合から後者の可能性が高い。
「そんなに痛いと思わないんだけどね」
そういいながら腰を前に倒したり反ったりする。
それを制して説明を続ける。
「どちらにせよ今日一日はおとなしくしておいてください。マッサージとか家ではしてはいけませんよ。炎症が酷くなりますからね」
手首の捻挫などでも腫れている所を揉んだら余計に腫れる。
腰が今その状態だということを理解して貰わなければならない。
「お風呂はシャワーくらいで、湯船に浸かって温まったりしないでください。あと寝る時はなるべく横向きで寝るようにしてください。」
「私、上向きじゃないと寝れないんだけど」
人間、痛みの軽い時はなかなか素直に聞かない。
「その場合は枕か、タオルケットでも丸めて膝の下にかませてください。軽く膝を曲げた姿勢にしておくと腰への負担が軽くなりますから」
上向きやうつ伏せなど、股関節と膝関節を真っ直ぐにした状態は意外と腰に負担をかけるので、朝起きた時に痛くて起き上がれないということになりかねない。
「先に電気あてて、あとで腰の歪みだけとっときますので、とりあえず横向きで寝て貰えますか」
午後七時半、外は暗く、おまけに冷え込むともなれば今日の患者もこれで終わりだろうと、電気をあてている間はすることもなく受付の椅子に腰をかけていた。
あれから十日以上経ってもユキコは現れなかった。
施術中、玄関の扉が開くたびに彼女ではないかと期待に胸躍らしていた。
その度に軽い失望を味わうことを繰り返している。
今日も同じ、そう思っていた。
「こんばんは」
不意に扉が開いた。
考えごとの最中でまったく意識が扉に向いてなかった。
我に返って人影に眼をやり、一瞬、言葉に詰まって返事をする。
「こんばんは」
間抜けな表情は仕方ない、思い浮かべていた相手がいきなり現れたらこんな顔だ。
ユキコが立っていた。
「お願いします」
表情が硬い。
少しよそよそしい態度が気になるが、まだ一人他の患者がいるので迂闊なことは話せない。
「用意できましたら、こちらのベッドにお入りください」
ベッドへ案内する。
「お加減はいかがですか?」
なんとなく小芝居じみたバカ丁寧な口調で尋ねる。
「あまり良くはないです」
いろいろ聞きたいことや話したいことがあるが、とりあえず仰向けで寝て貰い電気をあて、もう一人の患者が終わるのを待つことにした。
「何かあればお呼びください」
そういってカーテンを閉める時まで、視線はそれとなく逸らされていた。
「お大事にしてください」
腰の患者を見送る。
受付終了まであと十分程あるが「受付終了」の札に差し替える。
「おまたせ」
カーテンを開けて声をかけるも返事がない。
「久しぶりだけど調子はどう?」
「首と腰、だいぶ痛いです」
これには答え、起き上がり首の辺りを擦る。
「とりあえず軽くほぐしていこうか」
言いながら状態を診ようと首に手を触れる。
一瞬、体が強張るのを指先に感じた。
「・・・大丈夫か?」
改めて正面から顔を覗き込むが、今度はあからさまに眼を逸らされて軽くショックを受ける。
互いの気まずさと気恥ずかしさが場に漂った。
彼女が今日までどのような想いで過ごしてきたのか、どのような想いで今日来たのかを理解するのが難しい。
一般的にこの歳にもなれば今更「キス」に対して格別に神聖視することもないだろうが、クリスチャンある彼女なら別かもしれない。
「純潔」やら「貞節」など色々ややこしいことも考えるのだろう。
キスが挨拶の西洋で流行のキリスト教とはいえ、日本で挨拶になりえる道理はない。
仏教、キリスト教どちらにおいても未婚の異性間の交流に関しては厳しく律することが多く、程度の差こそあれ、そのような環境で育った彼女にとっては交際の宣言すらしていない相手との接吻がどれほどの事態なのか、深刻なことなのかどうかさえ理解の外だった。
どう接すればいいのか分からない。
それでも今日ここに来たという事実に背中を押され、おどけたように普段の軽口を捻りだした。
「とりあえず治療は真面目にするから触ってもよろしいですか?」
ユキコは表情を緩ませクスリと笑う。
つられて頬が緩む。
ようやく眼が合った。
雰囲気は変わり、それだけで気まずさは消えたような気がした。
「ごめんな、たぶん色々悩ませたんだろうな」
それでも最初に出たのは謝罪だった。
「それは・・・でも、嫌じゃなかったから・・・」
思い出したように、恥じらい頬を赤らめ再び目をそらした姿に胸を撫で下ろす。
「それは良かった」
そういって背後に回り施術の為に首に手を当てる。
今度は少なくとも拒否の緊張は見られなかった。
年末年始は何をして過ごしていたのかなどと他愛のない会話に一区切りつくと、ユキコは本題とでもいうように語り始め、その改めた口調に思わず気持ちが身構える。
