Calling your name.
わたしは馬鹿な魔女。
愚かなことだと知っていたのに、あなたのことを愛してしまった。
人よりずっと長く生きる私が、あなたと生きられる筈なかったのに。
* * *
涙は枯れない。何日こうしているのか、もう忘れてしまったわ。
少し前から、村人は戸を叩かなくなった。
薬を作らなきゃ。災害を防がなきゃ。
それが私の役目なのに、身体は少しも言うことを聞かないの。
これであなたが愛したこの村まで失ってしまったら、私、後悔してもしきれないのに。
胸にぽっかりと空いた穴からすべてが流れ落ちてしまうようで、なんにもすることができないの。
ああ、どうしたらこの涙は止まるのかしら。
やっぱり、愛してはいけなかったのかしら。
「酷い顔ですね、バーベナ」
私の名前を呼ぶ声がした。ひどく久しぶりに感じたわ。
「……どなた?」
私の声は掠れている。あぁ、あなたが見たら悲しむかしら。
そこにいたのは、真っ黒な服を着た一人の男。扉にはしっかり鍵をしていたのに。彼は魔法使い?
「僕はしがない魔法使いです。恋に堕ちて悲しむ魔女を、助けているのですよ」
とても優しい声だったわ。それに、それは今私が一番望んでいること。
「助けてくれる? あなたが? どうやって?」
この悲しみを癒すことなんて出来るのかしら?彼の言うとおり、私は恋に堕ちてしまった。知ってしまったら、もう戻れないのに。
「忘却の魔法です」
彼は優しく微笑んだわ。
「あなたが愛した人を呼ぶ度、愛した人の記憶を少しずつ失っていく。知る前に戻れば、悲しむこともないでしょう?」
知る前に戻る。恋に堕ちたことを、忘れる。
何故かしら。それが、とても魅力的な言葉に感じるわ。
確かに、知る前に戻れば私はいつもの私になる。あなたが愛した村を守れる。これ以上失わずに済む?
「……お願い。その魔法を、私にかけてちょうだい」
泣き腫らした目で頼むと、彼は笑って頷いた。
「ええ、いいですよ」
不思議な感覚が、私を包む。
「〇〇〇」
ひとこと、私はあなたの名前を呼んだ。
* * *
……あぁ、あなたが死んでしまった。私の薬でも、あなたの病気は治せなかった。
あなたを失って、私はどうやって生きればいいの?
……そうだわ、あなたのお墓を建てなくちゃ。こんな森の奥じゃなくて、もっと綺麗なところ。あなたとよく行った、あの夕日の見える花畑がいいかしら。
……どうして? もう、お墓があるわ。あなたの名前が彫ってある、石造りのお墓が。
誰かが作ったの? でも、誰が? あなたは村を出てから、人にはほとんど会ってないのに……。
……もしかして、彼の忘却の魔法?
私、あなたのお墓を建てたことを忘れたの?
すごいわ、本当に忘れるなんて。これで、この悲しみも癒えてくれる?
「〇〇〇」
私は、もう一度あなたの名前を呼んだ。
* * *
……どうして? あなたがいないわ。病気で動けないのに。一体どこへ行ってしまったの?
家にはいない。あなたはここに来てから一度も村に訪れていないから、森の中?
走っても走っても、いくら探しても、あなたはいない。
一度家に戻って、探し物の魔法をした方がいいかしら。
なぜなの? 魔法の結果にも出ないなんて。
魔法から隠れるには魔法が必要なのに。あなたは魔法使いじゃないわ。
もしかして、他の魔女にさらわれた?でもどうして?
とにかく、森の中以外も探さなきゃ。
……どうして、どうして、あなたのお墓があるの?
あなたは病気なだけで、まだ死んでいないわ。
でも、お墓に備えられた指輪は、あなたと私のペアリング。供えられた花も、あなたが好きな花。花にかけられた生命の凍結の魔法は、私のもの。
……あなたは死んでいるの?でもどうして、私はそれを知らな…
……忘却の、魔法?
あの魔法で、あなたが死んだことを忘れたの?
……私、毎日、こんなに不安な思いをするの?
……いいえ、でも、これもあなたのため。村を守るため。失わないため。
「〇〇〇」
あなたの名前を、呼んだ。
* * *
あなたがいないわ。森に出掛けたの? でもそうしたら、私にひとこと言うはずなのに。
心配だわ。あなたは平気だと言うけど、もうそんなに若くはないのに。
出会ってから半世紀。一緒にいられるのも、あと半分?
