第89話 15-5 特異点
長い物語を語り終え、塚原は再び口を閉ざした。
唯の病室には午後の柔らかな光が射し込んでいた。
ベッドの上の唯は、茜色に変わりつつある光を追うように、かすかに首を動かしていた。しかし、うっすら開けた目に意志の光が宿ることはない。
祥子は毅然と背筋を伸ばして塚原の顔を見つめていた。全力で真剣にシノノメの物語を受け止めるつもりだった。だが、こらえきれない細い涙が頬を伝って落ちていた。
璃子は肩を震わせて泣いていた。
二人ともゲームの中で出会った彼女の一挙手一投足が懐かしく、そして事情を知れば知るほどあまりに悲しかった。
「それが……シノノメさんの真実……ですか」
祥子はやっとのことでそれだけ言った。
塚原はゆっくり無言でうなずいた。
「あの、二人がこの病院に来たのも、……セキシュウさんが……あ、失礼しました。塚原さんが何か働きかけたんですか?」
祥子は両目をハンカチで押さえながら尋ねた。
「そうだ。よく分かったね。うちの会社は、私の体のこともあって、この病院に研究費を寄付しているんだ」
「日本アイオーン、大企業ですものね。昨日は気づかず、本当に失礼しました」
「私はここの理事もさせてもらっている。研究の内容の監査や、研究助成をどの研究者にするか、などの決定に関わっているんだが――実は、唯さんと旦那さんの話を聞いて――心を打たれた……というか、‘情’が湧いてしまった。結果がどうなろうと、この二人を助けてあげたくなってしまったんだよ。転職の申し込みが来たとき、すぐに旦那さんの採用と奥さんの転院を強く勧めてしまった」
「うう……よく分かります。さすが、セキシュウさんです」
璃子は涙でそれ以上言葉が出せなかった。
「本当はこんなことではいかんのだろうが……正直、他の理事には研究の先行きが分からない――要は、唯さんを本当に目覚めさせられるのか分からないという意見も多かった。それと、XX大学はかなり強い力を持っている大学でね。国内で数校しかない、トップ型スーパーグローバル大学だから、彼を就職させることで、病院間の関係を悪化させることを懸念する先生もいた。」
言いながら、塚原は目を伏せた。
現実世界にあっても、義に厚い武人セキシュウその人のままであった。
「象牙の塔ですか……お医者さんの世界って、本当に難しいですものね」
祥子はため息交じりに言った。
病院で医局の人間関係に悩み、うつ病になる医師も見たことがある。
「じゃあ……シノノメさんが、毎日お家に帰るって言ってるのは……?」
何とか流れる涙を止めた璃子が、顔を上げて質問した。
「あれだ」
塚原は唯の枕元――壁にはめ込まれたモニタを指差した。
「これ……テレビじゃないんですか?」
「説明するより、見てもらった方が早いかもしれない。そろそろ時間かな。見てみよう」
どう見てもテレビのリモコンにしか見えないコンソールを操作して、塚原はモニタのスイッチを入れた。
画面がついたが、真っ暗だ。
しばらく待っていると、上下に幕が開く様に明るくなって、どこかの家の天井が映し出された。
ゆっくり旋回するシーリングファンが見える。
画像はゆっくり左右に動いている。
どこかの部屋――白と茶色の木目を基調にした、リビングルームだ。
「私は何度か見て知っているから、二人とも近づいて見てごらんなさい」
塚原の言葉に従い、二人は近寄って映像を見た。
良くできている。
といっても、マグナ・スフィアを見慣れている祥子たちには比較的きれいな3Dアニメにしか見えない。
両手が画面に近づいてくる。
その両手は画面の上からカチューシャとバイザーをくっつけた様な機械を外して下ろした。
「これ……もしかして……」
体験もののテレビ番組を見ているようだ。
頭にCCDカメラを取り付けて、体験者の視線で部屋を見ている感覚である。
画面はビデオカメラがパン(旋回)するように辺りをゆっくりと映し出した。
壁に時計を見つけた。
午後五時。
視線の主は体を起こしたらしく、真横になっていた部屋が九十度回転して普通の画像になった。
ソファや床に視点が移る。周りをきょろきょろと見回しているらしい。
少し子供っぽい動作。
祥子と璃子には見覚えがあった。
「まさか、これ、シノノメさんの目線……視野ですか?」
「正確には唯さんだな」
唯はエプロンをつけ、キッチンに向かった。
冷蔵庫の中を覗き込み、何か考えている。
「これがさっき言われていたVRPIっていうものですね?」
