――フィー


  ――フィー


   ――アルフィーナ


 どこか遠くから自分を呼ぶ声が聴こえる。

 その声をたよりに、眠りと目覚めの間、夢と現実の間をつかの間漂って、アルフィーナはゆっくと瞼を押し上げた。

 まだ夢の中にいるのだろうか。暗闇の中に、懐かしい幼馴染の顔が浮かんでいた。


「トゥーイ?」

 まだ彼の名を上手く発音できなかった頃から呼んでいた愛称をつぶやいた。

 幼馴染の左頬には、大きく斜めに一閃された切り傷があった。七年前のあの日、アルフィーナがつけたものだ。


 あの頃、彼は彼なりに悩むものがあったのだう。それを慮らずアルフィーナの気持ちをおしつけた。その結果、フィネは死に、彼の顔には消えない傷が残った。

 その傷は彼ではなく、アルフィーナが背負うべき罪の象徴だった。


「痛くは、ないか」

 アルフィーナは幼馴染の左頬に手を伸ばす。

 頰に刻まれた傷に触れる直前に、その手を幼馴染につかまれた。


「寝ぼけているのか?」

 幼馴染が苦笑した。

 アルフィーナは首を傾げた。


「昔から寝起きは良くなかったと記憶しているが」

 幼馴染がつかんだアルフィーナの手を元に戻す。

「いい加減、目を覚ませ」

 ユストゥスが軽くアルフィーナの頬を叩いた。


 頬にぴりりとした痛みが走る。

 アルフィーナは覚醒し、自分は王都に戻ってきたのだ、ここはアイゼンフート家の屋敷にある自分の寝室だったと思い出した。


 アルフィーナは寝台の上にゆっくりと身体を起こすと、辺りを見回した。

 部屋の中はすっかり暗くなっていて、寝台の横の小卓に置かれた灯火ランプに灯る火の影がユストゥスの横顔に踊っていた。

 さっき暗闇の中に彼の顔が浮かび上がって見えたのはそのせいだ。


「もう、夜か?」

「ああ。まだ仕事は大分残っていたが、全部エトムントに押しつけてきた」

「いいのか、指揮官が仕事を放り出してきて。部下に示しがつかないだろう」

「仕事の割り振りができないヤツは無能だと言ったのはどこのどいつだ。俺は有能な上官らしく部下に仕事を任せてきた。それを上手く下に振り分けられないなら、それはエトムントの責任だ」

「無責任な上官だな。部下がそれを手本にしたらどうする」

「それは本人次第だ。それが悪癖だと思えば、あえて見習わないという方法もある。俺は部下の自立心を大切にしている。上がいなければ何もできないなんて、有事の際に何の役にも立たないからな」

「物は言いようだな」

 アルフィーナがふんと鼻を鳴らすと、ユストゥスが笑った。

 軽口の応酬が快い。


「それはともかくフィー、お前にはこれから俺と一緒に神殿に行って欲しい。構わないか」

 そのために王都に戻って来たのだ。

「もちろんだ」

 アルフィーナは頷いた。




 その晩は新月だった。

 地上に落ちた闇は深い。反対に、主役のいない空では、星々が騒がしいくらいに明るく瞬いている。

 ユストゥスが行くのは、アルフィーナの知らない道だった。


 左右を高い壁に囲まれた人一人歩くのがやっとといった程度の広さしかない道には、闇が深く落ち込み、谷底のようになっていた。

 暗すぎて、石畳の上には歩く二人の影も落ちない。頭から全身を黒い外套で覆った二人は足音を殺し、暗闇に紛れて進んだ。


 道の角を小刻みに何度も折れ曲がる。方向感覚が怪しくなってきて、巨大な迷路を奥へ奥へと迷いこんで行くような気持ちにアルフィーナはなった。

 しかし、前を行くユストゥスの足取りはしっかりとしていて、後をついて行くアルフィーナが不安を感じることはなかった。


 やがて行き止まりに出た。


 正面には煉瓦造りの小さな小屋があり、頑丈そうな鉄製の黒い扉がついていた。

 扉の真ん中には昼間謁見の間で見たのと同じ、三日月と剣の紋章が鋳出しされていて、王家が管理しているものだと示していた。


 この小屋は王都では特別珍しいものではない。


 路地裏を歩いているとたまに見つけることがある。鉄製の重々しい扉を開けると階段があって水道につながっているはずだが、扉には鍵がかかっていて、入れるのは管理を任された役人だけだ。これでは先に進めない。


