第88話 15-4 スーパー・コネクティビティ(超接続)
視界が真っ暗になった。
黒江はゆっくり目を開いた。
非透過性バイザーの裏側、有機液晶モニタが見える。
「黒江先生、大丈夫ですか?」
谷安の声がする。
「ああ……どうもありがとうございました」
ヘルメットを外し、黒江は涙にぬれた顔を袖で拭った。
見ると、奥のコンソールの前で国島が号泣して鼻をかんでいた。
「あ、すンません、うちも嫁さんと生まれたばかりの子供がいて、つい……」
「すっかり取り乱してしまいました。谷安さんにご忠告頂いたのに、どうも……すみません」
黒江は頭を下げた。
谷安は肩をすくめながらも、微笑を見せた。
「あれがトラウマになってセーフハウスが形成されなくなる方もいるので……今後、気を付けてくださいね」
「本当にすみません」
「でも、大丈夫。唯さんのセーフハウスはまた形成を始めているようです。唯さんの視覚野モニタ――右のモニタに、また部屋がゆっくり見え始めています」
黒江はモニタを見た。
暗かったモニタが徐々に明るくなり、自宅のキッチン――正確には、仮想世界のキッチンが見え始めた。
「唯はさっきのことをどう思っているんでしょう?」
「多くの場合、自分の中で辻褄を合わせて説明してしまいます。例えば、夢を見たとか」
「夢ですか……」
あの腕の中のぬくもりも、束の間の触れ合いも、すべては唯の中では夢なのだ。黒江は哀しくなった。
「ええ、ですが、黒江先生、色々なことが分かりましたよ」
谷安は眼鏡を押し上げ、メモしていたタブレットを見ながら少し厳しい顔で言った。
唯には、事故の記憶が無いというより、思い出すことを拒んでいる。
そして、セーフハウスを現実の世界だと思い込んでいる。
また、セーフハウスの外に出るのを、病的に怖がっている――これは、外出して事故に遭ったことに起因しているのかもしれない。
「困りました……普通はセーフハウスから少しずつ外に出て、外界を認識してもらうんです」
谷安は考え込んだ。妄想の強い統合失調の患者などでは、セーフハウスの外にある‘理屈に合わない事物’を認識することによって、その妄想が本物でないことを自覚させることもできるのだという。
「そして……これは、酷……ですね。先生……気づいておられましたか?」
谷安が口ごもったので、黒江は自らそれを言葉にした。
「……彼女は、僕の顔も名前も覚えていないんですね」
それから毎日、黒江は仕事が終わると唯の待つ電脳の家――セーフハウスにアクセスして、仮想の生活を共にした。
少しずつ、少しずつ会話を続けることで脳の神経回路を発達させ、覚醒に向かわせるのだ。
だが、時間を重ねて仮想世界での面会を重ねていくと、さらに問題が浮かび上がってきた。
重篤な顔貌失認――自分の母親の顔も、弟の顔も区別がつかない。
また、昔の記憶が幾分欠けている。
例えば、彼女が編入した小学校の名前を覚えていなかった。実家のある町の名前がついているので、忘れるはずがないものだ。
さらに、感情表出――感情を表現し、出力する能力が低下している。
人形の様に感情に乏しいかと思うと、笑うべきでないところで笑ったり、泣いたりすることがある。
そのため、対人コミュニケーションがうまくできない。その矛盾点を指摘すると、閉じこもったように心を閉ざしてしまうこともあった。
事故の記憶は特に強い刺激になってしまうらしかった。
無理に思い出させようとすると、一時間近くセーフハウスが真っ暗になって消失してしまうこともあった。
それでも、毎日、少しずつ……そう思う黒江ではあったが、唯が目を醒ますのにどれだけ時間がかかるのか、そして、いつか本当に目が覚めるのか――想像もつかなかった。
***
またひと月が過ぎた。