「自分でも分からないの、どうしたいのか」
背後にいる為、表情は見えない。
「相手は同じクリスチャンじゃないと駄目なの、そう決めてたから・・・この間みたいなことも駄目・・・だからもう逢っちゃいけないって思ったし来ちゃいけないって思ってた」
まるで懺悔のような淡々とした告白に、その悩みの元である当人としてはかける言葉を見つけられずに、ただ聞くことしか出来ない。
「だからもう来ないって決めたの。これ以上先生に会わないって・・・決めてたのに・・・私、何してるんだろうね・・・」
自嘲気味に呟く声に次第に微かな震えが混じり始める。
その表情は容易に想像出来た。
「でも俺は来てくれて嬉しいよ」
施術の手を止め、子供をあやすように右手で頭を撫でる。
「思い詰めさせるようなことをして悪かった。でもいい加減な気持ちでしたんじゃない」
「・・・」
無言で振り向いた眼の端に涙が滲んでいる。
「つきあってくれないか?本当に結婚前提でもいい」
いつからか彼女に本気になっていた。
「嬉しいけど、やっぱり駄目。私は同じクリスチャンの人としか・・・」
予想通りの拒絶、それでもその口調には逆の想いが感じられた。
「じゃあ時間をくれないか?」
可能性に懸けてみる。
「答えは急かさない、治療に来た時は治療に専念して極力おかしな真似はしないようにするから、これからも来てくれないか?」
プラトニックなつきあいを覚悟しなければならないだろう。
それでも何より彼女の想いに少しでも希望に沿った形で応えたかった。
その気持ちが伝わったのか分からない。
それでも心の靄も幾らか晴れたのか嬉しそうに頷く。
「・・・はい」
頷き、上目遣いに見上げるその表情に、やはり思わず抱きしめたくなる衝動に駆られた。
おそらくこれが良くないのだろうと自制はしたものの、代わりに軽口が口をついた。
「もっともキスが「おかしな真似」に入るかどうか」
にやり、と笑ってみせる。
「もう、それじゃ駄目じゃない」
少し怒ったような口調も目は笑っていた。
「とりあえず今後は節度をもって口説くように努力するから安心しておいで」
「でも私、やっぱり相手はクリスチャンじゃないと・・・」
「そのへんもお互い話し合って理解しようとしてもいいんじゃないか?どっかに落とし処があるかもしれないし」
黙りこくって、悩み、少し困った表情をつくる。
心の葛藤がそのまま顔に表れるのを見るとつくづく素直だと感心さえしてしまう。
同時に、やはりこれ以上踏み込まないほうが彼女にとっても自分にとってもいいのではないのか、と今更ながらに頭の隅をよぎる。
それは常に頭から離れることのない理性の囁きだ。
それでも踏み込むことを選んだ。
背後から両肩に手をのせ、横顔に想いを伝える。
「好きだよ」
抱きしめながら言いたい台詞も「節度」を約束したばかりでは仕方がない。
「だからどうするか、もう少し考えてくれないか?」
完全に納得したわけではないだろう。
それでも一呼吸おいて彼女は無言で頷く。
頬を桜色に染めて、微かに笑みを浮かべながら。
なんとなく嬉しい気持ちで、再びユキコの頭を撫でる。
「なんだか子供扱いされてるみたい」
一寸拗ねたように、上目づかいに見上げられた目がこちらを向く。
「私のほうがお姉さんなのに・・・」
「精神年齢からいえば妥当な扱いではないでしょうか?」
出来るだけ優しく丁寧に答えてみた。
「もしかしたらキスも初めてだったんじゃないかと心配してたんだ」
もしそうなら半ば強引だっただけにトラウマになってないかと、姿を見せない間、実はかなり心配していた。
「残念でした、それぐらい経験あります」
これはこれで複雑な気分になり対応に困ったが、彼女のほうがそれどころではなかった。
売り言葉に買い言葉、勢いで返した発言に、しまったというように口元を押さえてバツが悪そうにこちらに目を向けた。
「あ、でもそれ以上はしたことないから・・・」
慌てて補足した言葉の意味を途中で気が付いたのか、今度は顔を真っ赤にしてうつむく。
「もうっ」
むくれた横顔が可愛い。
それを見たいが為にからかっていると知ったら怒るだろうか、呆れるだろうか。
追及する気も失せ、この三十過ぎの乙女の言葉に、改めてプラトニックはやむなしと心の内で嘆息する。
それでもそう嫌でもなかった。
二人の関係が少しだけ前進したような雰囲気に流されながら、嫌がる彼女の頭をもう一度撫で、改めて施術に専念し始めた。
帰り際、彼女はそっとメモ用紙の紙片を差し出してきた。
「はい」
手に取って見ると携帯電話の番号とメールアドレス。
「それじゃあ、おやすみなさい」
声をかける間もなく彼女は扉の向こうに消えた。
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