……いいえ。考えるのはよして、あなたのことを探さなきゃ。
あら? 机の上にあるメモは何かしら。
……忘却の魔法?夕日の見える花畑?
……どういうこと? ……私は、忘却の魔法であなたのことを忘れている?
確かに、私は彼に魔法をかけるように頼んだわ。でも、どうしてだったかしら? 私、あなたのことを忘れたくなんかないわ。夕日の見える花畑? そこにヒントがあるの?
……どうして、あなたのお墓があるの?
……あなたは、死んでいるの?
……それを忘れるために、私は忘却の魔法をかけてもらったの?
嫌よ。どんなに苦しくても、辛くても、あなたの事を忘れるなんて。そんなの、失うより辛いわ。
嫌よ。もう忘れたくない。もう、あなたの名前は口にしない。
忘れたことを、全部メモに書いて。もう忘れないようにしなきゃ。
* * *
……どうして? あなたがいないわ。
……メモ?……あなたが、死んでいる?
どうして? なんで、どういうことなの?
忘却の魔法? 私、記憶を失ってるの?
待って。でも、昨日はあなたが五十歳の時までの記憶を覚えていたんでしょう?
名前を口にしていないのに、どうしてこれ以上失うの?
彼は、確か…
『愛した人を呼ぶ度、愛した人の記憶を失っていく』
……それが、心の中で呼んだことでも?
……それが、名前ではなく“あなた”でも?
私は、記憶を失ってしまうの?
忘れてしまうの?
……嫌よ。駄目、これ以上は駄目。
考えないようにしなきゃ。これ以上失わないように。そうだわ、薬を作って、気を紛らわしましょう。
考えては駄目。あなたのことを忘れてしまう。失ってしまう。これ以上は、お願い、お願いだから。
あなたのことを考えては駄目。
* * *
「バーベナ、君のことを愛しているんだ」
目の前にいるのは、私が守る村の人。この人と話すのは楽しいわ。でも、それは駄目。
「ごめんなさい、私恋愛はしないって決めてるの」
魔女は人よりずっと長く生きる。恋に堕ちたら、別れが苦しくなる。
落ち込みながら去っていくこの人に、もう一度ごめんなさいと告げる。
心が痛いわ。私がこの村と関わっていなければ、この人を悲しませずに済んだのかしら。……あら? でも私、どうしてこの村を守っているの……?
……私は、誰かを愛していたわ。でもそれが誰なのか、今では少しも思い出せない。
忘却の魔法を恐れて意図的に考えないようにしていたら、愛していた、という記憶だけ残して、あとはすべて忘れてしまったの。
寂しいけれど、その記憶だけ残ったなら、まだいいわ。
黒い服の彼は、きっと悪魔だったのでしょう。
私も、自分が滑稽だと思うわ。
でも、村を失わずに済んだのは少しだけ感謝してあげる。
あと少し私が悲しみ続けていたら、この森すら巻き込むほどの大きな災害が起こっていたから。
……一緒に消えてしまうのも、悪くはなかったかもしれないけれど。
* * *
「……へぇ、残酷なことするなぁ。仮にも愛した女だろ?」
大きな鎌を持った黒服の同僚が、僕に呆れた顔をした。
「あはは、僕も彼女に忘れられるのはかなりこたえたよ。まぁ、この痛みが代償だと思って頑張るさ」
それに苦笑して、僕は自分の胸をトンと叩く。
あの泣き顔を見る度に心が痛んだ。でも、後悔はしていなかった。
「代償は三百年の労働だけどな。しっかしお前もよく考えたよなぁ、こうして死神として働き続けてれば、愛する魔女をいつまでも見守ってられるーとか」
「まぁ万年人手不足らしいし、新人が増えた上に大災害で仕事が増えるのも防げたって考えるなら、向こうも一石二鳥だったんじゃないかな?」
ここに来た日。今後死ぬ人を記すノートをうっかり読んでしまった僕が取った行動は、まぁ一つだった。
冥府の湖から、現世の様子が映る。
バーベナは、今日もあの森にいた。僕の愛した村を、守ってくれている。
「ほら、仕事だ。行くぞ」
「はいはい」
黒い服を翻し、重い鎌を担ぎ直して、僕は同僚の背を追った。
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