「そなた、二日前、アルフィーナが王都に入ったことは知っておるか」

 豪奢な長椅子に腰掛けた主人が言った。

「はい。存じております」

 グイードは片膝をつき、面を伏せたまま言った。


 女の身につけた裳裾スカートは大きくふわりと広がっている。長椅子から床に流れ落ちた布端が、グイードの視界の隅に見えていた。

 女は苛ついているのか、裳裾スカートの中にあるつま先で、しきりに床を叩いていた。


「なぜアルフィーナが生きている。彼奴のことなら任せておけと手下を連れて、王都を出て行ったのはそなたではなかったか?」

 そんなこと言ってはいない。アルフィーナに対し五人では少な過ぎると言ったのだ。


 だが、それだけの人数がいるのにたった一人を倒せないのかとグイードのことを嘲笑し、数を増やすことを許さなかったのはエーファだった。


 そして、少ない手勢ではアルフィーナを倒すことはできなかった。

 復讐は果たさなければ意味がない。またの機会にと、グイードはアルフィーナの事を諦め主人の下に戻ってきたのだが、女の頭の中では自信満々に出て行ったグイードが、アルフィーナの殺害に失敗して戻ってきたことになっているらしかった。


「そなたとは別に三人の刺客を送ったがそれは失敗するし、そなたはアルフィーナ少し怪我をさせられたくらいでおめおめと戻ってくるし、所詮は金で雇った者どもだな。本にわらわには信頼して事を任せられる人間がおらぬ」

 女は肘掛に寄りかかり、芝居がかった動作で嘆いた。


 アルフィーナを害する、その点に関してのみ女と考えが一致したから、グイードは今ここにいるだけだ。女に金で雇われた気も、女に忠誠をつくす気もない。

 他の者たちはただ金払いがいいからとエーファに与しているだけだ。

 そんな者たちしか集められなかったのは、エーファに人を従わせるだけの器量がないのが原因ではないかと、グイードは胸の中で毒づいた。


「まあよい」

 長椅子の上に姿勢を正しながら、エーファが言った。

「アルフィーナはアイゼンフート家に滞在しているらしい。アイゼンフート家にはそう簡単に手のものを忍びこませられない。今は奴を害するのは難しい。だが、ディーデリヒを王位につけると言うのなら他に手はある」

 策略を巡らす相手をアルフィーナから変えるということだ。それではグイードの目的は果たせない。

 グイードは顔を上げた。

 エーファと目があった。

 エーファがにやりとり微笑んだ。


「王はみこ王が指名するもの。だが巫王はまた次の王を指名しておらぬ。巫王には王族の者がなると決まっておる。今の巫王がいなくなれば、次の巫王は誰になると思う?」

「イレーネ殿下でしょうか」

「そう。今神殿にいる王族のみこは我が娘のイレーネのみ。イレーネは優しい子じゃ、わらわの願いを聞き届けディートリヒを王に指名するだろう」

 エーファが含み笑いを浮かべた。


「それに神殿では我が妹のカトリナが、イレーネの侍女として勤めている。カトリナは姉思いの妹、わらわのためであれば喜んで手をかすだろう。ここまで言えば、いくら察しの悪いそなたでもわらわが何を言いたいのか分かるだろう」

「それは……」

 グイードは言いよどんだ。

 エーファは巫王の殺害をほのめかしているのだ。

 月の女神のこの世における代理人である巫王を殺害するのは、月の女神を弑するのと同じ、王族殺し以上の大罪だ。

 七年前のあの日、何としてでも仇を取るとフィネの亡骸を前に誓った。そのためであれば巫王殺しでもなんでも進んでするが、巫王を殺してもグイードの目標は達せられない。

 グイードはわずかに眉を寄せた。


「もちろんそなたの望みは分かっておる。アルフィーナ命であろう。ディーデリヒが王となれば、適当な罪を被せてアルフィーナを捕らえるなど簡単なこと。そなたは今までわらわを満足させることはできなかったが、そなたがわらわのために献身したのは事実じゃ。わらわは使用人思いの主人ゆえ、その時にはそなたにアルフィーナの身柄を渡し、そなたの自由にさせると約束しよう。だが、それまでにはまだしばらく時が必要だ。時には辛抱することも肝心ぞ。今回失敗したが、そなたがわらわの為に働いたのは事実なのだから、いずれ褒美をやらぬわけにはいくまいて」