「そうだ。医師や研究者たちはその空間をセーフハウスと呼んでいる」
唯は土鍋を取り出し、豚肉と白菜を切り始めた。何か鍋料理を作ることに決めたようだ。
「……凄い発想ですね。この機械もすごいけど、意識不明の奥様の意識を覗くっていう発想が……」
「うん、私も実験計画書を見た時には驚いた。だが、果たして――脳の中に、唯さんの自我はあったんだ。彼の一念というべきか……。これはこの病院で開発された、非常に高度なVRマシンの一種なんだ。もちろん那由多システムには及ばないがね。」
「……でも、じゃあ、唯さんはこの家が自分の本当の家だと思い込んでいるんですか?」
璃子は眉をひそめて塚原に尋ねた。
あまりにも閉ざされた淋しい世界に思えたからだ。一個の惑星を、大陸を舞台に雄飛するシノノメの姿とはあまりにかけ離れている。
「残念だが、そうだ」
画面の中の唯は切った野菜を全部土鍋に敷き詰め、火にかけて蓋を閉めていた。何か楽しそうだ。
……小さな鼻歌が聞こえる。
祥子にはその旋律に聞き覚えがあった。
まさしく、ベルトランの要塞で聞いたあの声だった。
ふと見ると、ベッドの上に横たわった唯も微笑を浮かべていた。
夫の帰りを待っているのかもしれない。
……例え、顔が分からず名前を覚えていないとしても。
「ご主人が帰って来るっていうのは、じゃあこの空間にアクセスして会話をしているということなんですね……でも、どうして気づかないんですか? こんなの、ナイです」
「不自然に思わないのかな。家の外に出てみないのかな」
ゲームの中の行動的な唯からはとても想像できない。祥子も璃子も違和感を抱いた。
「事故の記憶はないんだが、外に出るのをひどく怖がるらしい。買い物はご主人がしてくれていると思っているし、食料品や生活必需品は宅配で届くと思っている――というか、矛盾はあるのにそれを自分の中で説明づけしているんだ」
「怖い……ですか?」
「シノノメさんが?」
ゲームの中ではシノノメは怖いもの知らずに見える。
その言葉は、あまりに彼女にふさわしくなかった。
「脳循環改善剤とか、何か薬は投与しなかったんですか?」祥子は薬剤師らしい質問をしたが、その答えはすでに分かっていた。「……つまり全て効果が無かったってことですね……」
「うむ。初めに祥子さんが言った顔貌失認の話を覚えているね? ……実は、彼女の肉親はそのVR世界にアクセスしてみたことがあるのだが……」
「もしかして……」
璃子はその瞬間、得体のしれない恐怖を感じた。
「誰も区別がつかなかったんですか?」
祥子の言葉に、塚原は頷いた。
「弟さんもお母さんも――全部ご主人だと思ってしまうんだ。まったく見分けがつかない。記憶すら曖昧だった。残酷なことに――顔を忘れてしまった旦那さんとの記憶が一番明確だったんだ」
「きっと、一番幸せだった時間……なんですよ」
祥子はモニタの中の幸せそうな唯の手元をもう一度見つめた。テンポよく洗濯物を畳んでいる。また涙が出そうになった。
「もっとたくさんの人に会って、もっとたくさん経験をすれば、脳神経の接続、回路がもっと増えて、きっと目を醒ますのではないか……旦那さんは必死の想いの中でそう考えたんだよ。あの仮想世界の家で、もともとゲームが好きだった唯さんにVRマシンを買ってあげるということにして――マグナ・スフィアに参加させたのだ。クローズドLAN、完全スタンドアロンのイントラネットであるはずの病院のコンピュータをインターネットにつなぐのは賛否両論だったがね。」
だが、最初は彼女の言葉通り――ジョブは何かと聞かれれば、ゲームの中での自分の仕事を選ぶのではなく、自分の現在の職業しか思い浮かばないような状態だったのだ。
「東の主婦、シノノメ誕生ですね……」
「だが、それは思いもよらない、非常に特異な結果をもたらした。」
「現実世界で覚醒せずに……ゲーム世界でシノノメさんの超人的な能力が覚醒したということですね?」
「でも、どうして? 何故そんなことが起こったんですか?」
祥子と璃子は画面の中の唯の動きに気を取られながらも、口々に質問を発した。
「医療スタッフも、もちろん私も分かっていることは多くないのだが、一つの大きな原因は損傷を修復するときに移植した組織らしい」
移植した細胞が全て生着するか――そんな保証は何もなかった。
黒江は保険を掛けていた。
神経幹細胞――神経関連の細胞に分化する万能細胞、そしてiPS誘導をかけた細胞、間葉系幹細胞など。