夕方になると黒江は唯のセーフハウスにログインして‘帰宅’し、唯が眠ってからログアウトし、さらに早朝にログインして‘出勤’するということを繰り返していた。
唯の脳――それはまるで夢の中のようだったが――にアクセスする日が続く。
それでも唯の眼は醒めない。
「このまま……時間をかけて、唯は目が覚めるんでしょうか?」
その日、神経外科と精神科・神経内科の合同カンファレンスの最後に、黒江は質問した。
カンファレンスには谷安の他、神経に関する各科の医師、専門家が参加している。
外来や手術、病棟の業務が終わった後なのでもう午後八時を過ぎている。医療スタッフはみんな疲れていて、早く帰宅したい時間帯だった。
「こんな最後に、本当に申し訳ありませんが、先生方の意見を聞かせてください」
なるべく迷惑をかけたくなかったので、全患者の合同討論が済んだ後に、そっと聞くことにしたのだ。
中途採用で、他の学閥から一人で来たということもある。今までは遠慮していたが、あまりに治療の経過が遅い事に黒江は焦っていた。
特に、外科系の医師である黒江は唯の筋肉や骨格の衰え、関節の拘縮も気になっていた。時間がたてばたつほど、社会生活への復帰は難しくなるだろう。
「認識力が徐々に高まっているのは間違いないです。でも、これは時間がかかります。どうしても仕方がありません」
谷安が即答する。
「脳の成熟過程は、普通の人なら、赤ん坊から何年、何十年もかけてやる作業だよ、黒江先生。急いでもそれは、難しいよ」
精神科の毛利が答えた。毛利は人格者だ。
口調は軟らかく、黒江を安心させようとしていることが分かった。
だが……黒江が欲しいのは安心ではなかった。
自分の安心など、どうでも良いのだ。
「無理は承知です。ですが、では……どうすればそれを早めることができるのでしょうか?」
「神経回復促進剤、ビタミンB12、タクロリムス、ステロイドも使ったし、脳循環促進剤も使ってみたし……」
同じ神経外科の西田が首をひねった。彼はこちらに来てから新しく同僚になったのだが、他大学出身の黒江を排斥したり、変な偏見を持たない好漢だった。
全員がしばし沈黙する。
ややあって、部屋に少し甲高い声が響いた。
「では、もっとたくさんの人と会うとかどうかな。そうすれば、たくさんの顔や会話、新しい刺激を脳に入力することができる……理論的には、だが」
声の主は神経内科部長の鳥井だった。
痩せていて鼻が高く、切れ長の目を持っている。スタートレックのスポック博士に似ているので、コメディカルはこっそりニモイ先生と呼んでいるらしい。
どちらかというと医者というよりも研究者のような雰囲気があった。鳥井は銀縁の眼鏡を外し、レンズの曇りをとった。
「でも、鳥井先生、実のお母さんと弟さんに会ってもらっても彼女は分からなかったんですよ?」
谷安が反論した。
「いや、二人や三人じゃない。もっとたくさんの顔面パターン――大量の人間と接触し、多くの会話を繰り返すことによって急速に何かが変わるかもしれない」
鳥井は眼鏡をかけ直し、鋭い目付きで言った。
「黒江先生、他のご家族の方に協力してもらうのは難しいんですよね?」
谷安が黒江の方に向き直って尋ねた。
「ええ、お恥ずかしい話ですが、うちの両親は唯との結婚にも反対していて、疎遠になっています。会わせたら喧嘩しかねない」
「そうですか。喧嘩してもらうのも一つの刺激になるでしょうけど、唯さんが強い拒絶を示す事故の事実を不意に告げられても困りますしね……」
「ええ」
だが、黒江と谷安の会話を聞いていた鳥井はため息をつきながら首を振った。何故こんな簡単な事が理解できないのだ、というそぶりである。