「おい」

 ささやきよりも小さな声で、アルフィーナは言った。

 ユストゥスは振り返って笑うと前に向き直り、外套の中をさぐった。

 再びユストゥスが振り返った時、片手には一本の鍵が握られていた。

「ここの鍵か?」

 アルフィーナが訊くと、ユストゥスが頷いた。

 鍵は担当の役人によって厳重に管理されている。いくら彼が近衛師団長であり、その父が王都軍の統括者であったとしても、簡単に持ち出せるものではない。

「どうやって」

 手に入れたんだ、と言う前に、ユストゥスは一本立てた指を唇に当てて静かにと合図した。

 アルフィーナは押し黙る。

 ユストゥスは前に向き直ると、鍵を開けにかかった。


 鍵と鍵穴の触れ合う音が響く。

 鍵の回る音がし、続いて解錠音がした。

 ユストゥスが扉を押し開けると、錆びついた金属のすれる嫌な音がした。


 ユストゥスは全ては開けきらず、人一人入れるくらいの隙間ができたところで、体を滑りこませるようにして中に入った。アルフィーナもそれに続こうとしたが、ユストゥスが扉の前にいて入れない。こちらに背を向け、ユストゥスは壁を探っていた。


 暗すぎて、何をしているのかはよくわからない。

 しばらくして火打石を打つような乾いた音がし、ユストゥスの体の影になった辺りを中心に、薄ぼんやりと灯りが灯った。


 ユストゥスが奥に入り振り返った。角灯ランタンを片手に手招きしていた。

 アルフィーナは中に入り、後ろ手に扉を閉めた。


「フィー、鍵を閉めてくれ」

 ユストゥスが小さな声で言った。

 アルフィーナは頷いた。


 ユストゥスがアルフィーナの肩越しに掲げた角灯ランタンの明かりを頼りに鍵を閉め、アルフィーナは振り返った。

「ありがとう」

 ユストゥスは言い、奥を照らした。


 正面奥には階段があった。どこまで続いているのか分からない。角灯ランタンの明かりが届いているのは、せいぜい五段あるかないかといったところだ。


「ここを降りる。足元に気をつけて」

 ユストゥスは言うと、体を横にして、角灯ランタンで二人の足元を照らしながら、階段を降りはじめた。

 その後をアルフィーナは片手を壁にそえ、一歩一歩確かめながら降りていく。深く地下に潜っていく感覚がした。

 最後の段を降り、アルフィーナは顔を上げた。


 そこは人が二人並んで歩けるかどうかといった幅の横穴だった。

 ユストゥスの掲げた角灯ランタンの灯りが、アーチ状になった地下道を覆う古びた煉瓦を薄ぼんやりと照らしていた。

「こっちだ」

 ユストゥスが右手に曲がった。アルフィーナもそれに続く。


 天井や壁面からは、所々水が染み出し、足元を濡らしていたが、坑道内に水は流れていない。水道でないことは明らかだった。

「ここは?」

 アルフィーナは訊いた。

「昔、この地に王城を建設した時に作った秘密の抜け穴、だそうだ。

 王宮や神殿、王都の主要な箇所をつなぎ、いざと言う時、王族や巫王みこおうを逃すための通路だと俺は聞いた。

 王都に水道を造るのと同時に建設されたらしい。王都とその外に何ヶ所かに出入り口があるらしいが、王都にあるものは全て水道の出入り口と同じ見た目にしたそうだ。

 そうすれば、知らない者にはそうと分からないだろう? 木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中と言ったところだな」