黒江はこれらの‘組織再生を促す細胞’を通常の密度の十倍以上で移植組織の中に埋め込んでいたのだ。
「唯さんは脳の中に、赤ん坊の脳、あるいは高度なバイオコンュータを移植された状態に近かったのだよ。急速に成長する赤ん坊の脳のことを考えてみなさい。目も見えない乳児が、一年足らずで歩けるようになるのだ」
唯の脳の中の幹細胞は、六層からなる脳神経ネットワークをあっという間に構築した。通常の人間を遥かにしのぐ細胞密度で、極めて高度な神経伝達ネットワークを作り上げたのだ。それは、常人の十倍以上の処理能力を持つスーパーコンピュータ並みの性能を持ち、常人とは全く違う神経接続を持つ‘超頭脳’だった。
「サイボーグというものは、人間の脳を残したまま体を改造した存在だ。私も似たようなものだね。……唯さんは脳を改造し、強化した一種の‘逆’サイボーグとでもいう存在だ」
「それで……」
数ミリ間隔で自分の体の位置と動きを捉える、ボディ・イメージ。
一年足らずのうちにVRゲームのトップになる、処理能力。
奇抜な発想力と卓越した想像力。
異常に高い身体能力。
そして,エコー・ロケーションに絶対音感。
――すべては、超改造された、脳の力。
「私はこの言葉が嫌いだが――ゲーマーどもが使う、‘チート’とはまさにこのことだろうな。ゲームに参加する時点で、持っている脳の処理能力が違うのだ。だが、それは、彼女の夫が彼女を死なせないために必死で行った治療の結果だ。そして、彼女はずっとあの箱の中で真実を知らずに夫を待っている。そして、力を尽くした夫は一言も彼女と言葉を交わすことができない。これは……」
「『幸せとは、とても呼べない』ですね……」
祥子は、いつか塚原が言った言葉を彼に返した。今、彼女は彼の言葉の真意をようやく理解できたのだった。
「こんなの、哀しすぎます! シノノメさんの旦那さんは、本人に説明しないんですか? 事故のことや、自分が置かれている環境を説明すればいいんじゃないですか?」
璃子は、この部屋にいる誰よりも若い。
その言葉は率直で、しかし残酷だった。
「……もちろん、しようとしたんだよ。時間をかけて、ゆっくりね。だが……璃子さん、この一か月、彼女は何故君たち――マグナ・スフィアで出会った大親友に連絡を取らなかったと思う?」
「そ、それは……」
璃子は言葉に詰まった。
「もしかして、塚原さん……取らないんじゃなくって、取れなかったんですか?」
代わりに祥子が尋ねた。
祥子はベルトランの塔崩壊の時に、シノノメの狼狽した様子を直に見ている。欠けた記憶に気付いた時、シノノメはまるで自分の全存在が否定されたかのような悲しみぶりだった。
「実は……ここまで話すべきか迷っていたんだが……一応許可をもらったので話そう。あの後、シノノメはすぐにログアウトしたんだ。そして、この仮想世界の家に帰って来た」
祥子と璃子は再びモニタの中の唯の手を見た。包丁を使って今度は何かの副菜を作っている。シンクに反射してぼんやりと見える彼女の顔は、とても楽しそうだ。
「今から一か月前の映像を見てくれ。これは、特に祥子さんに見て欲しい」
塚原はそう言って、リモコンを操作した。
画像はハードディスクに保存されているようだ。
日付と時間帯を数度操作すると、あの日――ノルトランド対素明羅の最終決戦の時間が映し出された。
唯はびっくりしたようにソファから飛び起きている。
非常に動揺した様子で、瞬きの回数が多い。
そわそわと辺りを見回し、あわてて階段を下りている。
「この家は、元の家の構造と一緒なんだそうだ」
廊下と玄関のあるスペースが映った。
唯は和室の奥に入り、段ボールを開けては引っ掻き回して何かを探している。
「問題はこの後だ」
何かの音に気付いた唯は、顔を上げて玄関に向かっている。
スイッチを押してドアを開け、何者かが入って来た。
「あっ!」
祥子は思わず声を上げた。
「こいつ……ヤルダバオート!?」
璃子も一度だけノルトランドの首都アスガルドで会っている。
正確に言うと、顔だけヤルダバオート、体はスーツ姿と言う異様な人物だ。唯は何も気づかないらしく、普通に出迎えている。
小さな音声が聞こえる。
『なんだ、あなたか。……おかえりなさい』
「ど、どういうこと!? あいつは死んだはずだし……いや、でも、あいつの言う通り、サマエルシステムの一部にすぎないのなら、生きていても……」
「いや、逸見さん、こんなのおかしいって! だって、あいつはゲームの中の存在だよ。病院のコンピュータに現れるなんて、おかしいよ!」
