蜻蛉玉

@cha-cha

揺動

 サチの心は揺れていた。

 幼馴染の祐介の事は大好きだ。気心は知れているし、自分を飾る事をしなくてもいいから、一緒に居て心地良いしとても楽だ。何より私の事を愛してくれている。

 それだけでサチには充分だったが、頭のいい祐介は、有名大学に現役で合格し、家業の婦人科医院の跡継ぎとして期待されていた。その上、体格にも恵まれており、高校時代には所属していたテニス部のキャプテンを勤め上げた。容姿についても、彼の母親似の人懐こい笑顔は、最近人気のある若手俳優にそっくりだと評判だ。性格もおっとりしていて優しい。

 彼の嫌いな所をあげてみろ、さもないと殺すぞと脅かされても、はい殺してくださいと言うしかない程、祐介はサチにとって完ぺきな恋人であった。強いて言うなら、一度何かに集中してしまうと周りが見えなくなる事であろうか。でもそれもまた、彼の魅力としてサチの目には映っていた。

 にも関わらず、サチの心は揺れている。理由はトモの存在だ。


 トモと出会ったのは偶然だった。友達と出掛けた夕暮れ時の帰り道、自宅近くの公園の前を通り過ぎようとした時に声を掛けられた。

「あの。何か落としましたよ?」

 遠慮がちの声に振り返ると、カールのかかった長めの髪を、金色に染めた男性がいた。年齢はサチより少し上だろうか。サチが露骨に警戒した表情をしたためか、その男性は慌てて片手を前に差し出して、広げた。

「これ、君の方から転がってきたんだけど。」

 男性の手のひらの上には、よくあるビー玉より少し大きめのガラス玉があった。南国の海の色のような爽やかな青緑の中に、ダリアらしき小さな白い花の模様が封入されおり、その美しさにサチは一瞬時を忘れ、見入った。

「ねえ、君のものなの?」

 男性に再度話しかけられ、我に返ったサチは無言のまま弱々しく首を振った。出来れば「うん」と答え、自分の物にしてしまいたい。そう思うほど、そのガラス玉は魅力的だったが、真面目な性格のサチにはそれは出来なかった。

 サチが首を振って所有権を放棄したのを確認した男性は、

「じゃあ俺が貰っちゃおう」

 と、無造作にズボンのポケットにそれをねじ込んだ。サチは首を縦に振らなかった事を後悔しつつ、男性に向かって軽く会釈し自宅への帰路に着いた。

 その出来事を忘れかけていた数日後。先日と同じ時間の同じ場所で、サチはその男性を見かけた。公園の入り口の車止めに背中を丸めながら腰掛け、ゆったりとタバコを吸っている。人目を引く金髪から、すぐにあの男性だと分かったが、サチは黙って通り過ぎることにした。バッグから手帳を取り出し、それを広げながら歩く。確認する予定は何も無いのに。

「ねぇ、君、こないだの子だよね?」

 男性の前を通り過ぎようとしたまさにその時、いきなり話しかけられ、サチは思わずビクッと立ち止まってしまった。

「そんなに驚かなくていいじゃないか。何もしないって。」

 男性はケタケタと笑っている。サチは予想以上に驚いてしまった恥ずかしさと、それを笑われた事に少しムッとし振り返らずに歩き出した。するとその男性も慌てて付いてきた。

「ごめん、待って。君を待ってたんだ。待ってってば!」

 男性は足早になったサチに簡単に追いつき腕を掴んだ。

「何の用ですか?ナンパならお断りします。」

 キッと睨みながら振り返ったサチの前に、あのガラス玉が揺れていた。元々開いていたという穴に革紐が通されており、その革紐は器用に編み込まれている。編み込まれた先には金具が取り付けられ、単なるガラス玉だったそれは、まるで元々この為に作られたかのようなキーホルダーへと仕上がっていた。

「意外と良く出来てるだろ?これ、君にやるよ。」

 そう言って、男性は無理やりサチの手にそれを握らせ、サチの家と逆の方向に走って行ってしまった。訳が分からず、立ち尽くしたままその背中を見送っていると、男性が急に振り返った。サチに向かって大きく手を振っている。

「俺、トモ!また来るから、その時はお話くらいさせてね!」

 トモのふわふわの金髪が夕陽に照らされていた。サチはそれを、自分の物となった手の中のガラス玉よりも綺麗だと思って見ていた。


 それからトモは何日か置きに、同じ時間の同じ場所でサチを待つようになった。最初は挨拶だけだったが、次第にお互いの話をするようになり、暗くなるまで話し込む事も増えた。いつしかサチの方がトモを待つようになった。

