嫉妬

 9月に入ってから、だいぶ陽が和らいで来た。吹いてくる風ももう生温くはない。幾分か憂いを含んでいるように感じる。

 そんな中、祐介は一人汗ばんでいた。暇を持て余していた孫のカノンを公園に連れ出してきたのだが、お転婆な彼女を追いかけるのは60も半ば近くなった身体には結構堪える。俺もだいぶ衰えたな…と汗を拭いながら苦笑する。サチが見たら何と言うだろう。

 妻であるサチは祐介の2つ歳下だ。彼女もまた60を過ぎた。シワが増えたのは致し方ない。だが、それもまた、たくさんあるサチの魅力の1つに加わったと祐介は思っていた。祐介は心の底からサチを愛していた。出会った日から現在までそれは変わらない。


 サチとは幼馴染だ。お互いの家は200mも離れていなかった。サチが4歳の時にサチの父親が事故で亡くなり、母子二人となったサチの家族が祐介の実家近くのアパートに越して来た。今となってはそのアパートはもうない。祐介の実家も、息子のアキトが産まれた時に2世帯住宅として建て替えた。

 サチと出会った時の事を、祐介は鮮明に覚えている。

 母親との買い物帰りに、トラックから引っ越しの荷物を降ろしていたサチの親子と鉢合わせした。母親同士で自己紹介が始まり、サチの母親は、話好きな祐介の母親のターゲットになってしまった。

 サチは青い生地に白い花柄のワンピースを着けていた。ストレートの黒髪を肩先まで伸ばし、横分けした前髪を赤いピンで留めている。恥ずかしそうに母親の後ろに立ち、こちらを見ていたサチに、祐介はこそばゆい気分になった。あれが初恋と言うのだろう。

 サチの高校の卒業式の日に想いを伝えた。サチは黙って頷いた。言葉は無かったが、ほんのり染まったサチの頬が祐介への気持ちを表していると思うと、喜びで心が波打った。サチの真っ直ぐでサラサラな黒髪や、黒目がちで印象的な目、笑うと目の下に出来るエクボ、透き通るような白い肌。それらを指で触れる度に、祐介は世界中の幸せを独り占めしているかのような気持ちになった。


 滑り台の向こう側からカノンが呼んでいる。

「ジィジ!早くこっちに来て!」

 やれやれ、と祐介は腰掛けていたベンチから立ち上がり歩き出す。

 その脇を風が通り抜けた。自転車に乗った少年だった。ビックリして立ち止まると、その自転車も止まった。顔だけでこちらに振り向く。カノンより少しだけ歳上だろうか。

「すみません、急いでて。どこかぶつかりましたか?」

 少年が大人じみた丁寧な言葉で祐介に謝る。

「いやいや、どこもぶつけとらんよ。少し驚いただけだ。」

 祐介が応えると、その少年は笑顔で軽く会釈して前を向いた。その姿に祐介は既視感を覚えた。タレ目がちな目、茶色かかったフワフワな髪の毛…まさかな。昔の記憶が蘇る。忘れたくても忘れられない記憶。

 立ち止まったままその少年が去っていくのを見送っていると、カノンが駆け寄ってきた。

「ジィジ!ショータ君と何話してたの?」

 目がキラキラと輝いている。カノンは、出会った頃のサチにどことなく似ている。サチはこんなにお転婆ではなかったが。

「ショータ君と言うのか、あの子。」

「そうだよ!ショータ君。カテーのジジョーでこっちに来てるんだって。」

「へぇ。家庭の事情??」

「そう!カテーのジジョーだって。」

 そう言って、カノンはまた走り出した。それを目で追いながら、しかし祐介の心は別の場所へ向いていた。


 二人を見たのは偶然だった。その瞬間、祐介の視界が揺れた。

 そこに居たのは、祐介の知らないサチだった。あんな風に無邪気に笑うサチを祐介は初めて見た。祐介の前でもサチはよく笑う。だが、その笑顔とは全く別の顔だった。

 そんなサチの横には、長い手足を大袈裟に動かして話す金髪の男が居た。祐介の位置からは、遠過ぎて話している内容までは分からない。だが、ふたりが心底楽しんでいる様子は痛いほど良く分かった。