「この抜け穴の存在は、近衛師団で教えられたのか?」

「いいや」

 ユストゥスが首を振った。

「親父に教えられた。お前を巫王様の下に連れて行くのなら、この道を使えと。鍵もその時に親父から手渡された」

「テオドールが?」

「ああ。親父は巫王様から鍵を渡されたと言っていた。王族でも限られた人間と巫王、それと鷹の影たちしか知らない道らしい」

「ふぅん」

 アルフィーナは相槌を打った。


 鷹の影とは代々の王に忠誠を誓い、王の為だけに暗躍する者たちのことだ。その存在は人々が面白おかしく興味本位にする噂話の中にしかない。

 ユストゥスの話しの中でも鷹の影の部分は、噂話の類なのだろうとアルフィーナは思った。


「俺も親父から聞いただけだし、どこまでが本当でどこからが作り話なのかは知らないが、道はここにこうして存在する。それに使えと言われたんだ、使って悪いことはないだろう」

 振り返って、ユストゥスが笑った。そうだなとアルフィーナは同意した。


 しばらく歩くと行き止まりに小さな扉があった。

 アルフィーナが腰を屈めてやっと通れるくらいの高さしかない。

 ユストゥスが脇によけ、前を空けた。

「俺が案内するのはここまでだ。俺はここで待っている。後はお前一人で行って欲しい」

「ああ」

 アルフィーナは頷いて扉を開け、背を低くして中に入った。


 ユストゥスが閉めたのだろう。後ろで音を立てて扉が閉まり、アルフィーナは背筋を伸ばした。

 そこは小さな部屋になっていて、四方が磨き抜かれた肌理の細かい黒御影石に覆われていた。


 部屋の中央、白い布のかけられた簡素な祭壇の前に、跪いて祈る小柄な女性がいた。

 彼女の長く伸びた白銀色の髪は、漆黒の御影石の上に豊かに流れ落ち、部屋の四隅に掲げられた灯火ランプの柔らかな灯を反射して、銀砂を散りばめたように輝いていた。


 女性が振り返った。彼女はアルフィーナのことを見て、何度か目をしばたかせた。

 その度に彼女の銀色の瞳が現れたり消えたりして、星の瞬きのようだとアルフィーナは思った。


 彼女は衣擦れの音をさせながらゆっくりと流れるような動作で立ち上がった。

 銀砂を散りばめたように輝く白銀色の髪に、胸のすぐ下に切り返しのあるゆったりとした意匠の白い巫女服。

 黒御影石に覆われた漆黒の空間の中に、純白の彼女は鮮やかに存在していた。


「あなたがサリアの息子のアルフィーナ?」

 その声は穏だが毅然としていて、人を従わせる強い力に満ちていた。

 彼女が巫王に違いない。アルフィーナは、外套の頭巾を外し、その場に片膝をついて、頭を深く垂れた。

「はい。お初にお目にかかります。第一王子のアルフィーナです」

「遠くからよく来てくれました。礼を言います。お立ちなさい」

「はい」

 アルフィーナは立ち上がった。

 巫王の銀色の瞳が、まっすぐにこちらに向けられていた。


 みこたちは夢の中で未来をるのだと言われている。彼女たちはみな、色調は様々なれど銀色の瞳を持っていた。

 その瞳が今、自分を見つめている。


 特に、巫たちの頂点に立つ巫王は、強い夢視の力を持つと言われていた。彼女の銀色の瞳の前では、過去・現在・未来その全てを隠し通すことはできない。そんな気がアルフィーナはした。


「わたくしがあなたを呼んだのは」

 言って巫王は一呼吸開けた。

「あなたに伝えたいことがあるからです。近くへいらっしゃい」

「はい」

 王位継承についての話に違いない。次に出る巫王の言葉を受け止めるため、アルフィーナは彼女の前まえに進み出た。


 巫王アはルフィーナのことを見上げ、大きく息を吸いこみ口を開いた。


「わたしは今日、サリアから預かった言葉を伝えたいと思って、あなたを呼びました」

「母の?」

 思ってもいなかった巫王の言葉に、アルフィーナは拍子抜けする。

「それはまたなぜですか?」

 幼い頃に死んだ母の記憶はアルフィーナにはない。母親とは他人よりも遠い存在だった。

 正直、その母の言葉などどうでもいい。

 覚悟をつけて王都に来たと言うのに、巫王が自分を呼びつけたのはそんなことこためだったのかと、アルフィーナは自分の胸のあたりまでしか背のない巫王のこと冷たく見据えた。