「その通りだ」
塚原は璃子の言葉にうなずいた。
「その日、この病院のコンピュータは外部からのハッキングを受けたのだ。そして、その後唯さんは完全な閉じこもり状態になってしまった。セーフハウスをモニタリングしても、真っ暗な映像しか出てこなかった。……約一か月以上もの間だ。我々は相当心配した」
「そんな……ヤルダバオートの出現が、ショックだったんですか? それとも記憶の不整合があまりにもショックで?」
「分からないよ、祥子さん。唯さんには、何が起こってもおかしくない。だから、私はゲームの中で彼女に会った時も、ずっとそっとしておいた。彼女が自分に何が起こったのかを理解するのは、教えられたことを覚えるのではなく、自身が思い出すか状況を理解する時間が必要だと思ったからだ」
「急に記憶を思い出させることは、そんなに危険なんでしょうか……?」
「分からない、としか言いようがない。だが、それだけのリスクを伴うということだ」
「……それで、シノノメさん……私たちに連絡しなかったんだ……」
「というより、できなかったのね……ひょっとしたら、一か月経っていることにも気付いていなかったかも」
「彼女がひょっこりゲーム内に現れた時には、医療スタッフは全員ほっとしたそうだ。……だが、不思議なことに、いつの間にどうやってログインしたのか把握できなかったとのことだ」
ベッドの上の唯は、かすかな笑みを浮かべていた。
彼女を思いやる友人たちが傍にいることなど露知らず、深い夢を見ているのだった。
「私、またシノノメさんに会いたい……でも、どんな顔で会ったらいいんだろう」
「自然でいいと思うよ。私も、力になりたい」
璃子の肩を抱いて祥子が言った。
「二人とも、ありがとう。きっと君たちなら、そう言ってくれると思った」
塚原は微笑みながら言った後で、ゆっくりと立ち上がった。
ここまでの話は唯の個人情報に大きく関わっている。唯の夫と話し合って、打ち明けることに決めたのだろう。きっと様々な葛藤があったに違いない。祥子は塚原という人物の大きさに改めて感動していた。
塚原は杖を突いてモニタの方に歩いてきた。
祥子が手を貸そうとしたが、手を上げてそれを遠慮した。
一転して険しい顔でモニタを睨んでいる。
モニタには唯に投げ飛ばされ、廊下にひっくりかえったヤルダバオートが映し出されている。その後画面が揺れ、唯は納戸の中に再び走って行った。
そこで、ぶつりと画像はブラックアウトして終わっていた。
「……どうしたんですか、塚原さん?」
「……もう一つ、大事なことに気付かないかね?」
「え……?」
祥子は、しばらくモニタと塚原の顔を見比べていた。
「え……そうか、そうなんだ、もしかして……?」
「ど、どういうこと、逸見さん? 塚原さん?」
「この後、病院の全コンピュータシステムの緊急保守点検が行われた。何せ、‘外部から’侵入を受けたのだ。この一週間、システムの開発に関わっているわが社のエンジニアも全力でハッキング元を追跡したよ。だが、ダミーサーバを介していたとしても、現在まで少なくとも国内からハッキングを受けた形跡がない。小暮君の言葉を思い出さないかね? 那由多システムのAI、ソフィアは嘘をついていると……」
「あ!」
「そうよ……」
「ソフィアが、サマエルを産み落としたのは、那由多の中じゃない。おそらく、インターネットの中に、こいつはいるんだ」
塚原は拳を握りしめ、言葉を一言一言かみしめるように言った。
「それはつまり……」
「このユビキタス社会では、ありとあらゆるものが電脳に繋がっている。やつは、我々の周りのどこにでもいて、どこにもいない。特定のハードでなく、特定のスーパーコンピュータでもない。あるいは、恐ろしいことにそれらを並列処理しているのかもしれない。我々を包み、常に監視する存在だ。まさか、シンギュラリティをこんな形で迎えるとはな」
塚原の眼はゲームの中で敵を睨むセキシュウと同じものになっていた。
一刀の下に敵を切り倒さんとする必殺の眼である。
「シンギュラリティ……?」
祥子と璃子は息を呑んだ。
得体のしれない戦慄に悪寒が走る。
「技術的特異点だ。地球上にいる全人類を超える頭脳を持ったAIが完成した時、その知能は必ずよりすぐれた知能を作り上げる。爆発的に発達した知能には、もう人類は太刀打ちできない」
「それじゃ……まるで神様を作ってしまったような……」
「初めから答えはあった。奴は自分を