「いやいや、一人や二人、三人や四人じゃない。もっと一度に大量の刺激を浴びせてみるのだ。おそらくそれが処理できるはずだ。何故なら、彼女の脳は特殊だからだ。そこに私は注目しているのだ」
「特殊と言いますと?」
鳥井の意図を理解できず、黒江はオウム返しに質問した。
鳥井は病院専用のカルテ用タブレットを操作し、3Dホログラムで唯の脳地図――神経接続を図式化した画像を映し出した。
「これは、黒江先生が手術で繋いだのかな? それとも、移植した幹細胞が勝手に接続したのかな?」
鳥井は側頭葉の脳回――脳の‘しわ’を指差した。
「例えば、ひらめきの領域といわれる上側頭回に、通常でない接続が見られる。そして、グリア細胞の量が通常の十倍近い。グリア細胞は神経を支え、栄養を与える細胞であることは知っていると思うが……」
「はい、それが……?」
「ここまで話してわからないか?」鳥井は少し焦れたように言った。「これは、
「……もっと大量の情報に触れれば……」
「そう。私は実に興味があるね」
……大量の情報。
黒江の頭に、国島の言葉が閃いた。
唯がそのうちいつかやってみたいと言っていた、オンラインVRゲーム。
数万人以上の人間が参加する究極のVRMMO。
……マグナ・スフィア。
***
「何だって? VRPIをマグナ・スフィアに接続してみたいだって?」
一週間後の合同カンファレンスで、黒江の提案に他のスタッフは驚きの声を挙げた。医師、理学療法士、作業療法士、看護師、心理療法士全員である。
「技術的にできるかは、この一週間にME(臨床工学技士)さんと、システム開発に協力している日本アイオーンのプログラマの人に聞いてみました。可能だそうです」
黒江はプレゼンテーションソフトを使い、簡単な模式図を使って説明した。
今でも電話のベルを唯に聞かせてからVRPIを通して話をすると、電話ができる。
いくつかのプログラムとハードの追加を行う事。そして、新しい端末――この場合は、仮想現実の世界でのVRマシンだが――を、唯に示して与えることによりマグナ・スフィアへの接続は可能だった。
「それって、一週間前の……」
谷安が呟いた。
「そうです。鳥井先生がおっしゃったように、大量の情報を彼女にぶつけてみるんです」
「必ずしも、プラスの効果が得られるとは限らないですよ?」
「それも承知の上です。今のまま同じことを続けても、何も変わらないかもしれません。そのうちに、現実の肉体の方が弱っていく」
「病気の子供がVRゲームで遊んでいる前例はある。
西田が唸った。
「しかし、セキュリティの問題はどうなる? 今あれは、病院内のLANにしか繋げていないし……」
普段温厚な毛利の声が裏返っていた。
「職員が記憶媒体を接続してデータを取り出すときのために、強力なセキュリティソフトが入っているので、基本的には問題ないそうです」
「そうは言っても……院長は何と言ってたんですか?」
「院長は、このカンファレンスの結果で検討すると言っていました」
「院長は機械音痴だからなあ……」
毛利は頭を抱えた。
「鳥井先生は……如何ですか?」
じっと黙って腕を組んでいた鳥井に黒江は声をかけた。
鳥井は腕組みを解き、口を開いた。
「面白い!」
鳥井の口に強烈な笑みが浮かんでいた。
「数万人の顔情報と、言語情報。触覚、味覚、嗅覚、視覚、運動覚。那由多システムで全感覚を生まれたての赤ん坊の脳に投射するのだ。そして、それを覚えるのが現実世界とは全く違う物理法則の、仮想世界。何が起こるかわからん。実に面白い!」
「面白いって、そんな……不謹慎な……」
谷安が青ざめた。
「不謹慎結構。倫理面ではそこに肉親がいて、同意しているのだ。絶体絶命、他に手がない患者に挑まないで何が治療者だ。黒江君、やりなさい。そして、うちの科でもぜひ診させてくれないか。未知の世界を覗き見ることこそ喜びだよ」
