アイゼンフート家の屋敷に行くのは気が重かった。

 それは七年前のあの出来事のせいだ。


 あの日、ユストゥスが屋敷に戻ってきたと聞き、アルフィーナは部屋を飛び出した。


 四年前に王都軍に入ってからというものユストゥスはあまり屋敷に寄りつかなくなった。

 ここ二、三年は、明け方過ぎに帰ってくる時も多かった。そんな時は決まって、濃い酒の臭いや強い白粉の臭いをさせている。

 昨晩どこでどうやって過ごしたかなど、まだ男女の事を知らないアルフィーナにも明白だった。


 だが今日は、珍しく昼前に帰ってきた。


 王都軍は平時には王都の治安維持を担い、有事には王族のいる王都を守る。

 実務部隊の指揮官でしかないユストゥスには、頻繁に夜勤があった。

 この時刻に帰ってきたと言うことは、夜勤明けでどうせすぐに寝てしまう。今会わなければ夕食前には色街に出て行ってしまうだろうと思って、アルフィーナは扉も叩かず、ユストゥスの部屋に飛びこみ、主の姿のない部屋の中をかけぬけると、続きになっている寝室に入った。


「部屋に入る前に声をかけろ‼︎」

 そこにいたのはユストゥス一人ではなかった。

 剣を外した濃紺の軍服姿のままの慌てて振り返ったユストゥスの腕の中には、アルフィーナも顔を見知った下働の侍女の姿があった。


「どうしてここにコイツがいるんだ」

 顔をしかめてアルフィーナは訊ねた。

 ユストゥスは抱擁をときながら、アルフィーナに向き直った。

 黒髪の人物はアルフィーナの視線を逃れるようにユストゥスの背にぴったりとはりつき、ユストゥスの背に額をあてて、恥ずかしそうに顔をふせた。


「お前には関係ない」

 ユストゥスはアルフィーナのことを軽く睨めつけ、硬い声で言った。


 五つの時、巫王みこおうの命によりアルフィーナはアイゼンフート家に預けられた。それからずっとユストゥスと一緒に育ってきたが、最近のユストゥスはこんな風にアルフィーナのことを遠ざけようとする。

 それがアルフィーナには腹立たしかった。


 そんなアルフィーナの気持ちを逆なでするように、女はユストゥスの背中の後ろからおずおずと顔を出し、ユストゥスのことを見上げた。

「ユストゥス様……」

「大丈夫だ。フィネ」

 ユストゥスは首をひねって女を見ると優しく笑いかけた。

 女は頬を紅潮させ、ユストゥスの後ろに隠れた。

 その仕草にアルフィーナの昔の記憶が呼び起こされる。


 いたずらをして侍女の頭で母親代わりのロラやテオドールに叱られる時、領地の森で冒険をする時、ユストゥスの背中はいつもアルフィーナの前にあった。ついこの間まで、ユストゥスの背中はアルフィーナのものだった。それが今下働きの女に取られている。

 そう思うと元々癇の強いアルフィーナの我慢がきかなくなる。


「外で遊ぶのが面倒になって、屋敷の侍女に手を出すようになったのか?」

 アルフィーナは腕を組み顎をそびやかすと、わけ知り顔をつくって、所詮は遊び相手に過ぎないのだと女に侮辱の言葉を投げつけた。


 女が自分の身体を強くユストゥスの背中に押しつけた。


「違う」

 ユストゥスが大きくはないが、強い口調で言った。

「俺はフィネと結婚する」


「はっ」

 アルフィーナは嘲るように笑った。

「できるわけがないだろう。元貴族かもしれないが、その女は今は平民だ。未来のバルトライン子爵夫人になるには身分が低すぎる」

 アルフィーナはユストゥスに与えられた爵位を口にした。

「それになぜ、巫王が俺をこの家に預けたと思う? 亡国の女王の息子で後ろ盾のない俺にアイゼンフート家の後ろ盾をつけるためだ。だがテオドールは元々傭兵で、この国の生まれではない。ヤツは王に気に入られ、エストブルグ侯爵の地位とアイゼンフートの姓を賜った。王都軍の将軍を務めているヤツは王都の半分以上の軍権を握っているが、それだけでは俺の基盤は盤石ではない。俺のため、お前は国内の有力貴族と結婚して縁を結ぶ必要がある。そんな女との結婚、お前の立場で許されると思っているのか?」

 アルフィーナは、ユストゥスに自分の立場を分からせようと一気に言いつのった。


「アレクシスがいる」

 ユストゥスが低い声で言った。

「俺は十九年前の雪の日、酔って街を歩く親父に拾われた親父の養い子だ。親父がその実力で勝ち得たものを継ぐ権利は俺にはない。俺は単なる王都軍の将兵として生きられればそれででいい。親父の跡は、実の子であるアレクが継げばいい。

