第一晶 堕ちた榊家

1-1

 小鳥たちの合唱が色とりどりの花と競い合って、世は春。ちらほらとほころんだ梅に、花の仄かな香りが流れてくる。

「お呼びでしょうか、父上」

 ふすまの前に片膝をつき、こうべを垂れ返事を待つ少年。汗に濡れたダークブラウン色の前髪が額に垂れているのが、若々しい。

燐慟りんどうか、入れ」

 凛とした父の声に、思わず体がこわばる。ぎこちない手つきで戸を開ければ、射るような視線が燐慟りんどうを捉えていた。

「どうした、緊張しているのか?」

「いえ、そのようなことは……」

 眉間にくっきりとシワを寄せて、父──木煉もくれん射竦いすくめるように、燐慟りんどうを見る。顔の左半分を縦断する痛々しく大きな傷跡が、厳格さを一層助長しているように思えた。

「まあ、いい。鍛錬は怠っていないようだな」

「はい」

 幼い頃から刀を持たされ、風邪を引いてぶっ倒れようが、怪我をしていようが、泣き喚こうが、稽古を休んだ日は一日たりともない。

 同年代の男子と比べて比較的細身な外見からは想像できないが、筋肉の層が積み上がり、無駄な肉は一片もなく、痩せすぎず引き締まった身体はその修練のたまものである。

現榊さかき家当主、さかき 木煉もくれんがこれより、貴公に第二級特務を言い渡す」

 満足げに頷いた木煉もくれんは顔から表情を一掃し、燐慟りんどうを射る。

「最近、神咲かんざき家が不審な動きを見せているということは、耳に入っているな。そこで、だ」

 ふぅ、と短く息を吐き出した木煉もくれんは、唐突に切り出した。

「学園に通え」

「学園……ですか?」

 あまりにも想像とはかけ離れていた話の内容に、思わず声が上ずる。しかし、話は終わってはいないと思い直し、父の意図を探る。

 小さく顎を引いた木煉もくれんが続ける。

「ヒトシキ学園から、正式な入学許可証が届いた」

 ──ヒトシキ学園

 国内最大級の軍事施設かつ教育機関であり、選ばれた名家の子女たちが集う名門校、とどのつまりはエリート学校である。

 入学許可証──とは名ばかりで、実際のところは抵抗不可な強制執行力を持つ──が送られてきてしまった以上、いかなる理由があろうともこれを断ることは不可能。となれば、燐慟りんどうの取る道は一つしかない。

 しかしそれでも、あの父の表情を見る限り、話はそれだけではないのだろう。嫌な汗が背中を滑り落ちるのも気にせず、父の言葉を待つ。

「今年は神咲かんざきの子息も入学するらしい。ここまで言えば、解るだろう?」

 合点がいった、と言わんばかりに燐慟りんどうは首を縦に振り、父を見る。

「密偵の命──ですね」

「そうだ。だが、学園からの許可証が届いたということは、ヤツらも何かを企んでいるに違いない」

 ヒトシキ学園には、神咲かんざき家との関わりがある家の子女たちが多く通う。つまり、神咲かんざき家を含めた他の四大名家と敵対しているさかき家がひとたびその地に足を踏み入れれば、そこはもう榊にとって戦場と言っても過言ではない。

 わざわざ単身で敵地へ赴き、孤立無援の状況で、神咲かんざきの息のかかった連中の目を掻い潜りながら、下手に騒ぎを起こさず反感を買うこともなく、神咲かんざきの情報を掴んでこい、とつまりはそういうことだった。

「解っているな、燐慟りんどう。失敗は許されない」

「はい」

 短い吐息を洩らし、悔しさに耐えるように唇を噛む木煉もくれん。それから、悲痛な面持ちで燐慟りんどうを見つめる。

 かつて、一度も見たことのないその表情に、

「ち、父上……?」

 と、燐慟りんどうは困惑の色を浮かべ、彼を見る。

「すまない、燐慟りんどう。こんな父親で……」

 木煉もくれんはそう言って、大きな堅い手で燐慟りんどうの頭を引き寄せる。

 権力に抗えず、神咲かんざき家の言いなりになってしまっていることに対しての謝罪なのだろう。

「父さん……」

 されるがまま、燐慟りんどう木煉もくれんの肩に顔を埋めることしかできない。

「父親らしいことは何もできないが、頑張ってきてくれ」

「はい……!」

 頭上の重量感が消え、引かれるように顔を上げる。

 不安な光を湛えてかすかに潤んだ瞳が、燐慟りんどうの双眸とぶつかった。

「行ってきます、父さん」

 それを打ち消すように、燐慟りんどうは凛とした声で告げる。

「あぁ、行ってこい」

 木煉もくれんの目尻が下がる。眉と眉の間の暗い影はいつしか消え、口元には微笑の兆しが見えた。


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