アルフィーナは王都につくなり王宮へむかい、汚れた旅装をあらためることもせず王に面会を求めた。通されたのは王の執務室でも私室でもなく、謁見の間だった。

 百を越す廷臣達を一時に集めることができる場所だったが、今は人払いされ、アルフィーナしかいない。


 アルフィーナは立ったまま部屋の奥を眺める。金糸の刺繍で縁取りのされた真紅の天蓋の下、真紅の天鵞絨と金箔で飾られた豪奢な玉座があった。


 玉座の後ろには、天蓋と同じ真紅の布に、金糸で王家の紋章である剣と三日月を刺繍した織り布タペストリーがかけられている。


 玉座には今、誰もいない。


 その椅子に座りたいかと訊かれればすぐさま否と応えるが、あの椅子を異母弟ディーデリヒに譲ることが自らの死を意味するとあれば、事情は変わってくる。

 他人の野心のために、進んで命を捨てる気にはなれない。

 人のため、見返りもなく自分を犠牲にできるかと意地があった。


 侍従の前触れがあり、玉座の横の扉から王が入ってくる。

 アルフィーナはその場に膝をつき、深々と頭を下げて最敬礼の形を取った。

 扉が閉められ、王がゆっくりと歩いてきて玉座に座る。


 下位の者は身分の高い者が話しかけるまで口を開いてはいけない。

 そんな宮廷の儀礼を守り、アルフィーナは父王から声がかかるのを待つ。


「お前は」

 王が口を開く。年老いてはいるが強い意志を持つ声が、謁見の間の空気を静かに震わせた。

「何故、王都へ戻ってきた」


みこ王様がお呼びとお伺いいたしましたので」

 頭を垂れたままアルフィーナは応えた。


「巫王がお前を次の王にと望めば、お前は王位を欲せんとするのか。王位継承権などいらぬと自ら王都を出て行ったお前が」

「自ら求めようとは思いもよらぬこと。わたくしの心は、あの日から変わっておりません。しかし運命を司る月の女神が望まれるのであれば、人の身であるわたくしにはそれを拒むことなどできません」


 ふん、と父王が鼻で笑った。


「あくまで全ては女神の御心次第ということか。神官どもが聞けば何と敬虔な信者だも泣いて喜びそうな言葉だな。だがお前は自分の人生を女神にいいように利用され、それを素直に受け入れるだけなのか。それでよいと」

「良いも悪いも、女神により用意されたものならそれを受け入れる以外にどのような道がございましょう。受け入れないとあれば、思い通りにならぬ自らの生を恨んで生きるのみ。自らを憐れんでで生きるより、女神に与えられたものを受けとめ、それを享受して生きる方が幸福と存じます」

「それがどんなに辛いものであってもか?」

「はい」

 アルフィーナは頷いた。


 真実そうとは思っていない。今回のことは、身に降りかかる火の粉を振り払う、それだけのことだった。

 巫王の意図がはっきりとしない今、巫王の意志がアルフィーナの立太子にあったとしても、そうでなかったとしても、どちらに転んでもよいよう耳ざわりの良い言葉を並べておくのが最善だ。

 母が自害し、三才で王領地にある小さな館に追い払われてから今日まで、父王と直接言葉をかわした記憶は片手にあまる。その父と呼ぶには薄い繋がりしかない相手に、心の内を明かそうとは思わなかった。


「巫王が王位を勧めたとして、アイゼンフート家がそれを拒んだらどうする。さすればお前の後ろ盾は何もくなる。

 仮にだ、アイゼンフート家がお前を擁立することを決めたとしても、アイゼンフート家だけでは盤石な基盤とはいい難かろう。当主のテオドールは王都軍を任せるには信にたる人物だが、政とは一線をひいてきた。息子のユストゥスもしかりだ。

 父子ともに余の忠臣ではあるが、内政に関する経験と手腕がない。さすれば王宮内で力を得ることは難しかろう」

「試練は数多くありましょう。しかしまだそれに直面もしていないのに、今から心にかける必要があるとは思っておりません。それに、運命を司る月の女神が与えるものであればそれがどのような艱難辛苦であっても、己にとって意味のあるものと信じております」

