葛藤
アキトは空港にいた。
手には沖縄行きのチケットがある。病院から直接来たため、荷物は背中のリュックひとつだけだ。
ジーンズの後ろのポケットに入れた携帯電話がなった。画面には「母さん」と表示されている。躊躇った末、通話ボタンを押した。
「もしもし、アキト?」
年齢の割には若く聞こえる母の声がした。
「あなた今どこに居るの?皆さん心配してらっしゃるわよ?」
きっともうアキトがした事は伝わっているのだろう。だが、母の声はいつもの優しい声だった。思わず泣きそうになる。
「…ごめん、母さん。」
それだけ言うのが精一杯だった。終了ボタンを押しそのまま電源を落とした。無音になったそれをしばらく見つめながら、その場に立ち尽くしていたアキトだったが、搭乗案内の放送に背中を押され、沖縄行きの列に並んだ。
アキトは代々続く婦人科医院の孫として産まれた。いずれはその医院を継ぐであろう有能な医師である優しい父と、趣味はガーデニングとお菓子作りという、これまた優しい母。学生結婚をした両親は、友人の間で度々理想の夫婦像として話題に上がるほど、今でも仲の良い夫婦だ。
一般的な家庭より裕福な環境で何の不自由もなく育ったアキトに、付いたニックネームは「坊っちゃん」だった。呼ばれ始めの頃は激しく抵抗したが、後輩や他校の生徒達からも呼ばれるようになった頃に諦めた。それはアキトが研修医となった現在も続いている。
昨夜の勤務はキツかった。日勤帯の診察の後に少し仮眠を取っただけで、そのまま帰宅せずにERの当直に就いた。研修医2年目となると、ひとりで現場を任されることもある。昨夜も当直はアキト一人だった。
発熱や腹痛の患者、持病の発作を起こした患者、酔っ払って転倒した事による裂創の患者。様々な症状の患者に混じって、その患者は来院した。
妊娠8ヶ月の妊婦であった。就寝しようとベッドに上がる際にバランスを崩して転落したというのだ。お腹の痛みもあり張りも認めている。エコーを撮ったところ、特に胎児に影響はなさそうだったが、大事を取って入院を勧めた。だが、彼女は無理だと言った。明日は上の子のお弁当の日なんだそうだ。主人には作れないから、胎児に問題がないのならば帰りたいと主張した。
待合室には診察待ちの患者がまだまだ途切れずにいる。指導医に報告すべきケースかと思われたが、アキトは患者を早く捌きたくて気が焦っていた。何かあったらすぐに救急車を呼ぶ事を約束させ、アキトはその妊婦に帰宅許可を出した。
救急コールが鳴ったのは、ようやく落ち着いた午前3時頃だった。救急隊員から「妊婦が出血し倒れている」との一報をもらった時点で、アキトは嫌な予感がしていた。運ばれて来た患者の顔を見て、その予感が的中した事を確信した。
常位胎盤早期剥離による大量出血だった。指導医も加わり懸命な救命処置が施されたが、東側の窓が明るくなった頃に、アキトはふたり分の死亡診断書を書くことになってしまった。
書いている途中で、アキトの手が震え出した。これまでにも何人かの患者を看取った事はある。しかしそれは、癌末期であったり、事故で即死状態であったりの、医療側からしたら「予測された死」であった。指導医は、「これは事故だ。坊っちゃんのせいじゃない。」と言ってくれたが、アキトには「予防できた死」に思えた。
あの時エコーで剥離箇所を見つけていれば、あの時指導医の指示を仰いでおけば、あの時帰宅許可を出さなせれば…。胎児も妊婦も死なずに済んだかもしれない。今頃は、慣れない手付きでご主人が作った不細工なお弁当の写真を、小さな携帯の画面を通して笑いながら見ていたかもしれない。
死亡確認時の家族の顔が浮かんできた。立ち尽くすご主人と、まだ母親の死を理解できずにキョロキョロしている幼い女の子。手の震えが全身の震えに変わる。
「俺が…殺した。」
心の中だけで呟いたつもりが、実際に声に出てしまった。その瞬間、アキトは医局を飛び出していた。
沖縄を選んだのには意味はなかった。ただ、今いる場所から遠く離れたい…そう思った時に思いついたのが沖縄だっただけだ。
那覇空港に降り立った時、深いため息と共に深呼吸をした。アキトの住んでいる街では、だんだん秋の気配が濃くなり始めていたが、沖縄はまだ夏の匂いがした。オフシーズンに入りかけだからか、思ったより人は少ない。近くにいたレンタカー会社の男性に声をかけ、1台手配してもらった。沖縄には電車はない。幼い頃に家族で旅行に来た事があるので、それくらいは知っていた。それに今のアキトには、ひとりの空間が必要に思えた。
レンタカーを借り、目的地を定めずただ海沿いに走らせる。空港に着いたのが午後をとうに過ぎていたため、そろそろ日の入りに近い。どうせなら長い時間走らせたくて西側のルートにした。海の色が青緑色から、だんだん橙色に変わる。そのうち灰黒色に変わっていくのだろう。それとも南国の海は夜も碧いのだろうか。アキトは、そんな事を思いながら、ある海岸沿いに車を停めた。
運転に集中させていた神経を緩めると、ERでの光景がまた襲ってくる。あの家族は海を見たことがあるだろうか。あの胎児は外の世界を一瞬でも感じれただろうか。
気がつくと辺りはとっくに暗くなっていた。今夜はここで車中泊しようとアキトは決めた。近くで食事を取れる所がないか、車から降りて周辺を見渡す。少し先に飲食店らしき建物が見える。あそこにしよう。アキトはその灯りに向かって歩き出した。
着いてみると、落ち着いた感じの洒落たカクテルバーだった。ちゃんとした食事は期待できそうにない。だが、アキトはそこまで空腹を感じていなかった。他に客は奥のボックス席にひとり居るだけだ。