症例報告や研究発表、論文などの実績に対する打算がないとはいえないだろう。鳥井の目は、実験対象を見つけた研究者の目だった。しかし、その打算に乗るしかないのだ。
「どうか、こちらこそ、宜しくお願い致します」
黒江は深く頭を下げた。
***
「ただいま、唯」
「おかえりなさい。今日は煮込みハンバーグだよ」
ずっと毎日繰り返して来たままごとの様な、仮想世界での食事だった。
VRPIは味覚を再現できない上に、これらの食材は全て唯の空想の産物である。
二人で選んだ飛騨家具のダイニングテーブル――これも仮想現実であるが――の上には、湯気を立てる料理が並んでいた。
「舞茸は体にいいんだよ。ソテーとお味噌汁、両方作ったよ」
「おいしそうだね……頂きます」
黒江が席に着くと、唯もエプロンを椅子の背もたれに掛けて席に着いた。
「今日は、その前に、プレゼントがあるんだ」
「え? なあに?」
唯の顔が無表情になった。
食事のメニュー以外、毎日同じことが繰り返される世界の住人である彼女にとって、変化は恐怖でもあるのかもしれない。
黒江は谷安と国島に指示されたように、手に持っていた箱を差しだした。
「開けてごらん。VRマシンだよ」
サプライズでなく、はっきりその物の名前を言う事。それが重要だった。
開けた箱の中身は、黒江には見えない。空っぽに見える。
この世界では、唯が認識しないものは存在しないのだ。
現実世界では国島とプログラマ、VRPIの技術者がマグナ・スフィアの回線を接続し、唯の頭蓋電極と通信可能にしたのだが、それを仮想世界で‘具現化’したものである。
彼女の意識の中で、マグナ・スフィアへの接続回線を形作らせるためのギミックだ。
……まるで、裸の王様だな……黒江は内心思っていた。
「わあ! 本当!?」
眼が泳いでいる。まだ何か分かっていない表情だった。
「VRMMOゲームのマグナ・スフィアに接続できる、ナーブ・スティミュレータだよ。日本アイオーンの最新版。前に欲しがっていただろ?」
「あ! 本当だ!」
唯はそう言って箱の中からそれを取り出した。
カチューシャとバイザーが合体したような、小型のVRマシンだった。
黒江の目には突然空中から現れたように見えた。
「マニュアル、マニュアル……」
唯はそう言って、何も入っていなかった筈の箱から小冊子を取り出してパラパラと開いた。
「あ、やっぱりネットにつながないと駄目ね」
「大丈夫だよ、うちは量子ファイバの超高速回線だし。僕が仕事で使うことを考えて、固定電話もそのためにつけただろ」
これは本当なのだが、唯は覚えていないのかもしれない。
「そうか、そうだった」
唯は嬉しそうに機械を強く抱きしめた。豊かな胸の膨らみが歪む。よほど嬉しかったのだろう。
「でも、突然、何で買って来てくれたの? これ高いよね。主婦としては気になるよ」
「だって、いつも家に一人だと淋しいかと思って……」
黒江は一瞬答えに窮したが、心に思ったことをそのまま答えた。
自分がアクセスしていない時に唯が何をしているのか、VRPIを使って観察したことがある。
唯は家事を一通り済ますと、何をするでもなくずっと虚空を見つめて過ごしているのだ。それはあまりにも淋しい姿だった。
「そうか……ありがとう! 早速明日からやってみるね。楽しみだな」
唯は屈託なく笑った。
そんな唯を黒江は複雑な気持ちで見つめた。
***
そして,主婦シノノメがマグナ・スフィアの世界に生まれた.
混濁した意識の中で,選び取ったというよりそのまま答えただけの,‘主婦’という職業.
しかし,異常な学習能力で次々とクエストを完遂して行ったのだ.
