第87話 15-3 唯の見る夢

 手術から一か月後、容態が安定した唯は一般病棟の個室に移っていた。

 だが、唯の意識は一向に戻らなかった。


 「おはよう、唯……」

 ……そして、また今日も。


 毎朝、何かが起こらないかと期待して黒江はドアを開けるのだが、そこには目を閉じてずっと眠っている妻の姿があるだけだった。

 

 手術から二週間経過して、脳浮腫が軽くなった後、冷凍保存してあった頭蓋骨を元に戻す手術をした。

 吸収分解される生体材料のプレートとネジで頭蓋骨を戻し、脳の機能をワイヤレスでモニタできる生体チップを埋め込んだ。

 その後、検査上は順調に回復していることになっている。

 しかし、意識がクリアにならないのだ。

 時々目をうっすら開けたり寝返りを打つことがあっても、呼びかけにも答えず、自分から言葉を発することもなかった。

 

 「今日は、外来があるから、それが済んだらまた戻るよ」

 黒江はベッドに腰掛けた。

 ベッドサイドの床頭台には唯の母が見舞いに持ってきたプリザーブド・フラワーと、家族の写真が置いてある。

 

  ***


 黒江の手術は学内で大問題になっていた。

 倫理委員会も通さず、自分の肉親に世界初の実験的医療を行ったのだ。


 他に救う手のない患者に勇敢に治療を行ったという見方をする者もいた。

 神経外科の誇らしい大業績――これで成功すれば、重度の脳損傷患者に光明が届き、大きな広告塔になる――と考える者もいた。

 だが、失敗に終わった場合には、無謀な実験的医療ということで切って捨てようという者もいた。

 これで助かったということになれば、今まで助からないからという理由で臓器移植のドナーとなってきた脳死患者をどう考えればいいのか……そんな意見もあった。

 間違いなく死の危険から救うことには成功した。だが、意識は戻っていない。

 この結果をどのように評価すべきなのか。

 大学の倫理委員会と教授会は紛糾していた。

 そして、黒江の身辺では名誉欲や保身、権力欲など人々の様々な意図が渦巻き始めていた。


  ***

 

 外来は朝九時から開始なので、まだ少し時間がある。

 眠り続ける唯の顔を、黒江はじっと見ていた。

 随分血色がよくなった。本当に眠っているようだ。

 部屋の戸を叩く音がした。

 

