二 2004年12月中旬から下旬
まもなくクリスマスだが接骨院には関係ない。
クリスマスセールで施術費半額、とでもやれば患者も倍増するかもしれないが健康保険を扱っている身では出来るわけも無い。
とりあえず気分だけでもと置いてある待合室の棚の、コンビニで買ってみたサンタ人形や小物が僅かながらに季節感を出しているに留まっていた。
寒さの所為か、年末行事で慌ただしいのか、やはりこの時期は患者も少なく陽が沈む頃には暇を持て余すことが多い。
今日も夕方六時に受付嬢にはあがって貰ってから暫らくしての院内には患者一人のみと寂しい限りだが、相手の所為か少々浮かれていた。
ユキコ嬢。
初診から二週間経ち、ほぼ毎日のように来ていた彼女とは幾らか打ち解けてきたように思う。
それほど踏み込んだ話をするわけではないが、他愛のない話を感情豊かに話し、笑う彼女に好意を抱き始めたのはいつの頃からだろうか。
一度くらいメシでも誘ってみよう、などとクリスマスの雰囲気に流されて、つい不届きな考えが頭をもたげ始めている。
彼氏がいるか直接は聞いておらず定かではないが、左手薬指が空いていることから結婚はしていないだろうということで勝手に判断していた。
それもそろそろ確認してみたい気もする。
とりあえずは今日も外面はあくまで品よく、先生の顔で施術を行なっていた。
彼女は首・腰ともにズキズキした痛みは緩和するも、鈍痛・違和感去り難く只今施術継続中であった。
うつ伏せで寝て貰い、筋緊張緩和の為に首周囲のマッサージを行ないながら話しかける。
「もうすぐクリスマスですね」
待合室のテレビのニュースでクリスマス特集の声が聞こえていた。
「彼氏とデートとかするんですか?」
この流れなら自然だろうと探りを入れながら質問してみる。
「クリスマスは・・・特に何もしません」
少し引っ掛かる言い方だが、質問に気を悪くしたわけでもなさそうだ。
「誘ってくれる相手もいないですしね」
「なら一緒にメシでも行きませんか?」
チャンスは逃さず、断られても冗談で済ませられるよう軽い感じで誘ってみた。
「・・・」
数秒の沈黙、失敗だったか、まだ誘うには時期が早かったかもしれない。
仕方なく戯れと誤魔化そうとする前に彼女の口から予想外の台詞が耳に届いた。
「ごめんなさい。私、クリスチャンなの」
そう言ってキリスト教の一教派の名前を上げる。
聞いたことがあるような気もするが、とりあえずキリスト教という大きな括りでしか理解出来ない。
なにしろ仏教神道も含めて宗教には必要最低限、極力関わらず無頓着に生きてきた。
思いもよらない唐突な告白にどう返答していいか言葉を探す。
地雷を踏んだような気分、頭の中では警鐘が鳴り響いていた。
「ああ」
間の抜けた返答しか出来ない。
「だから未婚の異性と二人きりで会ったりするのはしないようにしているの。お誘いは嬉しいけど、ごめんなさい」
宗教を理由に体よくあしらわれたわけではなさそうだ。
うつ伏せで表情は見えないが本当に申し訳なさそうな声の雰囲気、真摯な答えに軽い気持ちで声をかけたことが今は心苦しい。
「厳しいんだね」
「そう、部屋とかでも二人きりになるといけないからドアは開けっぱなしにしなければいけないとか・・・」
徐々に声がか細く詰まり気味になる。
宗教の話が無宗教の相手には理解され難いこと、反応が得てして好意的にならないことを彼女は理解していた。
だから今迄、あえて話さなかったのだろう。
クリスチャンであること、誘いを断ったことの気まずさ、このあとの状況に対しての不安と緊張は施術中の身体に触れた手からも伝わってきた。
「じゃあ結婚しようか?」
「!?」
驚きとともに顔を上げて小動物のように目をパチクリさせる。
何を言われたのか理解出来ない、そんな表情だ。
「結婚すれば何も問題ない、それからメシを食べに行こう」
あからさまに現実味の無い冗談に切り替える。