 それに俺は、お前に協力して権力を得たいだなんて微塵も考えていない。巫王様がお前を家に預けなければ、俺はただの貴族の子息として生きていくはずだった。それにお前が俺に懐かなければ、この家の後継はアレクになるはずだった。

 俺はただ、本来あるべき場所に物事を戻したいだけだ」


「そういうことか。だが、テオドールはその女との結婚を許さないだろうな。もしかして、その女と結婚を強行して廃嫡されるつもりか? それとも駆け落ちでもして、この家を出て行くか?」


「違う」

 ユストゥスが叫んだ。

「親父とグイードに許可はもらっている。今は陛下の裁可をい頂くため準備をしているところだ。

 この結婚に親父が出した条件は、俺が後を継ぐことだった。だから俺は親父の跡を継ぐ。だがすぐに、アレクシスに跡を譲るつもりだ。その後は領地で静かに暮らす。お前が王位が欲しいというなら、アレクシスに協力してもらえばいい」


 テオドールの子であることからユストゥスは逃げだそうとしている。だが、王の子であることから、アルフィーナは逃げられないし、巫王がアルフィーナの王位継承を望んでいるのであれば、それを断ることはできない。

 それなのにこの幼馴染は、周囲から課せられたものを捨てて、一人逃げ出そうというのか。

 アルフィーナは蒼氷色の瞳で、冷たくユストゥスのことを睨みつけた。


 母の死後、アルフィーナは父王によって王領地に追いやられた。そこで暮らした日々、アルフィーナは孤独だった。そんなアルフィーナに、ユストゥスは暖かな手を差し出し、ずっと側にいて運命を分かち合うと誓ってくれた。

 そこから逃げ出すというのは、アルフィーナにとって裏切り以外の何物でもなかった。


「嘘つきめ‼︎」

 アルフィーナは叫んだ。

「約束を破るというのか⁉︎」

「子供の頃の約束だ。大人になってまで守る必要はないだろう」

 ユストゥスが疲れたように首を振った。

 アルフィーナは身体の横で拳を握った。


 許せなかった。

 自分を捨てるユストゥスが。

 アルフィーナは唇をかみしめ下をむく。

 ユストゥスが離れていくと言うのなら、もう何もいらない。


 アイゼンフートの屋敷を出ていき、幼い頃に住んでいた王領地の屋敷へいこう。

 ただその前に。

 アルフィーナは壁に立てかけてあったユストゥスの剣を手に取った。鞘を抜き、その場に投げすてる。

 切っ先を目線の高さまであげ、ユストゥスにむかってかまえた。


「フィー……」

 ユストゥスの銀灰色の瞳が悲しげに細められた。

 最初に裏切ったのはお前なのに、そんな顔をするなと言いたくなる。


 ユストゥスの後ろでフィネが震えていた。

 ユストゥスは振り返って、自分の背中からフィネを引き剥がし、一歩後ろに下がらせると、大丈夫だからと言った。


「悪かった。さっきは俺も言いすぎた」

 ユストゥスが静かに口を開いた。

「でも話した気持ちは本心だ。俺はもう、この家のからもお前からも自由になりたい。ただ普通の、平凡な貴族の子弟として生きていきたいんだ。俺は親父に、否アレクに、アイツが本来受け取るべきだったものを返したい」

「だから俺から逃げると?」

「ああ」

 ユストゥスが頷いた。

「フィーお前に許してくれとは言わない。だがお前が何と言おうと、俺の気持ちは変わらない」

 ふん、と鼻を鳴らしてアルフィーナは笑った。

「なら勝手にすればいい」

 唇の右端がわずかに持ち上がって、笑みの形をつくる。

「だがお前があの時の約束を破ると言うのなら、お前はもう俺の友ではない。俺も自分の好きにする」

 言うとアルフィーナは、ユストゥスにむかって踏みこみ間合いをつめた。


 アルフィーナがいくら癇のきかない子供だったとは言え、あの歳になってそれを自制できないはずがなかった。


 誰も殺すつもりはなかったのだ。ただ幼馴染との縁を切りたくて、自分の覚悟を示すために幼馴染に剣をむけたに過ぎない。


 だがあの場に誰か他の人物がいれば、アルフィーナには明らかにユストゥスを殺す意思があったと証言しただろう。

 それくらいアルフィーナの剣には勢いがあった。


 だが、幼馴染の身体を傷つける寸前で剣をとめるつもりだった。幼いころから何度も手合わせて繰り返してきた友は、アルフィーナの心を見切っていたのだろう。その場に立ったまま、勢いの乗ったアルフィーナの剣刃を避けようとはしなかった。