「はっ」

 父王が吐き捨てるように笑った。

「心にもないことをよくもそう、恥ずかしげもなく次から次へと口出せるな。そこは母親ゆずりか」

「母のことは記憶にありませぬ故なんとも。しかし陛下がおっしゃるのでしたらそうなのでしょう。血の繋がりとは強いものと申しますれば」


 ふん、と国王が、不快げに鼻を鳴らした。


「だかな、余には余の考えがある。王位は余の血を継ぐもの、そして息子として認めるに値するものに譲りたいと思っておる。お前にはその資格と器があるのか?」

 王はアルフィーナを自身の子としては認めないと暗に言っている。それを無視してアルフィーナは言う。

「誰が何と言おうともわたくしは陛下の子であり、王位継承権を持つ第一王子です。器に関しては、わたくしから何と申し上げても信に足る言葉とはなりますまい。陛下御身自ら確かめていただく他ございません」


「本に、母に似て口だけはよく動くな。巫王とお前の好きにすればよい。だが余は、余の認める者にしか王位を譲る気はない。そのことよく心しておけ」

「はい」

 父王は立ち上がり、謁見の間を去っていった。


 謁見の間を後にしたアルフィーナは、王宮の奥まった場所にある一室へ向かった。

 その部屋は、王宮に務める官吏たちの執務区域から、王族が普段の生活をするためにつくられた区域に切り替わる直前にあった。


 王族の私的空間にほど近いこの場所に人はいない。

 アルフィーナは目の前の扉を見上げて戸惑う。

 王都に戻って来れば会わずにはすませられない人物は、この扉の向こう側にいるはずだ。しかし、ここまで来てまだ、彼に会うのは勇気がいった。


 心の中が常になくざわついている。彼に会い、七年前のことを糾弾されることが恐い。だが、グイードと同様に、彼にもアルフィーナを断罪する権利がある。そして彼の与えるものなら、それを素直に受け入れる覚悟をしてきたはずだった。

 アルフィーナは、自分を奮い立たせるため、心を落ち着けるため、大きく息を吸い、扉を叩くために拳をつくった。


「何かご用ですか」

 横合いからかけられた声に、拳を作った手がとまる。


 先ほどから、廊下の奥からやってくる気配には気づいていた。

 人気がないと言っても王宮内だ。滅多なことはないだろうとことさら警戒はしていなかったし、七年前に王都を去った王子のことを覚えている者も、声をかける者もいないと思っていた。


 声のした方をむき、アルフィーナは手を下ろす。


 そこには一人の男が立っていた。長身ではあるが、アルフィーナより幾分背が低い。均整の取れた身体を、黒を基調に所々に銀糸で縫いとりの入った軍服で包んでいた。あれは近衛師団の士官用の軍服だ。暗い色の軍服と、後ろで束ねた燃え上がる炎のような色をした赤毛との対比が印象的だった。


「アルフィーナ殿下とお見受けいたしましたが」

「お前は?」

 アルフィーナには男に見覚えはなかった。

 だが、近衛師団は王宮に住まう王族の警護と王宮の警備を行うその士官ならば、アルフィーナが王宮へ戻ってきたことを知らされていても不思議はない。


 近衛師団の士官になれるのは、貴族の家の子弟だけだ。彼は、エーファに与する家、もしくはアルフィーナの血統に疑いを持ち、アルフィーナの王位継承に難色を示す家の者の可能性もある。