道化芝居もいいとこだが、この際ノリで誤魔化すのが一番手っ取り早い。
ちょっと呆けた顔があははと大きな声で笑い出し、その身体の緊張が解け緩むのを指が伝えた。
「駄目ですよ。私、同じクリスチャンの人としか結婚しないんだから」
にこやかな返答にわだかまりは感じられない。
「そいつは勿体無い、こんなにかわいいのに」
その言葉にまた、あははと屈託無く笑う。
どうやらこれで余計な気を遣わせずに済む、これからも今迄通りに接していけそうだと胸を撫で下ろす。
「でも今この状況、二人っきりだけどキリスト教的には大丈夫?」
「それは・・・」
困ったように答えに詰まる。
「・・・だって治療だから」
これは許して頂けるらしい。
受付終了後、シャッターを下ろし煙草を吸いに二階に上がる。
改めて冷静に考えてみようと思いながら煙草に火をつけた。
神様はいるかもしれないが興味は無い。
宗教は特に信じていない。
出席した冠婚葬祭での神道・仏教はあくまで慣習としてしか認識していなかった。
経典や聖書なども一種の思想書、罰当たりを承知でいえば空想小説の類として捉え学生の頃には多少なりと目を通したこともあるが、それ以上の興味が湧くことはなかった。
これからもそうだろう。
そんな自分が宗教なぞを真面目にやっている相手と、よしんばつきあったとしてもうまくいく筈もない。
宗教家との交際がいかに大変かは耳にする程度だが理解はしているつもりでいる。
例え「愛」とやらがあっても生活習慣の違いはともすれば軋轢を生みやすいものだ。
まだ深入りする前に知って良かった。
「ちょっと勿体なかったかな」
理性は諦めを決断させ、呟きと共に煙を吐いた。
一週間が経ちクリスマス・イブを迎え、その夕方。
さすがイベント当日はとみに患者が少なく、今日は夫とお出掛けデートと朝から休みを取った受付嬢の空いた穴も一人余裕でこなせる患者数であった。
午後の開始時にはちらほらいた患者も、陽が沈み暗くなってからは一人もいない。
閑散とした室内を眺める。
クリスマスのようなイベント時に一人でいると、寂しさもまたひとしお身に沁みる。
月末、および年末の近いことからやらなければならない事務仕事もあるのだが、それもこんな日にはやる気が起こらない。
暇を持て余していると玄関の扉が控えめに開いた。
「こんばんは、まだ大丈夫ですか?」
ユキコだ。
「ヒマそうだね」
コートを脱ぎながら悪戯っぽく笑う。
雨降って地固まるというわけでもないだろうが、あれからいつのまにか他に患者がいない時などは友人のように互いにくだけた物言いになっている。
関係はすごぶる良好だ。
「ほっとけ」
いいからさっさと入れ、と言いながらベッドの用意をする。
調子はどうかと尋ねながら首の施術を始めると、外出して疲れたからかいつもより首と腰が痛いと訴える。
確かに筋は緊張気味だ。
「今日は外、寒いよ。天気予報で言ってたけど雪が降るかもね」
「クリスマスの上にそれだけ寒いんじゃ、今日はもう店仕舞いだな」
シャッターを閉めてやろうか、そんな気さえ起きていた。
「やっぱりクリスマスとか暇?」
「まあね、こんな日に来るのはクリスマスに無縁な寂しい人ばっかりだな」
寂しい、を強調して言ってみた。
「私は別に寂しくないですよ。だいたい日本のクリスマスって違うもの」
ちょっとむくれたように反論する。
彼女、キリスト教徒にとってのクリスマスは恋人達の聖なる夜でも家族サービスの日でもない。
一般の認識と些か異なることを聞いたのは昨日のことだ。
【 十二月二十五日はイエス・キリストの誕生日ではない。
起源は定かではないが、ミトラ教という太陽神を崇拝する宗教の影響を受けたと考えられている。
元々ミトラ教の影響を受けていたローマでは、一年でもっとも日が短いこの日を太陽の誕生日とし冬至を祝っていた。そのローマにキリスト教が入り、布教する際に土着の宗教であったミトラ教を吸収し「イエス=真の太陽(神)」とこの日を誕生日として祝うようになったようだ。
