2-9

 ◇◇◇


 学園から徒歩二十分ほどのところに、高層マンションが立ち並んでいる。オートロック式の入口を通り、エレベーターに乗り込んで十五のボタンを押すと、ゆるゆるとボックスが上昇を始める。

 このマンションは十五階と十六階の二フロアを買収してある。修練できるように、と父が考慮してくれたのだ。部屋は、一人で住むには十分の広さで、荷解きしていないダンボールが、部屋の隅にまとめて積み上がっている。

 燐慟りんどうはカバンを置くと、代わりに百二十cmほどの長細い袋を手に、部屋を出る。中身はさやに包まれた刀だ。

 学園に通うことになるとはいえ、習慣だった修練は怠らないつもりだった。だが燐慟りんどうのそれはただの素振りなどではない。

 ──ガルゼレスの討伐

 十年ほど前から、ガルゼレス討伐の一翼を燐慟りんどうは担ってきた。これまでにゆうに万を越えるガルゼレスを、この手でほうむってきたのだ。

 ガルゼレスとノアの関係はよくわかっておらず、その生態すらも未だに謎が多い。ただ最近は、通常の攻撃──弾丸や爆弾などの物理的攻撃など──がかなり効きにくくなっているという報告が、各地で相次いでいるという。

 ノアを使用してのガルゼレス討伐は少なくとも二人以上で行わなければならず、世界共通の大原則とされている。しかし、今まで燐慟りんどうは一人だった。これからもそうだろうと、自分でも思っている。

 ──仲間は、要らない

 机上の小型イヤホンを右耳につけると、ジジッとノイズが走り、すぐにオペレーターの声が鼓膜を叩く。

燐慟りんどう様。そこから南東に五kmほどのところに、反応ありました。至急討伐をお願いします』

「わかった。すぐ行く」

 木製の扉に手をかけ、そこでまだ制服を着ていることに気づく。

 学園の者に、己の実力の一片でも見せるつもりは毛頭ない。本来は討伐時専用の戦闘服を着用しているのだが、緊急のため着替える時間すらも惜しい──と、そこまで考えて燐慟りんどうは思考を一旦遮断する。学園から正反対の方向であるし、何よりすぐに済ませばいいことだ。

 フロアに出ると、背後でオートロック式の扉が施錠の声を上げる。

 と、再びオペレーター。

『ヘリの手配できました』

 ヘリの移動なら、大幅に時間が短縮できる。すぐさまエレベーターに飛び乗り、屋上のヘリポートへと向かう。

 外では既に、地平線に陽が飲み込まれようとしていた。街の上に黄を交えて、澄み渡った春の空が開けている。

燐慟りんどう様、こちらです」

 プロペラの回転音が、その空に吸い込まれてゆく。速度を重視したために小型となったヘリに乗り込むと、途端に身体を浮遊感が襲う。

「目標までは?」

「三分ほどで着きます」

「わかった」

 目蓋を眼球に覆い被せ、余計な思考と感情を払いのける。走馬灯のように様々な光景が、身体の奥を熱い風とともに突き抜けてゆく。

 ──誰も傷つけさせはしない

 ガルゼレスのせいで、どれだけの人が傷ついたかもしれない。すでに悲しみに呑み込まれてしまっているかもしれない。誰かが悲しむのを、もう見たくはない。何より、あんな思いをするのは自分だけで十分だ、と。そう自分自身に言い聞かせる。

燐慟りんどう様、まもなく到着です」

 ゆっくりと、目蓋まぶたを持ち上げる。飛び込んできたのは、橙一色の空。痛いほどに光が突き刺さり、瞳孔どうこうの収縮が急速に進む。

 ようやく慣れてきた視界の下には、一体のガルゼレス。体長三mほどで、全身はくすんだ茶の剛毛に覆われている。街を見回すその赤い目は恐ろしいほどつり上がり、絶えず口からは涎が溢れており、冷たいアスファルトを濡らす。

 既に住民の避難は住んでいるらしく、誰もいない街を水の上を漂う落ち葉のように彷徨さまよい歩いている。

「猿か。厄介だな」

 皮膚が強靭きょうじん化されただけでなく、知能も発達しているのだ。俊敏しゅんびん性も兼ね備えており、容易な相手ではない──普通の人間にとっての話だが。

機縦手パイロット、もうちょい高度を下げてくれ」

「わかりました」

 地面がせり上がってきた頃を見計らって、刀を手にドアに手をかける。機縦手パイロットが驚いて燐慟りんどうを見たときには彼はすでに飛び降り、下降を始めていた。

 制服がバタバタと風に煽られて、音を立てる。

 落下地点では、猿のガルゼレスがこちらに気がつかないまま、まだ辺りを品定めするように見回している。

 空中で姿勢を立て直し、鞘から刀を引き抜くと、吸い込まれそうなほど荘厳そうごんな刀身があらわになる。

「──茜雫せんな

 ぽとりと雫のように呟いたと同時に、その刀身が茜色の光を纏う。陽炎のように揺らめき、夕陽のそれと重なる。

 そこでようやくガルゼレスが、下降してくる燐慟りんどうに気がついたようで、口を開けるや否や、大地を揺るがすほどの咆哮ほうこうが街中に響き渡る。片手を振り上げ、燐慟りんどうを叩き落とそうとするが、

「──遅ェよ」

 その剛毛な腕ごと、勢いのまま刀を振り抜く。白刃が腕に吸い込まれ、剛毛に埋もれたのは半瞬の間。あっさりと腕を切断すると、止まることを知らぬ刃が左肩から右脇腹までをも斬り裂く。

 いとも簡単に斬り落とされた肉塊が、虚しく地面に転がり落ちる。その断面から思い出したように鮮血が溢れ、あっという間に辺りを血の海に変える。

「ゴガァアアアアアアアアッ──!!!」

 とどろ咆哮ほうこう

 足を踏み出した瞬間、広がり続ける血だまりに足を取られ、ガルゼレスがぐらりと上体を崩す。

 膝を曲げ、着地の衝撃を軽減した燐慟は素早く刀を握り直し、腰を低く落とす。

 さかき流斬刀ざんとう術 六ノ型──

「──紅閃花こうせんか

 チン、と刀を納めた燐慟りんどうを、キョトンとした表情でガルゼレスが見つめる。それから恍惚こうこつな笑みらしきものを浮かべたガルゼレスが、お返しだと言わんばかりに残った左腕を燐慟りんどうの頭上に凄まじい速さで振り下ろす。

 だが、燐慟りんどうは動かない。それどころか、刀を構えすらしない。

 直後、その巨大な双眸そうぼうからは血の涙が滂沱ぼうだと溢れ、振り下ろされたはずだった左腕は、右腕同様肉塊となって燐慟りんどうの頭上に降り注いだ。否、腕だけではない。ガルゼレスそのものが粒子分解されたかのように小さな肉塊となり、地面に小さな山を作った。

「ゴギャ、アァアア…………」

 完全な肉塊と化す直前に絞り出された声は枯れ枯れで、それきり動かなくなった。

 ──血の花が咲いていた

「くそ……やっちまった……」

 ガルゼレスの血液と生肉の臭いもこびりついてしまったようで、もうこの制服は使いようがないだろう。なんとも言いがたい腐臭が、ツンと鼻を突く。

 と、イヤホンにノイズが走る。

燐慟りんどう様、お疲れ様です』

「あぁ、あとは頼む」

『承知しました』

 イヤホンを外し、空を仰ぐ。

 夕焼けは先ほどとあまり変わりなく、遠い空に血のように紅く染まった雲が、いくつも浮かんでいた。


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