 アルフィーナは突然声をかけてきた男のこと警戒して眺める。


「突然お声がけしてしまい申し訳ございません。陛下より近衛師団の一員として、王宮警護の任をまかされておりますエーデル子爵の三男で、エトムント・フェラー少佐です」

 男の緑柱石エメラルドを思わせる翠色の瞳は落ち着いていて、アルフィーナの鋭い視線を冷静に受けとめている。


「――フェラー家」

 聞いたことがない。有力貴族ではないのだろう。だからと言って油断はできないが。アルフィーナは、左右の眉が自然と顔の中央に寄るのを抑えることはしなかった。


「はい。師団長の副官を務めております。アルフィーナ殿下が王都へいらっしゃることは、前々から隊長にきいておりました」


 現国王の第一王子であるアルフィーナが巫王に呼ばれ、王都へ戻ってきた。

 その理由として考えられるのは、王位継承に関することしかない。

 ことは国政とアイゼンフート家に関わる一大事だ。それをユストゥスが話した相手となれば、ユストゥスに公私ともに信頼されているのだと容易に想像できる。


 だが果たしてアルフィーナが信頼するには足りる男なのか。

 アルフィーナは視線をさらに険しくして男のことを見つめる。

 男は表情を崩さず、少しだけ首をかしげた。


「師団長に会いにいらしたんでしょう?」

「ああ」

「でしたら」

 男は言って、素早い動きで扉とその前に立つアルフィーナに近づくと、扉を叩いた。


「おいっ」

 一度つけたはずの決心は、男の出現によりしぼみ切っていた。

 男の行動にアルフィーナが慌てると、何が? といった様子で男が見つめてきた。

 だが、今の自分の気持ちを、出会ったばかりのこの男には言いたくない。

 アルフィーナと男が見つめあっていると、「誰だ」と部屋の中から応えが聞こえた。


「エトムントです」

「入れ」

「失礼いたします」

 男は部屋の人物に応え、扉の取手をつかむと、アルフィーナと扉の間に身体を割りこませつつ、扉を開いた。


「何の用だ?」

「アルフィーナ殿下がいらっしゃいました」

 室内に入り、扉の横に移動しながら男が言った。


 扉の正面、広い部屋の一番奥に、午後の光が降り注ぐ窓を背に執務卓に座る幼馴染の姿が見えた。

 アルフィーナと目が合い、彼の銀灰色の瞳が大きく見開かれる。

「フィー」

 言ったきり彼の動きがとまる。


 彼の左の頰には、目尻の少し下辺りから唇の端に向かって斜めに一直線に深く斬られた痕があった。それは七年前のあの日、床に倒れた婚約者の体を抱え、自分のことを見上げてくる彼に、アルフィーナがつけたものだった。


「——俺は……」

 何と言うべきかアルフィーナは迷う。


 彼が求めるのであれば謝罪でも何でも、命を差し出す覚悟さえあった。


 だが、アルフイーナが最も望んでいるのは、もっと別のことだった。昔と変わらぬ呼び方に、それが与えられるのではないかと浅ましい心が期待する。


 心のままにまかせてよいのなら、今すぐ彼のところまで駆け寄って、フィネを殺したことを赦して欲しいと、跪いて懇願したかった。


 自分の足が動き出してしまわないよう、勝手な言葉が飛び出してしまわないよう、アルフィーナは意志の力で、彼からの赦しを希う自分の心を必死にねじ伏せる。


「遠くから、よく来てくれたな」

 彼がようやくと言った様子で、言葉をしぼりだした。


「いいや」

 そんなことはないと、アルフィーナは首をふる。


「疲れただろう、そこに座ってくれ」

 執務卓から立ち上がりつつ、ユストゥスが執務卓の前に背の低い卓を間に向かい合わせに置かれた、応接用の長椅子の一つを掌で指し示した。


 アルフィーナは動けない。


「殿下」

 エトムントに声をかけられた。翠色の瞳がこちらを見つめている。

「お入り下さい」

「ああ」

 アルフィーナはぎこちなく頷き、部屋の中に入った。そのまま歩いて、ユストゥスに勧められた方の長椅子に座る。

 執務卓を回りこんでユストゥスがこちらにやってきて、向かいの椅子に座った。


「失礼いたします」

 それを見届けて、エトムントは部屋を出ていった。


 ユストゥスと二人きりで向き合って座っていた。

 アルフィーナは気まずさを感じて、脚の上で組んだ両手に視線を落とした。


「喉は乾いてないか? 葡萄酒であればすぐに用意できるが」

「いや、大丈夫だ。気にしなくていい」

 当たり障りのない幼馴染からの問いかけに、首を振った。

「そうか、ならいいが」

 独り言のように言って幼馴染が黙りこむ。しばらく経って彼が口を開いた。


「アレクシスを使いにやってすまなかった。巫王様からお言葉を授かったのは俺だ。俺が直接いくべきだとは思ったんだが、この時期は兵の入れ替えがある。仕事を放り出してお前のところに行くこともできなくて」