「いらっしゃい。」
マスターがカウンター越しに挨拶をした。少し迷ってマスターの前に座る。あまり飲まないアキトは、お酒の種類や名前に疎い。
「お任せでお願いしてもいいですか?強いやつ。あと、何か適当につまめる物も。」
「はいよ。」
ぶっきらぼうな言い方だが、悪い気を感じさせない声だった。しばらくしてショートグラスカクテルと数種類のナッツが目の前に置かれた。綺麗な碧い色のカクテルだ。
「なんて言う名前のお酒です?」
「ブルーマルガリータ、だよ。」
「マルガリータ…。女性の名前みたいですね。」
「そうだね。考案者が亡くなった元恋人に向けて作ったと言う説がある。」
「へぇ…。弔いの酒か…ぴったりだな。」
アキトはそう独り言を言って、一口含む。辛口のお酒が喉を熱くし、空っぽの胃にフワッと染み渡る。父親に似てお酒には弱い。一気に酔いそうだ。だが今夜は強いお酒が飲みたかった。
「観光かい?」
マスターがグラスを拭きながら話しかけてきた。何故かアキトは、父親と同年代らしきこの男性に、全てを打ち明けたくなった。旅先の見知らぬ人なら、話してしまっても大丈夫だろう。ポツリポツリと話し始める。
アキトは父に対するコンプレックスの塊だった。頭が良くてスポーツも万能、看護師の間でファンクラブがあるくらいルックスも良い。おまけに性格も優しくて愛妻家ときてる。決断力も経営力もあり、代々続く婦人科医院は、父の代で倍以上に患者数が増えた。そんな父に憧れて、アキトの夢は幼い頃から「お父さんみたいな、格好いいお医者さん」だった。
コンプレックスを抱き始めたのは中学の頃からだ。アキトは、全てにおいて父のように上手く出来なかった。勉強は嫌いではなかったが、成績は中の上くらいだったし、小学1年生から始めたサッカーもなかなか上達することなく、毎試合ベンチウォーマーだった。ルックスだけは、両親の良いとこ取りで近所でも評判の美少年だったが、それは医師を夢見ているアキトにとって何の意味も持たなかった。
両親はアキトの将来に関して何も言わなかった。「アキトの好きなように生きればいい。医師になろうがホームレスになろうが、私達はそれを全力で応援するだけだ。」と優しく笑うだけであった。それもまた、アキトには無言のプレッシャーとなっていた。
何とか医大に合格し、何とか国家試験にも受かった。そして、現在、何とか研修医としてやっている。だが、どんなに頑張ろうと、アキトに自信が付くことはなかった。毎日のように、自分は医師に向いてないのではないか、との思いが強く付きまとっていた。
そこへあの出来事が起こってしまった。人の命を預かる事の重大さを改めて思い知らされた。彼女を診たのが父であったなら死なずに済んだだろう。やはり自分には父のようには成れない。
マスターは聞いているのか聞いていないのか、何か作業をしながら終始黙っていた。別に聞いていなくても良かった。アキトはただ、心の中の淀んだものを外に出したかった。
いつの間にか店の奥に居た客は帰っており、店内はアキトとマスターだけになっていた。全てを話し終えたアキトは、再度ブルーマルガリータを注文した。マスターがシェイカーを振る音が響く。アキトは黙ってそれを見ていた。
空いたグラスに、昼間見た海のような碧い液体が注がれる。
「如何なる人も、あんたの親父さんと同じ人間には成れないよ。」
アキトの方にグラスを寄せながらマスターが言う。いきなり話し始めたマスターに、アキトが驚いて目を向ける。
「親父さんには親父さんの、あんたにはあんたの人生がある。同じ人生を望んでも、それは絶対に叶わんし、だから人には生きる価値があるんじゃないのか?」
父には父の、俺には俺の…酔い始めたアキトの頭の中でその言葉が回る。
「亡くなってしまった人や家族は非常に残念で無念だろう。だが、あんたはもう2度と同じ失敗はしない。そうだろ?」
マスターは傍らに置いてあった自分のグラスを傾けた。
「それは、同じ様に悲しむ人が減るという事だよな。あんたはそれが出来る素敵な仕事をしてるんだ。それは誰にでも出来る事ではない。」
アキトは何も言えずに、マスターを見つめる。
「偉そうに話しすぎたな。すまん。」
マスターはそう言って、アキトの視線から逃げるように振り返り、後ろの棚の掃除を始めた。マスターのブラックジーンズの後ろポケットで何かが揺れている。よく見ると編み込まれた革のキーホルダーのようだ。先に青緑色のガラス玉が付いている。
アキトは吸い込まれるように、マスターの動きに合わせてそれが揺れるのを見ていた。ガラス玉の中に白っぽい模様がある様に見えたが、それが何かはアキトには判らなかった。
「なぁ、そろそろ閉めていいか?」
マスターにそう言われて、アキトはハッと我に返った。お礼を言い、支払いを済ませて外に出る。酔った頬に夜の海風が心地良い。見上げると、もの凄い数の星達が見える。いつの間にかマスターが横にいた。同じ様に星を見上げている。
「良い旅になるといいな。」
柔らかい笑顔でそう言い残し、マスターは店内に戻って行った。海風に少し長めの、カールがかった金髪をなびかせて。
車に戻ったアキトは、リュックから携帯電話を取り出した。電源ボタンを入れる。着信履歴から父の番号を探し出す。たぶん父は、ワンコールも鳴らない内に出るだろう。それが例え診察中であっても。
アキトには、それがまるで目の前で見てるかのように分かり、思わず小さく笑った。
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