2-10

◇◇◇


 ヘリで再び自宅に戻った燐慟りんどうはまずドアを開けた時点で違和感に気がつき、侵入者かとすぐさま厳戒態勢をとり刀に手を添えながらキッチンにおどり出たところで、思わず立ち尽くしてしまった。なぜなら──

「あっ!! お帰りなさいませ、燐慟りんどう様!」

 エプロンを身につけた女が、何食わぬ顔で料理をしていたから。

 額に手を当て、深い溜息を吐き出す。それから携帯電話を取り出し、ある人物の電話番号をタップする。数コールの後、相手が出る。

「あの、父上」

『おう、どうした燐慟りんどう

「……なぜ、ユリがいるのですか……?」

 ──西賀さいが ユリ

 代々、さかき家の補佐を務めてきた西賀さいが家の長女で、燐慟りんどうと同い年である。燐慟りんどうが学園に通うことになるまでは、修行の手合わせやガルゼレス討伐に衛生兵として同行してもらっていた。幼い頃から燐慟りんどうとともに過ごしてきたユリとの間には、家族と何ら変わらない絆があると言っても過言ではない。

 ぱっちりと開かれた藍色の瞳に、肩まで伸びた乳白色の柔らかな髪。身長は百五十cmほどと小柄であるが、彼女から繰り出される刀さばきは、燐慟りんどうも感嘆するほどである。

『一応、護衛の命を与えておいた。一人じゃ寂しいと思ったのだが、不要だったか?』

「そういうことは、事前に知らせておいてください……」

『ん? あぁ、そうだ。学園はどうだ?』

 溜息混じりの燐慟りんどうの独白は木煉もくれんには聞こえていなかったようで、話題が切り替わる。

 ──登校初日で、早々に神咲かんざき れんに目をつけられ、加えて同じクラスであること

 ──敵対しているはずの彼から、友達になろうと切り出されたこと

 ──時雨が生きていたこと


 今日一日で起きたことが、一瞬のうちに脳裏をかすめる。

 結局、燐慟りんどうはこう言った。

「いえ、大丈夫です。問題ありません」

『そうか。なら良かった』

「はい」

『お前は強いからな。俺よりも、はるかに』

「……そんなことはありません」

 なんとなく気恥ずかしくなって、手持ち無沙汰な左手で頭をかく。

『道のりは長い上に、お前が想像しているよりもはるかに厳しい。気を抜くなよ、燐慟りんどう

「はい」

 またな、という言葉を最後に、無機質な音声が通話終了を知らせる。携帯電話をしまうと、ユリが笑顔で駆け寄ってきて、

燐慟りんどう様、食事の用意ができました! 入浴もできますが……あっ、それともあたし──」

 くだらない事を言うユリの口元を片手で押さえると、モガモガとくぐもった声が聞こえるが気にしていたらキリがないので無視。

「風呂に入ってくる。飯はそのあとだ」

「承知しました。あっ、あたしと一緒に……」

「入るかッ!!」

 なおも擦り寄ってくるユリを無理矢理振り払い、浴室へと向かう。

 ガルゼレスの血がこびりつき、ところどころ凝固し始めていた制服を脱ぎ捨て、かごに入れる。

 浴室に足を踏み入れればほんのりとラベンダーの香りが鼻腔をくすぐり、燐慟りんどうはその湯に身を浸す。温かい湯が身体の疲れを押し出してくれているようで、肩の力を抜くとほんの少しだが疲れが取れたような気がする。浴槽に身をあずけ、天井を仰ぐ。

 眼を閉じれば、今日の出来事が鮮明に思い出された。

 そういえば明日から実力試験だ、などと思ったが、本気でやるつもりは毛頭なく、早いうちに負けて、れん時雨しぐれの実力のほどをこの眼に焼き付けておきたいと考えていたところだ。

「……ノアは使えねェしな」

 ──ノア

 心への直接的かつ深刻なダメージを負った場合に、身体が自己再生能力で補ったものと考えられており、簡単に言えば超能力である。また、ノアを発現した者は、ノアの操者そうしゃと呼ばれる。しかし、全ての人間が得られるというわけではなく、発現するのはごく稀で、発現したと同時に身体の一部が゙代償゛として失われる。その存在と能力の特異性から、ノアを有しているものは例外なぐノアの方舟はこぶね゛というノアの操者を登録、保護する機関の管理下に置かれる。