「サリアとの最後の約束を果たすためです」

 巫王はそれに動じず、淡々と言った。

「彼女はとても悲しんでいました。あなたを一人遺していくことを。でもあの時、あなたを守るためにはあれしな方法がありませんでした。それを理解してもらえなくてもいい、ただ母としてあなたを愛していたことだけは、伝えたいと言っていました」

「それで今更どうしろと? 我が子を噂話から守るために命を捨てた母親に感謝しろとでもおっしゃるのですか?」

「さあ」

 巫王が首を傾げた。


「わたくしはサリアの言葉を伝えただけです。それをどう取るかはあなたの自由でしょう。サリアはわたくしに二つ頼みごとをしました。一つは時が満ちたその時に、あなたに今の言葉を伝えること。一つはあなたが長じるまでの安全。

 わたくしはあなたをテオドールに預けました。あなたはテオドールに庇護され、剣を教えられ、自分の身を守るだけの力を得たはずです。

 今宵この時をもって、わたくしはサリアとの約束もサリアから任せられたあなたに対する義務も責任も全て果たしました。わたくしにはもう、あなたに対してできることはありません。

 それにあなたはもう、自分の望む人生を選びとり、それに対して責任を負うこと学んだでしょう? 王都を離れて過ごしたこの七年はそのためにあったではないのですか」

「それはつまり、わたくしのしたいようにしろと? 王位を望むもそれを捨て去るもわたくしの自由だと?」

「ええ。あなたはあなたの欲することをすればいい。そしてその結果は全てあなたに帰すものです。わたくしの、月の女神の啓示より、そうすることをあなたは望んでいるのではないですか?」

 巫王は視線をそらすことなく、銀色の瞳で真っ直ぐにアルフィーナのことを見上げていた。

 アルフィーナはその視線を振りはらいたくて、その場に片膝をついて頭を深く垂れた。

 その間も、巫王の視線が真っ直ぐに向けられているのを感じていた。


「わたくしからあなたに話すことはこれが全てです。あなたから訊きたいことはありますか?」

「いいえ。今宵はお会い下さりありがとうございました。巫王様が約束を果たして下さり、すでに女神の御許に召された母も満足していることでしょう。母に代わって、御礼申し上げます」

 アルフィーナは巫王の返事は聞かずに素早く立ち上がり、身を翻すと部屋を後にした。


「早かったな」

 アルフィーナが部屋を出ると、よりかかっていた壁から体を離し、ユストゥスが言った。

「ああ」

 アルフィーナは不機嫌に応えた。

 ユストゥスが笑った。

「何がおかしい」

 アルフィーナは横目でユストゥスのことを睨みつけて言った。


「いや、別に。随分と不満そうだと思っただけだ」

 アルフィーナはふんと鼻を鳴らした。


「巫王のヤツ、わざわざ人を王都に呼び出すから、よほど重大なことがあるのだろう思ったら、母親の思い出話を聞かされただけだった」

 アルフィーナが不機嫌に言うと、ユストゥスが肩をすくめて苦笑した。

「そうか。それは残念だった。それよりフィー、夕食はまだだろう。どこかで食べて帰らないか?」

「ああ」

 ユストゥスの提案にアルフィーナは頷いた。





 ユストゥスに連れてこられたのは、王都の目抜き通りから少し入ったところにある小さな宿屋だった。

 宿屋の常で一階は食堂になっていた。貴族や大商人向けの格式張った店ではない。

 今日の仕事を終えた庶民たちが、一日の憂さを晴らし、明日への英気を養うために集まる店だった。


 人々は麦酒の注がれた素焼きの杯を片手に、時折料理をつまみながら話に花を咲かせている。

 店の中は酒精のかおりと腸詰を中心とした料理の肉汁のにおい、それに人々の熱気が充満していた。

 店の奥まった場所にある席に腰掛け、アルフィーナとユストゥスは、料理を前に杯を傾け、話をしていた。


「こんな店、よく知っていたな」

 アルフィーナは店の中を見回した。

 それぞれの卓では酒精の程よく回った人々が、大きな声で自慢話や日頃の愚痴、家族や仕事のことなどをしゃべっている。貴族の礼儀では無作法とされるものだ。だがここに、アルフィーナが幼い頃から教え込まれた行儀や礼儀作法と言ったものはない。皆がそれぞれのやり方で酒と料理を楽しんでいた。