 心底申し訳なさそうな言いぶりに、アルフィーナは顔を上げた。

 目が合うと、ユストゥスが苦笑した。人好きのするその笑みは、昔と変わらなかった。


「士官候補生の数は限られているし、新しく入っても精々数人だ。士官候補生の方はそれほどでもないんだが、兵となるとな。兵は三年の約束で各地の平民から徴用しているが、今の時期になると任期が切れる。入れ替わりで新しい兵も入ってくるが、そうなると人員の再編成や新兵の教育やらいろいろと必要になって、決済の書類やら大小の揉め事、それに相談事にといろいろ舞いこんでくる。今の時期は師団長がいないと近衛師団の仕事が滞る」

「毎年のことなのに上がいないと仕事が回らないなんて、仕事の計画と配分に失敗しているだけ、お前が無能なだけではないか」

 アルフィーナは言いながら、尊大見えるように、わざとらしくゆっくりとした動作で背もたれに身体を預け脚を組んだ。

 その様に、ユストゥス目を大きく見開いてから、声をたてて笑った。


「相変わらず手厳しいな。その様子だとアレクシスとは上手くいかなかっただろう。道中どうした?」

「横であれこれうるさくてたまらない。途中で置いてきた」

 ユストゥスがアレクシスにアルフィーナを守り王都へ無事に連れて来いと言った意図については、分かっているつもりだった。


 エーファからの追っ手がかかると予測したユストゥスは、アレクシス一人ではエーファの追っ手を退けるには心許ないが、アルフィーナであれば、追っ手を退け王都までたどり着けると踏んでいたに違いない。

 アルフィーナに守ってもらえと言われて、あの少年が素直に従ったとは思えない。代わりにアルフィーナの護衛を任せることで、アルフィーナから離れないようにしたかったのだろう。


 アレクシスを一人にしたことは、ユストゥスに対し申し訳なく思っていたが、素直に謝るのは気恥ずかしくて、アルフィーナは長椅子の背もたれに両手を回すと横を向いた。


「やはりな」

 ユストゥスが笑った。

「アレクにお前の相手は荷が勝ちすぎるだろうし、お前も子供の相手が得意な性格ではないだろう」

「どういう意味だ?」

 アルフィーナは、ユストゥスのことを軽く睨みつけた。だが、幼い頃から共に育った彼は、アルフィーナが多少感情をぶつけたところで動じない。


「そのままの意味さ」

 彼は面白そうに笑って言った。

「お前とアレクでは、相性が良くない」

「あいつが生意気で鼻持ちならないのは、テオドールとお前の教育の責任ではないのか」

「親父と俺のせいにするのは勝手だが、お前だって親父と俺に育ててられたようなものだろう。だとしたら、お前もアレクと同じということになるな」

 ふん、と鼻を鳴らして、アルフィーナは横を向いた。


 五つの時、それまで暮らしていた屋敷を連れ出されたアルフィーナは、アイゼンフート家に預けられた。それは巫王の指示によるものだったという。以来、三つ歳上だったユストゥスとは兄弟のように育ったが、年の離れたアレクシスとの関係は希薄だった。


「それはともかく」

 ユストゥスの真面目な声にアルフィーナは、背もたれに回していた両手を下ろし脚の上でに組みながら、ユストゥスの方をむいた。


「お前と一緒でないなら、アレクが刺客に襲われるようなこともないだろう。巫王様からはお前が王都に着き次第、神殿に連れてくるように言われている。旅を終えて疲れてるところ早速で悪いんだが、今晩俺とともに神殿へ行って欲しい。構わないだろうか」

「ああ」

 アルフィーナは頷いた。

 ユストゥスはすまないなと笑い、ロラが、とアイゼンフート家の王都の屋敷の侍女頭の名前を口にした。


「お前が戻って来るのを楽しみにしていた。俺はまだ仕事がある。夜までには屋敷に戻るつもりだ。先に行って待っていてくれないか」

「分かった」

「それではまた後で」

「ああ」

 アルフィーナは頷いて、ユストゥスの執務室を後にした。

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