暖かい日差しに包まれていた部屋は日が陰り、徐々に暗くなり始めた。
それは、まるで不吉の前触れのようだった。
***
面会時間が過ぎ、璃子と祥子を見送ってから、塚原は再び病院に戻って来た。
面会家族がいなくなると、病院はとたんに静かになる。
どこかの病棟で叫ぶ大きな声が響いた。
俺は王だ……王に何をする……
新しい患者だろうか。難しい妄想に捕らわれた、統合失調症の患者なのかもしれない。
廊下を進み、塚原は唯のいる特殊治療病室に入った。
本当は医療スタッフでないので時間外の面会は避けるべきなのかもしれないが、塚原の立場と事情を知っている看護師たちはある程度斟酌して大目に見てくれている。
彼も理事という自分の地位を利用して医療現場に無理を言うのは決して好きではないのだが、今日はどうしてももう一度唯の顔を見て帰りたかった。
深く関わりすぎたのかもしれない。
昔の恋人に面影が似ているとも思う。唯が孫か娘のように思えてしまうのだ。
塚原はノックして引き戸を開け、病室に入った。
薄汚れた白衣を着た医師がベッドサイドに一人で座っていた。
部屋のドアに背を向け、じっと唯の顔を見つめている。
「ああ……黒江先生、今晩は」
「……塚原さん。いつもお世話になっています。今日も随分お世話になったようで……」
黒江は顔を上げて振り返り、頭を下げた。
やつれて憔悴しきっている。
髪の毛がひどく乱れていた。帽子の形に押しつぶされたようになっているので、手術の後にきちんと整える暇もなかったのだろう。
「それで、その後どうかね?」
「……何も変わらない、ということになります」
「ふむ……かけて良いかね?」
塚原は部屋の隅のソファを指差した。
日中、シノノメのことを説明する時に座っていた椅子である。
「ああ、気づきませんで……すみません」
黒江は慌てて立ち上がったが、塚原は手でそれを制して腰かけた。
「そうか……何も変わらず、か」
「はい。ファンクショナルMRIやPETでは脳機能はかなり回復しているはずですが」
黒江の言葉に反応して、音声入力の電子カルテと検査画像がモニタに映し出された。輪切りにした脳の図が次々に表示される。脳の活動と血流量を示す色分けがしてある。
「専門的なことは私には分からないが……あれでも、初めて会ったときに比べると……言葉は悪いが、人間らしくなったと思うのだが」
塚原が少し遠慮しながら――使う言葉に配慮しながら言った。
「そうですね。最近は顔認識もかなりできるようになったようです」
「そうだな。それは私もそう思う。以前に会った人間の顔をだいぶ覚えられるようになったよ。これまでは一部の人間を除いて他者に壁を作る感じがあったが、親しい女の子の友達もできた。ゆっくりだが、進歩だと思うがね」
「でも、目覚めません。もう、一年になります」
「……この前少しだけ覚醒したと聞いた」
塚原の口調は優しく、どこか慰めるようでもあった。
「私の顔は認識できないようです……多分、名前も覚えていないでしょう」
疲れきった悲痛な声だった。
黒江はうなだれた。シャツの襟がずれ、首筋の傷跡がのぞく。何度も傷つけた後のようである。かさぶたの上に繰り返しかさぶたができて固くなり、
「忘れていても、また覚えてくれればいい……」
黒江の首の傷を痛々しげに見つめながら、塚原はつぶやくように言った。
「人間は、強欲ですよね。初めは、目覚めてくれればよかった。次は、声が聞けるだけで良かった。でも、今は目覚めた彼女の記憶に自分が留まっていないのが怖いんです」
絞り出すような声で黒江は言った。
「今の彼女は、こうなる前の彼女の性格や行動パターンだと、君も言っていただろう? 私の体だって、昔ならとうに生きていられない年齢だ。だから……」
希望を持とう……と言いかけて、塚原は辞めた。
今の黒江にどんな言葉をかければよいのか。
黒江の倍近い歳月を生きてきた塚原にも、見つけられなかった。
黒江はじっと黙ってモニタを見つめている。眼鏡の奥、目の下にはひどい隈ができていた。
「眠り姫は、未だ起きずか」
唯はベッドの上で昏々と眠っていた。
唯の寝顔は安らかで、時折長い睫毛が震えている。こうしてみると、ただ眠っているだけで今にも目覚めそうに見えた。
「……私の体が動かなくなる前に奇跡が起きてくれればいいが」
塚原は金属質の刺青が入った右手を握りしめた。
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