「王都軍にいた時にな。王都軍の主な任務は王都の治安維持だ。当然、夜警もある。夜の街に出る機会があれば、自然とこういった店にも詳しくなる。まあ、騒がしいには騒がしいが、活気のあるこの雰囲気は嫌いじゃない」

 ユストゥスは首を回して一通り店内を見回し、杯を置くと、両ひじを卓につき、組んだ手の上に顎をのせて笑った。

「フィー、お前はどうだ?」

「ああ、そうだな」

 アルフィーナももう一度店内を見回す。


 七年間いた村でも、夏至に冬至にと祭りがあった。

 王都を遠く離れた寒村だ。祭りの規模は小さいし、王都の祭りのように華やかさもない。

 だが人々は、手作りので装飾品でささやかに家を飾り、広場に集まり、日頃の農作業のことは忘れて酒と料理を楽しみながら、歌に踊りにとはしゃいでいた。その時同じ、心弾む浮き足立った空気がここにはあった。


「嫌いではないな」

 アルフィーナが応えるとユストゥスは頷き、目を細めて嬉しそうに笑った。

「だからだ。俺はこの国を守りたい」

 ユストゥスが真剣な顔つきになった。

「俺は、人々の平穏な暮らしを守りたいんだ」

 銀灰色の瞳が真っ直ぐにアルフィーナのことを見つめていた。その銀灰色の瞳は、巫王の瞳と同じように、過去・現在・未来すべてを見通すような力強さがあった。


「なら俺は、村に戻るべきだな」

 アルフィーナは軽く首を左右に振り、片手に持っていた杯の中身を一口あおった。

「なぜ?」

 アルフィーナが杯を卓の上に置くのをまって、ユストゥスが訊ねた。


「俺がいなくなれば次の王はディーデリヒに決まりだ。だが俺がいれば王位継承を巡って争いが起きる。争いが激しくなれば、その影響は民にも及ぶ。何も起きない方が民のためだろう」

「確かにお前の言う通りだ。だが、ディーデリヒ殿下が王位についた後はどうなる? お前とディーデリヒ殿下、二人のどちらかが王位につくまでのごたごたより、その後にやってくる新たな王による治世の方が長い。王がどう国を治めるか、そちらの方が民にとっては重要なのではないか?」

 ふん、とアルフィーナは鼻を鳴らした。


「別に、ディーデリヒが努力すればよいことだろう。どのような治世を行うかはディーデリヒの問題であって、俺の問題ではない。俺は奴の異母兄だが、だからと言って、奴のやり方については俺が責任を持つことではない」

「まあな」

 ユストゥスは組んでいた手を解き、杯を取り上げると、唇を潤すように残っている麦酒を少しだけ飲んで、杯を戻した。


「お前が王家の人間でなければそれでいいだろう。だがお前は王家の人間だ。それに今現在、お前は王位継承権第一位の位置にいる。それならば、この国に対する義務と責任が、お前にはあるのではないか?」

 アルフィーナはふんと鼻を鳴らした。

「お前の話を聞いていると、まるでディーデリヒより俺が王位を継ぐことを望んでいるようだな。だが先程、巫王はそのことについては何も言及しなかった。つまり巫王は俺よりも、ディーデリヒが王位につくことを望んでいるということではないのか?」