クリスマス・ツリーはヨーロッパの民間信仰を起源とし、常緑樹のモミの木は神聖な木とされ枝を悪霊除けとする風習がある。ドイツ中部ではモミの木に住む小人が住人によいことをするという信仰から木を飾りつけその周りを踊る祭りがあり、これが起源といわれている。
どちらもキリスト教以前からの風習がキリスト教と迎合したものであることから、真面目なキリスト教徒にしてみれば「異教的」にでもなるのだろう。】
彼女はどうやら「真面目」なキリスト教徒のようで、クリスマスは行事ごとに参加することはなく、家で心静かに過ごすという。
「そういう先生はどうなの?このあと。実は彼女とかいたりして」
「ないない。帰ったら酒飲んで鳥とケーキ喰って寝るだけ」
クリスマスらしくワインと七面鳥、と言いたいところだがビールにから揚げ、日本酒に焼き鳥あたりが性に合う。
「誰かさんに誘いを断られたおかげで今年も独り寂しくすごしますよ」
「それはそれは」
他人事のようにあしらわれるが、声にはどこか楽しんでいるフシがある。
「でも独りって、今日は家には帰らないの?」
「今日は二階に泊まり。年末近いから事務仕事がいろいろね」
月末、月初めには保険の請求などで慌ただしいのはいつものことだが、それに加えて年末年始の用意も加わる為、雑務が夜遅くまでかかる。
最近は寝るのが早い祖父母に気を遣わせない為にも泊まることは珍しいことではなかった。
「独りだと大変だね。私の父も自営業だからなんとなく分かるけど」
「そう、大変なんだ。だから結婚して手伝ってくれる?」
「独りで頑張ってください」
あれからも以前と変わらぬ態度で治療に来ていた。
「結婚」という言葉もネタとして受け入れられているようで普通に聞き流されている。
あわよくば、という思いが無いわけでもなかったが、クリスチャンという壁がある以上そこまで踏み込む覚悟はない。
同世代の少し仲の良い患者、それで十分だった。
「お大事に」
施術が終わり見送ると、時計は午後七時四十分を指していた。
受付終了まであと二十分。
早く閉めたいところだが、そこは我慢して八時までは開けていなければならない。
とりあえずは使っていたベッドの整理をしていると、玄関で扉の開く音がした。
「・・・」
声がしない。
無言で入ってくる患者もいるから珍しくはないが、扉の閉まる音がしない。
手を止め待合室を覗き込む。
「どうした?」
今帰ったばかりのユキコがそこに立っていた。
少しうつむき加減で目を合わせようとせず、そのままゆっくりと扉を閉める。
「何か忘れ物でもした?」
近づきながら声をかけるが返事はない。
さっき見送ってから数分も経っていないから何かがあったわけでもないだろう。
無言のままユキコは靴をゆっくり脱ぎ、目を伏せたまま一歩踏み出す。
そして身体ごと、勢いよく胸に飛び込んできた。
「何を・・・」
予想外の行動にそれでも冷静を保ちながら両肩に手をかける。
肩が震えていた。
体を離して顔を覗き込もうとするが離れようとしない。
すがりつくような姿勢そのままに彼女が顔を上げた。
その想いつめた表情と目が合う。
好意と違う感情が湧き上がるのを抑えきれない。
彼女は患者だ。彼女はキリスト教だ。彼女は・・・、彼女は・・・、彼女は・・・
踏み止まらなければならない。
踏み止まるべき理由が頭をよぎる。
その全てが踏み止まる理由にはならなかった。
奪うように唇を重ねていた。
うつむいていた彼女の顔を両手で挟み、持ち上げ、なかば強引に唇を重ねた。
驚いて離れようとする彼女の腰に腕を回し引き寄せ、片手で頭を後から鷲掴みにする。
止まらなかった。
止めたくはなかった。
情動のままに、荒く、荒々しく唇を重ね、重ね続けた。
抱きしめた腕から力が抜けていくのを感じる。