 エーファは頤を引き上げ、朱を引いた唇をにやりとあげて微笑んだ。

「わらわがカトリナとの仲立ちはするゆえ、後はそなたにまかせるぞ」

「はい」

 頷きながら、グイードは内心ため息をついた。

 エーファに巫を殺すための具体的な方策はない。思いつきで言っただけなのだ。

 どうやって実行に移すかはグイードが考えねばならない。

 それに不平や不満を言っても、女は聴く耳を持たないだろう。

 グイードは不承知ながら、とりあえず了承の意を伝えるため頭を下げた。





 男がわずかな衣擦れの音だけをさせて、部屋を出て行った。エーファは長椅子の肘掛に腕を置き、大きくため息をついた。

 ふと目をやると肘掛に貼られた豪奢な織布の上に置かれた自分の手が目に入った。

 侍女たちに毎朝毎晩、入念に香油を塗らせよく手入れされた手は白く美しい。

 だがそれも、歳の割には、と前置きがつく。


 娘の時代のような肌理の細やかさは失われて久しいし、遠目には気づかないほどだが、手の甲をよく見れば薄茶色の染みが、肌の奥から表へ薄っすらと浮かび上がってこようとしていた。指の関節部分にある皺は、昔と比べれば確実に深くなっている。


 老いは、徐々に徐々にではあるが、エーファを侵食していた。


 娘の頃のエーファは美しかった。

 月光で染め抜いたかのような白銀色の髪に琥珀色の瞳、白く透き通る肌に真っ赤に色づいた唇。


 清楚で可憐な様のエーファを前にすれば、この世のどんな美女にも勝ると言われる月の女神に仕える月の乙女たちもと恥じらうに違いないと、皆が口をそろえて言った。


「陛下も褒めてくださられた」

 エーファは呟いた。


 エーファが国王と出逢ったったのは、初めて訪れた王宮の舞踏会でだった。

 サリアが死に、アルフィーナ王都から追い払われてほどなくしてからのことだったと記憶している。


 王はこの大国を治めるに相応しく、威風堂々とした人物だった。峻厳さと内から溢れる自信が絶妙に入り混じった佇まいは、自然と人の目を惹きつけた。


 広間に入ってきた王の凛々しい立ち姿に、エーファは一目で恋をした。


 最初に声をかけてきたのは、王の方だった。

 挨拶をしにいく父に従い、玉座に座る王の下へ行った。


 王は父と二言三言当たり障りのない儀礼的な言葉を交わした後、エーファのことを見て、美しい、とたった一言呟いた。

 それから王はエーファのことをじっと見つめた。


 あの、肉食獣が狙いを定めた獲物を取り逃がすまいとするかのような鋭い視線には、男の欲望が密かに混じっていたのだと今ならわかる。

 だが、そんなことを知らないまだ初心だったエーファは、異性にじっと見られることが恥ずかしくて、頰を真っ赤に染めて顔をふせた。


 それからはあっという間だった。


 宴が終わり、一緒に来た父と兄さんとともに馬車に乗ろうとしたところで、王宮の侍従が父にそっと耳打ちした。父は驚き、ついで満面の笑みを浮かべると、エーファのことを呼んで、親愛と少しのいたわりを込めて、エーファの体を軽く抱き、エーファの華奢な肩に手を置いて体を離した。


「お父様?」

 エーファは父の顔を見上げて、首を傾げた。

「陛下がお前をお望みだそうだ」

 エーファは父が言ったことが、一瞬理解できなかった。

 父の顔を見つめて少し考え、意味を理解する。


 今夜エーファは、王の手によって女になる。


 かっと頭に血が上り、恥ずかしさと不安がエーファの心を一杯にした。

 顔を真っ赤になった顔を隠すように、エーファはうつむいた。


「何も怖がることはない。じっとして、全て陛下にお任せすれば大丈夫だ」

 エーファの肩を軽くなでて父が言った。

 エーファは顔を上げた

 父が笑いかけていた。

 その時はじめて、エーファは自分の脚が小刻みに震えているのに気づいた。


 それからのことはよく覚えていない。

 侍従に連れられ王の寝室まで行き、そこで一晩を過ごした。


 明け方、痛みと疲れの中でわずかに意識が覚醒した。

 その時王が、エーファは白銀色の髪を手に取り、とても愛おしそうに口づけをしていたのを覚えている。


 それからエーファは王宮に部屋を与えられ、そこで生活するようになった。

 そして数えきれぬほど、王の褥に呼ばれたが、イレーネを産んでからは、夜、王に呼ばれることがなくなり、エーファは子どもたちとともに実家に帰された。


 子どもたちは王族として認められたが、エーファが王妃の座につくことはなかった。

 それはきっと、子を産み歳を経て、エーファから、王の愛した少女の可憐さがなくなったからなのだとエーファは思っている。


 ならばせめて。


 若さとともに失った寵愛の代わりに、息子であるディーデリヒを王位につけ、国母として絶対的な権力を持って王宮に君臨したいとエーファは願っていた。

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