パーティーは,組まなかった.
会話が上手く成立しなかったからだ.
彼女は奇行が目立った.
曰く,NPCとプレーヤーとの区別が全くついていない.
曰く,人の名前と顔をよく間違える.
‘最強の不思議ちゃん’の噂が,‘始まりの街’にあっという間に広まっていった.
現実世界で一週間,マグナ・スフィア時間で半月ほど経ったある日,シノノメは中央広場の冒険者ギルドで手頃なクエストを探していた.
ギルドの建物は酒場も兼ねており,マスターは大柄なNPCの熊人だ.
酒や食べ物も提供するカウンターの後ろの壁に,手書き文字でずらりと黒板に書き込まれているのは,初級から中級のクエストである.
初心者向けで,薬草や魔石の探索,ほどほどの強さのモンスター攻略などが並んでいた.
「その,北のお化け沼のスライム攻略っていうのはどうですか?」
シノノメは指差して尋ねた.
「おお? これかい? 始まりの街の郊外,北の沼にはスライムが群生していて,最近旅人に悪さをするんだ.噂によると,ゲルスライムという珍種がいて,それを倒すと高いポイントが稼げるらしいぜ.だが,あんたにできるかな?」
「大丈夫です.それにします.宜しくお願いします」
「へっへっへ,せいぜい死なないように頑張りな」
「ありがとうございます」
横で見ていた犬人のプレーヤーが首をかしげていた.
NPCのマスターに,どうしてこんなに礼儀正しく話すのだろう.
マグナ・スフィアのNPCは普通に話しても結構面白い対応をしてくれる.酒場でNPCの娘をデートに誘ったりすると,照れたり怒ったり,まるで現実みたいな反応を見せるのだ.
そんな会話が楽しめるのもマグナ・スフィアの醍醐味なのに……これじゃ,この女の子の方がNPCみたいだ.
だが,シノノメの方はそんな犬人の視線など全く気にしていない様子だった.
淡々とクエストの受領届を提出し,踵を返して酒場の外に出ようとする.
「こんにちは.シノノメさんはあなたですか?」
シノノメの手が開き戸にかかった時、一人の青年が近づいてきて声をかけた.
「はい.そうです」
シノノメは無表情で答えた.
青年は,人間の戦士だった.ヴァイキング風の黒い兜をつけ,貧弱な楯と剣を持っている.レベルは2.
難度の高いゲームであるマグナ・スフィアでのレベル上げは容易でない.
一週間ほどで5まで上がったシノノメと比べても,まだまだ初心者の様だ.
青年はシノノメの顔をじっと見ている.
どこかで会っただろうか.
シノノメには分からなかった.
獣人なら耳や尻尾の違いで分かる.
NPCもプレーヤーも,今日まで‘始まりの街’で何百人もの‘ヒト’族と会ってきた.普通の‘ヒト’族の場合,男か女かとか,特徴的な髪形なら分かりやすいが,そうでないと覚えにくい.
もともと他人の顔と名前を覚えるのは苦手だ.今のところパーティーを組む気もないし,どうせゲームの世界なので,覚えなくてもいいとも思っている.
「一緒にクエストに行きませんか? 郊外のスライム退治です.さっきクエストを受けていましたよね?」
「私一人でいいです」
「では,ついて行かせてください.邪魔はしません」
「邪魔しないのなら,いいですよ」
わざと邪険にしているのではない.要件が成立すれば、会話はそれでいいと思う.
戦士は名前を名乗ったが,聞いたこともなかった.
構わず北の沼地へと向かった.
藍絣の着物に,白いエプロンですたすたと歩いて行く.細い獣道だが,戦士は後からついてきている.
こういう冒険系ゲーム自体の初心者なのだろうか.おっかなびっくりという様子だ.
シノノメの武器は三徳包丁だ.
主婦を選んだときに服装の付属品でついていたアイテムだった.