気がつけば、彼女に抱きしめられていた。
数分、もっと短い時間だったのかもしれない。
立ったまま、抱き合ったまま過ぎた時間は。
「大丈夫?」
少しばかり冷静さを取り戻し始め、抱え込んでいた手でやさしく髪を撫で上げる。
ユキコの行動に疑問がないわけではないが、何故かなど野暮な台詞を言える場面でもない。
「うん、ちょっとびっくりしたけど」
ちいさな声ではにかみながら微笑み、上気した桜色の頬は耳まで赤い。
初めて、愛おしいと想った。
強く抱きしめる。
抱きしめられる。
今はそれだけが想いを伝える術であった。
過ぎた時間は覚えていない。
「・・・もう帰らなきゃ」
名残惜しそうに少しだけ身を引きユキコは呟いた。
「帰したくはないんだけどね」
泊まっていけとはいえない、キリスト教徒だ。
「節度あるおつきあい」などと柄にもないことを考える余裕はあった。
「しょうがない、今日のところは帰してやろう」
何それ、と腕の中で笑うのはいつもの彼女をもう一度強く抱きしめてから離れる。
「患者さん、入ってこなくてよかったね」
備え付けの鏡で身だしなみを整えながら冷静に指摘された。
玄関の扉が目の前の待合室で抱き合うなどと、確かに大胆なことをしたものである。
「さすがにあの状況は言い訳ができないな」
「変な噂が立つよ、あそこの接骨院の先生、女の子に変なことしてるって」
「変なことって、どんな?」
ニヤニヤと我ながら意地悪な質問を返してみる。
「もう」
顔を赤らめながら、照れくさそうにそっぽを向いた。
少しむくれた顔が女性は一番可愛い。
その為ついからかってしまうのは昔からの悪い癖だ。
「じゃあ今日は帰るね」
靴を履いてから振り返りちいさく手を振る彼女は、返事を待つ間もなく扉を開けると逃げるように外へと踏み出す。
「気をつけて、な」
結局はっきりとした気持ちを聞けずに狐につままれた気分のまま、扉の向こうに消えていく彼女には苦笑いしながらも送り出すことしか出来なかった。
ユキコは患者であり更に宗教家である。
女性に不慣れでも奥手のつもりでもないが、つきあう以前に、抱きつかれたとはいえ半ば強引にキスまでしてしまったのは些か軽はずみであったかもしれない。
後悔はしてないがさすがに軽い背徳感と自責の念は感じている。
何もする気がおこらない。
やることは幾らでもある。
片付け、事務仕事、晩飯、風呂・・・煙草も吸わなければならないが、どれもする気が起きなかった。
椅子から立ち上がる気力も無く、軽い脱力感に思考が鈍るが状況を整理してみる。
いつの間にか惚れられたのだろうか。
家が自営業、それなりにいいところのお嬢さん。両親がキリスト教で彼女も子供の頃からキリスト教。学校もミッション系。今は家の事務仕事の手伝い。
彼女について知っていることといえば会話の中で知りえたそれくらいか。
あと年齢三十三歳、恋人ナシ。
男に免疫のない温室育ちの箱入り娘、といっても娘という歳でもない、三十過ぎればそれなりの人生経験は積んでいるはずだ。
まさか「結婚しよう」などという言葉を真に受けたわけではないだろう。
そもそもその件に関しても「宗教」を理由に拒否されていた筈だがどういった心境の変化なのだろうか。
どうにも理解に苦しみ、くだらない推論がいくつも頭の中をまわる。
直接聞くのが手っ取り早い。
カルテを見れば住所も電話番号も分かる。
それでも行動に移そうとは思わなかったのは、何故か今はこの気分のままでいたいと心のどこかで余韻に浸っていたこともある。
結局焦らず、ユキコが再び姿を現すまで待ってみようと考えをまとめた。
結論を出して表のシャッターを下ろしに外へ出ると、顔に冷たいものが当たる。
こんな気分と場面には出来過ぎだ。
見上げた夜空にはイブの夜に相応しい粉雪が舞っていた。
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