 ユストゥスが首を左右にゆるく振った。

「さあ、俺には巫王様のお心の内を慮ることはできないが、巫王様が仰られなかった、すなわち否ということではないだろう」

「つまり俺が王位に就く可能性もあると言いたいのか」

「ああ」

 ユストゥスは頷いた。

「それに俺は、そちらの方がこの国にとってよいと思っている。そのためにお前に力を貸す覚悟もある。親父も同じだろう」

 アルフィーナはふん、と鼻で笑った。


「お前とテオドールが俺を擁立すると言うのなら、王都軍と近衛師団は自由に動かせる。いざとなれば王都を抑え、王の身柄を拘束して俺に王位を譲らせることも可能だ。

 だがそれに反発した諸侯が連合すれば、王都軍と近衛師団の兵力など話しにならない。諸侯が結託して王都に攻めてくれば籠城戦しか選択肢はない。

 その時真っ先に壊されるのはお前が守りたいといっていた民の平穏な暮らしだ。

 それに籠城戦となれば立て籠もる方が不利だ。周囲を囲まれれば補給線確保できず物資が尽き、いずれは負ける。その過程でまず一番はじめに飢えに苦しむことになるのは王都にいる民だ。それでもお前は俺を王位につけるというのか?」

 ユストゥスが声を立てて笑った。


「お前は何もそう、最悪の事態になることばかり考えなくてもいいだろう。要はそうなる前に手を打てばいいだけだ。それに武力だけが方法ではあるまいし」

「それはそうだが争いはない方がいいだろう。お前だって進んで世を乱したいと思っているわけではあるまい。それとも俺を王位につけ、その後ろ盾となることで権力を望むのか?」

「まさか」

 ユストゥスが肩をすくめた。


「ならなぜ俺に王位を勧める」

「フィー、お前はディーデリヒ殿下のことを知っているか?」

「いいや」

 アルフィーナは首を振った。アルフィーナはアイゼンフート家で育ち、ディーデリヒは生母エーファの実家クーネンフェルス家で育った。アルフィーナはディーデリヒと会ったことさえなかった。


「俺はディーデリヒ殿下と夜会で何度かお会いしたことはあるが、悪い方ではなかった」

 両手で麦酒の入った素焼きの杯を包み込こみ、その中身を見ながら、ユストゥスが訥々と語り出した。

「心根の素直な方で俺が挨拶をしたら、ご自身や俺の立場など気にした様子もなく、屈託なく返して下さった。周りに気遣いのできるとてもお優しい方だ。何事もなく穏やかな世であれば、きっとよい王にお成りだろう」

「お前の言う通りなら、俺よりも、ディーデリヒが王位につけばいい」

「まあ、そうなんだが。だが、どうしたら穏やかな世なり得ると思う、アルフィーナ」

 顔を上げ、ユストゥスが真っ直ぐに見つめてきた。銀灰色の瞳には真剣な色が宿り、いつものように冗談や憎まれ口でごまかすことを許しはしないと、アルフィーナに明確に伝えてきていた。


 アルフィーナは一度大きく吸い込んだ息を細くゆっくりと吐き出してから、ユストゥスの銀灰色の瞳をしっかりと見すえて思うところを語る。


「そのためには為政者の不断の努力が必要だろうな。問題を早期に的確に捉える観察眼とそれに対する早急な対処。それと緊急度と重要度に応じて、優先的に物事に当たることも必要だろう。時にそれが、自分の信念や守りたいと思うものと相容れぬものであったとしてもだ。義務と責務を忘れ、己の考えに固執しては国は守れまい。違うか?」

 正論を語ることが気恥ずかしいとアルフィーナは思ったが、ユストゥスの銀灰色の瞳から視線を逸らさずに言った。

 それに納得したようにユストゥスが深く頷いた。


「考え方は人それぞれだ。お前が正しいとも間違っているとも言う気はない。ただ、自分の思うところを成そうとする意志の強さと、それに付随して起きた出来事の責任を取ろうという覚悟は必要だ。それがなければ、民に穏やかな世などもたらせはすまい」

「おそなくな」

 巫王も似たようなことを言っていたなと思いながらアルフィーナは軽く相づちをうった。


「民によりよい治世をもたらすには、優しいだけでは足りない。全ての民に対して正義を成そうとする心構えは立派だが現実にそれは不可能だ。多くの民を救うためには、少数を犠牲にする必要がある時もある。非情さに、割り切りと諦め、これが肝心になる時もある。お前なら、必要とあらば信頼と信用をおく人間を切り捨てることもできるだろう」