 トモの話は、これまで真面目に育ってきたサチには全てが新鮮に聞こえ、全てが刺激的だった。サチにとって、トモの生きて来た世界は、存在は知っていたが自分とは絶対交わらないと思っていた異世界だった。それがトモの口から発せられた時、サチはまるで自分が経験したかのような不思議な感覚を味わっていた。トモの話術にはそんな力があった。大げさに動く長い手足、笑うと見える八重歯、ふわふわの金髪から時折覗く左耳のピアス。そのどれもがトモの話を盛り上げ、サチを引き込んでいた。

 話す場所が公園の入り口から別の場所に変わるのに、時間は掛からなかった。公園のベンチ、近くの喫茶店、そのうちトモのアパートにまで上がり込むような仲になっていった。


 サチの心は揺れていた。

 完ぺきな祐介と刺激的なトモ。バッグの持ち手に付けられた、あのガラス玉のように、ふたりの間でゆらゆらと揺れていた。

 幸せで安泰な生活を望むのであれば、祐介を選ぶべきなのは明らかだ。太陽が東から昇り西へ沈むのよりも当たり前に思える。だがサチは、太陽が西から昇るのも見てみたい気がするのだ。トモなら、その方が断然面白い!と笑うだろう。非常識な事もトモに掛れば魅力的に見えた。

 だが、どう考えても現実的ではない。それに、祐介の悲しむ顔をサチは見たくなかった。悲しむような事をしておいて勝手なものだ、としばしば自己嫌悪に陥るが、それでもサチはトモと会うのを止める事は出来なかった。

 トモが「トモとの事はいつでも無かった事にしていいよ」と言う事も、サチを惑わせていた。祐介との生活を選び、たまにトモと会う。理想的に思えたが、そんなに上手く行かない事は、サチ自身が良く分かっていた。


 そんな中、サチの母親が乳癌に侵されており、すでに末期状態である事が判明した。リンパ節への転移も認め余命はもって数カ月だろう、と主治医である祐介の父親が説明してくれた。サチの父親はすでに他界していたため、母が居なくなれば、ひとりっ子のサチは独りぼっちになってしまう。そうさせたくないと強く願う母親の気持ちはよく分かったし、サチもまた心細かった。

 そんな母娘の様子を見ていた祐介の家族が動く。ふたりともまだ学生だが、病状は卒業まではもたないだろうとの祐介の父親の判断により、学生結婚を勧めて来たのだ。前々からサチと結婚したいと言っていた祐介は、その話にすぐに同意を示した。結婚後は祐介の実家で暮らすことになる。母親の入院先の婦人科医院はすぐ隣りだ。もちろん祐介の父親が最期まで診てくれる。断る理由はサチにはどこにも無かった。


 サチはトモに別れを言えずにいた。今日こそは今日こそはと決意しアパートに向かうが、トモの柔らかくカールした金髪に触れる度、その決意が消える。

 トモを失いたくない。

 サチは強く思ったが、祐介の前に行くとやはり別れなければいけないと言う気持ちが浮上してくる。どうしていいのか分からなくなったサチは、トモの腕の中で泣くようになってしまった。

「サチ?どうかした?」

 鼻にかかるようなトモの声も、サチは大好きだった。

「何でもないよ。大丈夫。何でもない。」

 そうサチが言うと、決まってトモは、それ以上何も聞かず黙って抱きしめてくれた。タバコの匂いとトモの体臭が混ざる。サチはトモの鼓動を聴きながら目を瞑る。この時間が永遠に続けばいいのにと思いながら。


 いよいよサチと祐介の結納の日が来た。

 その前日、サチはトモのアパートに向かった。あのガラス玉のキーホルダーを返しに行ったのだ。でもサチは、この期に及んでも、トモに面と向かって別れを言える自信が無かった。そこでアパートの郵便受けに置いていく事にした。手紙を添えなくても、トモならこの意味を解ってくれるだろう。置く前に、サチはガラス玉に小さくキスをした。

ーありがとう。ごめんなさい。さようなら。

 トモはサチの家を知らない。サチがここに来なければ、もう2度とトモに会う事はないだろう。サチや祐介の実家はトモの行動範囲外だ。

 振り返らずに行こう。振り返れば、身を切る思いで置いて来たガラス玉を、取りに戻ってしまいそうだ。南国の海の色をしたガラス玉。それを見ながら、いつかサチと行きたいなと、トモが話していた事をふいに思い出す。叶う事は無いと知りながらも、サチはそうねと頷いていた。たぶん、トモも同じ様に思っていただろう。それとも…。

 結納の儀式が滞りなく進行していく。

 厳かな面持ちでそれを見ていた祐介が、ふとサチの方を向いた。目が合うといたずらっぽく微笑みながら顔を寄せてきた。サチの耳元で囁く。

「サチ、愛してるよ。初めて会った時から、これからもずっとずっと。」

 それが、最後に聞いたトモの言葉と同じ事に気付き、サチの目から涙がこぼれた。

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