 だがフィネは違った。


 振り下ろしたアルフィーナの剣とユストゥスの間に、身体を投げ出したのだ。


「フィネ‼︎」

 ユストゥスが叫ぶ。

 アルフィーナは目を大きく見開いた。

 だが、勢いのついた剣はとめられない。

 アルフィーナの目前に、次にくる衝撃を予感してかたく目をつむったフィネの顔がある。


 フィネの首つけねの少し上あたりに剣がはいった。

 しまったと思った時にはもう遅かった。勢いのついた剣は肉を断ち、骨にぶつかり、ようやくとまった。


「あっ……」

 フィネは小さくうめき、剣刃の食いこんだ首のつけねを見た。

「これって」

 フィネがよろよろと後ろに下がった。

 剣が抜け、血が吹き出した。


 倒れ込むフィネの身体をユストゥスが抱きとめた。

 フィネは溢れでる血を押しとどめるように、傷口を片手で押さえ、呆然とアルフィーナのことを見ていた。


 その上からユストゥスが手を重ね、傷口を強く押さえる。

 だが、首にある太い血管を傷つけてしまったのだろう。血はとめどなく漏れ出しとまらない。


 ユストゥスは片手でフィネの腰を抱くと、ゆっくりと床に座らせる。

 流れ出した血は、見る間にフィネの上半身を濡らし、フィネの身体を伝い落ちて、床に血だまりをつくった。


 濃厚な血のにおいが、ユストゥスの部屋の中を満たす。

 フィネは死ぬ。アルフィーナの振りおろした剣のせいで。


 他人の上に自らがもたらした死。さっと全身の血の気が引いて、指先が冷たくなった。初めて嗅ぐそのにおいのせいか、それとも剣で初めて人を傷つけたという衝撃のせいか、頭がくらくらとするのを感じた。


「俺は……」

 アルフィーナは視線を足元にやり、よたよたと数本後ろに退がると、体の前に中途半端に掲げていた剣をおろした。


「ごめんなさい」

 小さく弱々しいフィネの声にアルフィーナは顔を上げた。

「わたしが、ほしがってはいけなかったの。ユストゥス様の未来を。ごめんなさい、でんか」

 アルフィーナにむかって、フィネが優しく微笑んだ。

 その漆黒の瞳は力ない。首のつけねの傷口を抑えるフィネの手が、上からおさえるユストゥスの手を滑り抜けぱたりと落ちた。


 フィネはようやくといった様子で首を動かし、自分を抱くユストゥスのことを見上げ、首のつけねをおさえていたのとは反対の手をユストゥスに伸ばし、ユストゥスの頰に触れようとした。