「俺は冷酷な人間だと言いたいのか?」

 アルフィーナは自嘲して、薄い唇の右端をわずかに引き上げた。

 ユストゥスが苦笑して首を振った。


「お前が真底冷酷な人間だとは思っていない。どちらかと言えば、お前は優しい人間だろう。それを素直に表に出さないから誤解されるがな。自分が信をおく人間を切り捨てた時、お前が哀しむことを俺は知っている。だがそれが必要なことなら、お前は彼らを見捨てても前へ進むだろう」

「それで?」

 自分のことほどわからぬことはない。その時になってみなければ、何とも言えないだろう。ユストゥスの言葉にあえてこたえず、アルフィーナは先をうながした。


「だからだ。ディーデリヒ殿下はお優しい。全ての民に対して、最善となる政をしようと努力なさるだろう。だが理想は理想だ。全てを現実のものとすることはできない。現実と理想の間で挫折しながらも折り合いをつけ、国を治めていくだけの強さが、ディーデリヒ殿下にはないと俺は思っている」

「そんなもの、経験を積めば、何とかなるものだろう」

「まあな」

 ユストゥスが苦笑した。


「陛下もまだご健在だ。ディーデリヒ殿下が立太子なさるとして、時間はまだある。経験を積んで何とかなるなら、俺も気にはしないさ。だが、理想と現実の間に挫折した時、ディーデリヒ殿下がどうなさるかが俺は心配なんだ」

「どいうことだ?」

「ディーデリヒ殿下の後ろにはエーファ殿がいる。エーファ殿は気性の激しい方でな、ディーデリヒ殿下が王位につけば、恐らく政に口出ししてくるだろう。水は易きに流れる。現実に絶望してディーデリヒ殿下が国政に関わることを諦めた時、全てをエーファ殿に任せるのではないかと俺は思っている」

「例えばそうだとしても善政がなされるなら、誰がそれを行ったかなど民には関係あるまい。民にとっては結果が全てだ」

「その通りだ。エーファ殿にその気概があれば、俺も気にしないさ。だがなぜ、エーファ殿は我が子であるディーデリヒ殿下に王位を継がせたいと考えていると思う?」

「さあ」

 アルフィーナは肩をすくめた。

 社交界に出る前に王都を後にしたアルフィーナは、異母弟であるディーデリヒのことも知らなければ、エーファのこともよく知らなかった。


「おそらくだ、ここからは俺の推測だし、それが正しいとも限らない。エーファ殿はお前の母上でいらっしゃるサリア妃殿下が亡くなった後に陛下の寵妃となられたが、王妃に冊立はされなかった。ディーデリヒ殿下の妹のイレーネ王女を生してすぐ、王宮から実家に帰されている。エーファ殿は王妃となれなかった代わりに、ディーデリヒ殿下を王位につけ、王太后の地位を得、権勢を得ようとしているのではないかと俺は思っているんだ」

「つまりユストゥスお前は、自らの無聊を慰めるために権力を求めるのは許せないと言いたいのか?」

「いいや」

 ユストゥスが首を振った。


「権力を求めるきっかけなど何でもいいさ。それよりも、手に入れたそれを正しく用いるかどうかが重要だ。自らの心を満たすためだけにそれを求め用いるのでは、国は成り立つまい」

「お前の言うことはわかるが、人は必ず誤る。ディーデリヒは駄目だが、俺が王位についたらなら、正しく力を用いるなどという確証はどこにもない。ならば誰が王になろと同じことだろう」

「まあな。可能性という意味では、誰が王になろうと大した差はないのだろう。だが心がけ一つで、人が選ぶ道は変わってくる。少なくもお前は、自ら成したことには責任を取らなければならないということを知っている。だから俺は、お前こそ王に相応しいと思っている」

 ふんとアルフィーナは鼻を鳴らした。


「他に適した者がいないというのなら、王になってやってもいい」

 それがあの日にユストゥスを傷つけたことの贖罪になるならば、本心を隠してアルフィーナは皮肉げに言った。

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