全く普通の調理器具なのだが,スライムでも何でも,料理と同じ要領で叩き切ってしまうことにしている.
お化け沼の周りは霧が立ち込めていた.
沼の周りにはツタが絡んだ樹木が入り組んで生えている.
湿地帯にはガスと湿った土のにおいが充満していた.
足元は足袋に草履なのに,シノノメは折り重なって倒れた灌木を軽々と跳ねるように飛び越えて進んでいく.
上からスライムが降って来る.
赤,青,緑,黄色.
色とりどりのゼリー状の怪物を,シノノメはかわしながら,切り刻んでいく.包丁の刃が立ちそうにない体なのに,シノノメは急所――スライムの内臓を一目で見極め,一撃で突いて倒していた.
粘液が飛び散り,顔や着物を汚す.
シノノメの顔は不快感に歪んでいた.だが,着々とポイントを稼いでいた.
スライムがピクセルになって砕け散るたびに,少額のコインになってポイントが積算されていく.
「うわぁ!」
後ろの方で声がした.
さっきまで後ろにいた戦士がいない.
気になったシノノメは,足に絡みつく下草を払いながら走って行った.
一際大きなシダの樹の向こうに,何か水色の物が見える.
シノノメは風を切り裂く様に走った.
「あ,大きなスライム!」
そこでは,水色の巨大なスライムが,戦士を飲み込もうとしていた.ゼリー状の体内に下半身が透けて見える.ゆっくり消化されているのだった.
触覚のようなものがゼリー状の体のてっぺんに二つ突き出していたので,これが噂のゲルスライムだろう,とシノノメは思った.
「わわ,助けて!」
戦士は食べられながら手をバタバタさせてもがいていた.剣も楯もどこに行ったのか,見当たらない.
……邪魔しないって言ったのに.
でも,囮になってくれたおかげでゲルスライムが倒せる.
シノノメは無造作に近づくと,両手をかざした.
「火蜥蜴サラマンダーよ,我の右手に宿れ.風精シルフェよ.我の左手に宿れ.ともに向かいて我の敵を滅ぼせ! グリルオン!」
爆発音とともに,シノノメの両手から青い炎が噴き出した.
ゲルスライムは瞬時に蒸発し,金貨と水色の魔石がバラバラと落ちてきた.
戦士は地面に投げ出されて倒れている.ズボンの膝下と靴が消化されて少し溶けていた.
シノノメは黙々と戦利品を集め,アイテムボックスに収納する.
「あの……ありがとう.すごいね,主婦なのに,しかもレベル5でもう魔法が使えるなんて」
戦士が恥ずかしそうに礼を言う.
シノノメは首を傾げた.
そういうものなのだろうか.昔から特にRPGは好きで,やり込んでいるので上手なだけだと思っている.
とにかく用は済んだ.
「どういたしまして.一人で歩けますか?」
「あ,うん,大丈夫だよ」
戦士を置いて,始まりの街に帰ることにした.
「……唯?」
シノノメは驚いて後ろを振り返った.
戦士は土の上に座って,シノノメの顔をじっと見つめている.
シノノメも戦士の顔を見つめ返した.
「あなた,誰? 何故,本名を知っているの?」
戦士はとても悲しそうな顔をした.
「……君は,まだ分からないんだね……」
「私,あなたなんて知らない……」
シノノメの鼓動が早まる.
突然怖くなった.
私には……忘れてはいけないことがある.
何だろう.それは,決して忘れてはいけないのに……
体が震える.
仮想現実の体に悪寒が走る.
「唯!?」
戦士が自分の名前を呼ぶ.
怖い……
怖い……
今自分がいる場所が,根底から否定されてしまいそうな気がする.
シノノメは逃げるようにマグナ・スフィアからログアウトした.
「唯……これでも,駄目なのか……」
静かになった湿地帯には,ただ一人うなだれた戦士――黒江が残された.
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