 操者の判別は教育機関や病院などの医療施設などで行われ、その際にノスタルジア──操者たちが発する特殊な電磁波のことを指すが、ノアと略されることのほうが多い──を認識できる機器を用いる。もちろん推薦入学試験の時に、燐慟りんどうも検査された。結果は──陰性。面倒くさいことになるくらいなら、と封じ込めたのである。

 ただ、ノアを封じるという行為は能力が使えなくなる上に、かなりの手間と苦痛を伴う。

 父から密偵の命を受けたその日に、燐慟りんどうは封印の儀を施された。全身がバラバラに砕け勝手な方向に駆け出し飛び散っていくような激痛に、三日三晩耐えた。絶えず発されていた叫び声で喉は枯れ、両の手のひらは握りすぎて赤に染まった。父の話によれば、その間ユリはずっと、隣で片時も離れず、看ていてくれていたらしい。滝のように流れ出た汗や、噛み締めた唇に滲んだ血も拭き取ってくれた。痛みで絶叫している時も、『大丈夫、大丈夫です』と言って、手を握ってくれていた。

 そんな物思いにふけりながら、紅獅子あかししが刻まれている左胸をそっと触る。これはノアの封印と同時に、操者であることの証でもある。普段は人工皮膚で覆ってあるが、万が一バレればどんな手を使ってでも国や軍は、燐慟りんどうを保護と銘打って捕まえに来るだろう。それだけは避けなければならない。

「ハッタリ、だよな……?」

 今朝のれんの言葉が思い出される。


『ははっ、そんなにキレるなよ。お前の内の゙ノア゛がけがれるぜ?』


 感情の起伏があまりにも激しいと、ノアは穢れ、操者は感情そのものを失う。振れ幅は個人差があるが、ある一定の基準値を超えたとき、ノアは暴走すると言われている。操者の体内を暴れまわり、記憶と感情のすべてを一掃し消滅するため、二度とそれらが元に戻ることはない。

 しかし、普通あの程度の怒りではノアは穢れない。れんはそれをわかった上で、あえて言ったのだろうか。

 ──謎すぎる

 何を見、何を思い、考えているのか、皆目見当もつかない。

「めんどくせェ……」

 と、曇りガラスのドアの向こうに、黒い影が現れる。

「あの、燐慟りんどう様」

 躊躇ためらいがちに、声が投げかけられる。

「どうした、ユリ」

「その……お身体の方は大丈夫でしょうか? 封印の儀のとき、たいへん苦しそうだったので……」

「大丈夫じゃなかったら、学校行ってねェよ。なにも問題ない、ありがとうな」

 ──嘘だ

 ノアを封印したからといって、ノアそのものがなくなったというわけではない。無理矢理抑えられているノアは時折、息が詰まるような痛みで自身の存在を主張してくる。

 しかし、その言葉を聞いたユリはほっとしたように息を吐き出すと、

「よかった……!! もしかしたら、燐慟りんどう様が死んでしまうんじゃないかって……あたし、心配で…ッ……」

 嗚咽おえつ混じりの声が、耳元で聞こえたような気がした。

「あんな辛そうな燐慟りんどう様を見るのは、もう耐えられません」

「ユリ……」

「……すみません、ご入浴の邪魔を……では、ごゆっくり」

 そう言うとすぐに曇りガラスの影は消え、燐慟りんどうの視界を湯気が覆い隠した。

 それから軽く身体を洗い浴場を後にすると、リビングではすでに料理が並べられていた。

 一方的にユリが話をし、その間にも燐慟りんどうは相槌を打ちつつも、黙々と料理を口に運んだ。

 隣の部屋が空いているというのに『同じ部屋がいいです』と、頑なに離れようとしないユリを自分が寝るはずだったベッドに寝かせ、彼女が眠りに就いたあとで燐慟りんどうはソファーに身を沈めた。

「────ッ……」

 額に拳を押し当て、唇を白くなるほど強く噛み締める。目尻に浮かんだ水滴はソファーに吸い込まれ、跡形もなく消えてなくなった。


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