 最近、サチのバッグに付けられているキーホルダー。編み込まれた革の先に青いガラス玉が付いているそれは、出会った時にサチが着けていたワンピースを連想させた。祐介は、ワイルドな感じのそのキーホルダーを、サチの好みではなさそうだと思った。多少の違和感を感じながら、「綺麗だね、それ」と祐介が言うと、「友達に貰ったの」とサチは柔らかく笑った。

 それは、今、サチの隣に居るあの男から貰ったものだ。

 そう確信した祐介は、黙ってその場を離れた。


 シャツの胸ポケットに入れたスマホが鳴った。きっとサチだ。画面を見ずとも分かる。会話の内容すら分かる気がする。帰宅時間の確認と、帰りに近くのコンビニでプリンを買って来てとのおねだりだろう。サチが最近ハマっているものはコンビニデザートだ。

「もしもし、あなた?帰りは何時頃になりそうですか?」

「もうすぐ帰るよ。あと30分が体力の限界かな?」

 電波に乗ってサチの笑い声が聞こえる。

「あなた。疲れているところすみませんが、帰りに…。」

 ほら来た。思わず祐介は笑う。

「プリンだろ?買って帰るよ。何なら全部買い占めて来ようか?」

 祐介のからかいに、サチが言い返す。

「そんなには食べられません!」

 むくれた顔が目に浮かぶ。

 祐介は笑いながら通話の終了ボタンを押した。


 本当は医師国家試験に受かってからプロポーズする予定だった。だが、祐介は見てしまった。気が焦る。サチを誰にも渡したくない。しかし学生の祐介にはどうにもならない。心がザワザワする。

 そんな時に、サチの母親が病魔に襲われた。父親の診断だと卒業まで持ちそうにない。これだ!と祐介は思った。サチの母親に花嫁姿を見せる、という名目でサチとの結婚を早める事ができる。祐介は父親にすがった。

 実は、祐介は脳神経外科に興味があった。だが、それでは家業を継げない。その事で父親と口論になる事もあった。だが、今となっては、それはもうどうでも良い。サチを側に置いておく事が出来るのであれば、祐介はどんな境遇も喜んで受け入れられる。

 婦人科に進み家業を継ぐ。これを条件に、両親にサチとの学生結婚を認めてもらった。このことをサチには絶対に内緒にする約束も取り付けた。元々サチを気に入っていた両親は、祐介の提案をすんなり受け入れた。

 こうして祐介はサチと結婚した。


 スマホを胸ポケットに戻し、視線をカノンが先程まで居たブランコの方に移す。が、見当たらない。慌てて周辺を見渡すと、祐介から少し離れた芝生の上に座っているカノンが見えた。何やら楽しそうに笑っている。その横には、先程の少年が居た。身振り手振りでカノンに話しかけている。

 祐介の視界が揺れる。カノンとショータが、サチとあの男に重なる。公園の背景もあの時のあの場所に飛んだ。

「カノン!帰るぞ!!」

 祐介は思わず大きな声をあげた。あの時もこうすれば良かった。サチの名前を叫べば良かったのだ。「サチ!帰るぞ!!」と。そうすれば、こんなに長い間引きずる事はなかったかもしれない。そのせいで、サチを失う事になったとしてもだ。

 カノンはショータに「バイバイ」と手を振りながら、祐介の所に走ってきた。その小さな手をしっかりと握る。

「ジィジ?」

 カノンが不思議そうに見上げてくる。俺は今、どんな顔をしているのだろう。祐介にはカノンを見やる事は出来なかった。

 手を引いてしばらく歩いた後、祐介は一つ大きく深呼吸をした。

 前を向いたまま、出来るだけいつもの調子で言う。

「バァバ様から、プリンを買って来いという指令が下ったぞ。カノン姫も食べるかい?」

「食べるー!」

 元気な明るい声に、祐介にも笑顔が戻って来た。

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