 ユストゥスは傷口から手を離すと、フィネの手を握り自分の頰へと導いた。

 二人の手についたフィネの血で、ユストゥスの頰がべっとりと汚れる。


「俺は君を」

 フィネは弱々しく首を振り、ユストゥスの言葉をおしとどめる。

「きっと、あのひ、さびしさから、ユストゥスさまの、てをとってしまった、わたしのせい。でんかを、わたしに、てをのばした、じぶんを、せめないで」

 喘鳴の混じりはじめた呼吸の下から、フィネが言った。

 ユストゥスが首を振った。


「俺が、君を……」

「いいの、ユストゥス、さま。わずかのあいだ、だったけど、ゆめをみられて、わたしは、しあわせだった。それだけで、じゅうぶん」

 ユストゥスは自分の頰にフィネの手を強く押し当て、首をふる。


「いいの、これで」

 小さく呟くとフィネはユストゥスに微笑んだ。

 ごめんなさい、とフィネの唇が動き、大きく息を吸い込んだ。

 それがフィネの最期の呼吸だった。

 ユストゥスに支えられたフィネの身体からだらりと力が抜ける。


 ユストゥスは握っていたフィネの手を離して、アルフィーナのことを見た。

 見上げる銀灰色の瞳にはアルフィーナのことを責める色はなく、むしろ気遣う様子があった。


「フィー」

 ユストゥスの左頬にべったりとついたフィネの血が、つい今しがたの自分の行動の結果をつきつけてくる。


「俺は知らない。お前のせいだ」

 アルフィーナのことを見捨てて、裏切ろうとしたユストゥスがいけないのだ。

 アルフィーナは剣を持ち上げ、一歩二歩とユストゥスに歩み寄る。彼の目の前までくると、剣をふって、フィネの血に汚れたユストゥスの頰を一直線に斬りつけた。


 思いのほか深く斬れた傷口から血が溢れ出し、ユストゥスの腕の中にあるフィネの身体にこぼれ落ちた。

 ユストゥスは血の流れでる傷口を手でおさえることもなく、呆然とアルフィーナのことを見上げていた。


「お前が悪い」

 アルフィーナはその場に剣を投げ捨てると、ユストゥスの部屋を後にした。





 屋敷につくと、ロラが勢いこんで玄関ホールに現れた。


 アルフィーナがアイゼンフート家にくるのと前後して、テオドールは妻を娶ったが、元々体が弱く、アレクシスを産んでしばらくしてから死んでいる。

 アルフィーナとユストゥスの二人に母はいない。二人の母親代わりを務めたのがロラだった。


 髪は昔と変わらずきっちりとまとめられていたが、昔は前頭部を中心にちらほらと混じる程度だった白髪が、前髪全体に広がり、記憶にあるものより、顔の皺が深くなっていた。

 目の前の彼女が少し小さくなったように感じたのは、アルフィーナの背が伸びたからなのか、それともロラの背が少し丸くなったからなのか。その両方だとアルフィーナは思った。


 七年という歳月は、目に見えるもの、そうでないもの様々なものを変化させるのに十分だ。


 アルフィーナがらしくもなく覚えた感傷の念に浸っていると、ロラが渋い顔をした。


「こんなに汚れて。一体、お幾つになったんですか」

 アルフィーナは自分の体を見下ろす。旅装に選んだ黒い衣装は砂埃を被ってあちこち汚れていた。

 幼い頃、雨上がりの庭でユストゥスと遊んで服を泥だらけにし、ロラに叱られたことを思い出す。


「馬に乗って、それも急いで来たから仕方がない」

 アルフィーナが悪びれずに肩をすくめると、ロラがため息をついた。

「そのまま歩いて、屋敷中を土まみれにするおつもりでなければ、上着をお貸しください」

 アルフィーナは苦笑し、埃よけに着ていた外套を脱いだ。


 ロラはひったくるようにしてそれを受け取ったが、その下の衣装を見て、眉をひそめる。馬をかなり急がせてきたせいで、外套だけではなく、その下の衣装も土ぼこりで汚れていたからだ。

「外に行って汚れて帰ってくるなんて、小さい頃から変わらないのですね」


 ロラは手拭きハンカチを取り出しすと、汚れを落とすため、アルフィーナの身体を上から下まで入念に叩きはじめた。

 前に後ろにと、ロラがアルフィーナの周囲をせわしなく動き回る。


 七年を過ごした村では、身の回りのことは全て自分でやってきた。久しぶりに誰かに世話を焼かれるのは、心地よくもこそばゆい。


 アルフィーナは、大人しくロラのしたいに任せる。しばらくして、ロラはアルフィーナから一歩離れると、満足げにアルフィーナのことを見上げて、手拭きハンカチをしまった。


 ロラに案内されて自室に向かい、彼女が渡してきた服に着替えた。アルフィーナが着替えるのを見届けて、お疲れでしょうからと、汚れた服を持ってロラが部屋を出ていった。


 一人にされ、アルフィーナは改めて寝室を眺めた。

 部屋の中は何も変わっていなかった。

 寝台の横の小卓の上には読みかけだった本が、表紙を上に置いてある。窓辺に置かれた書き物机の隅には、使い込まれた革製のペン置きが置かれ、愛用だったペンが載せられている。


 主がいなくなった後も欠かさずに手入れしていたのだろう。きちんと掃除された部屋は、ちりの一つも見当たらなかった。


 待たれていたと、帰還を望まれていたと思って良いのだろうか。

 手入れされた部屋に、アルフィーナは思った。


 アルフイーナは寝台に腰かけた。

 アルフィーナの重みに、寝台が柔らかく沈みこむ。

 王都へ向かう道中、少しでもとまってしまうと、ユストゥスに会うと覚悟を決めた気持ちがしぼんでしまうような気がして、ろくなに休みも取らずに馬を走らせた。

 先程の彼の態度は、アルフィーナのことを赦したからなのか、巫王に従うと決めたから、過去をなかったように振舞ったからなのか、どちらかは分からない。

 だが、彼と会ったことで、ここへ来た一番の目的は達したはずだ。


 もう休んでもいいだろう。

 そう決めて、大きく息を吸い込み、吐き出す息とともに身体中の筋肉を弛める。

 すると知らず知らずの内に張りつめていた気が一気にほどけて、溜まった疲労が押し寄せてきた。

 夜になるまでにはまだ時間がある。アルフィーナは疲れて重たくなった身体を横ひきずって、寝台の上に横になった。

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