 「黒江、大丈夫か?」

 困ったような顔の真鍋が、ドアをそっと開けて入って来た。


 「ああ、先生、ご心配ありがとうございます」

 大丈夫の意味はどちらなのか。黒江のことを心配しているのか、唯のことを心配しているのか。多分両方なのだろうと思い、黒江は礼を言った。


 「唯さん……今日も起きないな」

 「はい」

 「その……」

 「教授は怒っているんですよね?」

 真鍋が言いにくそうに口を開いたので、黒江は先を読んで言葉を継いだ。

 「いや、胸中は複雑だろう。紛れもなく世界初のナノ・サージャリーの成果だからな」

 「ファンクショナルMRIを行ってみたんですが、脳の機能は――特に修復した方は動いているはずなんです。脳波上は、ただ眠っている状態に近い……」

 「脳全体、はっきり壊れていなかった側にも微細脳損傷があったと考えた方がいいのかもしれない」

 「そうですね……それより、先生が仰いたいのは、次の問題ですよね。僕の立場と、妻の入院のことですね」

 「うん……」


 最高学府であり研究機関である大学として、黒江をどう扱うべきなのか。

 また、三次救急の病院として唯の入院をどうするのか。


 解雇や左遷で黒江を処分することもできるはずだった。ところが、黒江は先手を打っていた。

 英語でオンライン学会雑誌に簡単に報告しておいたのだ。

 しかも、この報告の仕方が絶妙だった。

 ネイチャー・メディスンやランセットといった有名な雑誌には発表しなかったのだ。

 そういった雑誌は審査が厳しく掲載までに時間がかかる上に、マスコミの注目を浴びてしまう。

 マスコミは、医学研究に関して、その研究が本当に価値あるものか、内容の信憑性など分からずに報道する傾向がある。

 もちろん黒江は軽率な馬鹿騒ぎにして欲しくなかった。敢えてこのような発表の仕方で、専門家にだけきちんと評価される方法を選んだのだ。

 その道のプロフェッショナルなら分かる、世界初のナノ・サージャリーを行った試みの価値。研修や実験提携、見学の申し込みが続々と来ていた。

 厄介であるが切り捨てるには惜しい――黒江を簡単にクビにしたり左遷するわけにはいかなくなってしまった。

 黒江は学内での自分の立場を守ることで、唯の治療が継続できるようにしたのだ。


 むしろ問題は、唯の入院だった。保険制度上、三次救急病院でリハビリ目的となった患者を長期入院させることは難しい。例え治験の被験者であるとしても、だ。


 黒江はすでに次のことを考えていた。

 

 「先生、……唯を国立神経精神医療研究センターの附属病院に転院させて下さい」

 黒江はしばらくためらっていたが、一気に言葉を発した。

 「なにっ!? それは……あそこはうちの学閥じゃないし、入院させて下さいって言っても、はい、いいですよとは……」

 「すみません。この病院で出来ることはここまでです。ここでは、唯の目を醒ますことはできません」

 「それは……」

 「ここにいるのでは、こいつは、ただナノ・サージャリーが行われた証拠――展示品になるだけです」

 その通りだった。

 神経内科や精神科の教授、学外の見学者がしょっちゅうやって来るが、何か有効な治療があるわけではない。

 「何をするつもりだ?」

 「あそこには、国内で最も処理速度が優れたヴァーチャル・リアリティの脳解析システムがあるんです」

 黒江の眼は手術の時の様に――狂気と激情がない交ぜになっているように見えた。必死なのだ。

 「ヴァーチャル・リアリティ? 一体そんなものを何に使うんだ?」

 「詳しくは説明できませんが――脳内の電気活動を可視化して、彼女の意識にアクセスできるかもしれません」

 

 真鍋には、すでに黒江が何を考えているのか理解できなかった。

 発想が一般の学問常識を完全に逸脱、超越してしまっている。


 「それで、お前は、どうするんだ?」

 「……ご恩を仇で返すようですが、あちらに就職します」

 「医局の人事を出るのか? お前、そんなことしたら下手するともう二度と県内で就職できないぞ」

 「もとより覚悟の上です」

 「……本気なのか? だが、できるのか?」

 「唯の治療について、文部科研費(文部科学省科学研究費)を申請します。これと今回の実績を――エサにして、向こうにメリットをちらつかせるつもりです。僕を就職させれば、向こうの病院の業績が増える、と」

 いやらしい、半ば卑劣なやり方なのは黒江も自覚していた。

 だが、もう他に選択肢はない。

 「お前、そこまでして……」

 「どうもすみません。先輩や、皆さんにお世話になったことは忘れません。でも、僕は……どうしても唯の目を醒ましたいんです」


 真摯に頭を下げる黒江に、真鍋は何も言えなかった。

 大学人としては彼を引きとめて、この大学の実績、手柄とすべきなのかもしれない。だが、一人の人間として彼の気持ちが痛いほどわかるのだ。

 

 ***


 そして、さらにひと月後。

 変わらぬ容態の唯を看続ける黒江の下に、国立神経精神医療研究センター附属病院から採用通知が届いた。


 「良かった……」


 黒江にしても要望が通るかどうかの確信はなかったのだ。だが、取りあえず神経外科の医員としての採用と唯の転院は認められたのである。

 総務課に電話して確認すると、院長よりむしろ理事の一人が強力に推薦してくれたのだという。

 

 「捨てる神あれば拾う神あり、だね」


 黒江は唯の枕元で手紙を読んだ。

 唯は目を閉じたままだ。

 辞めて転勤したいという要望を示した途端に、手のひらを返したように態度を変える人たちがいた。唯の治療によって実績を得ようと接近してきた人たちだ。黒江は彼らの悪意と戦うことに疲れ切っていた。

 真鍋は内心応援しているとは言ったものの、公に黒江を支持する態度は表明できない。

 鉄の掟と称される医局制度の秩序を乱した黒江には、陰に表に同僚達の罵声が浴びせられた。


 国立神経精神医療研究センターは、自宅から何とか車で通勤できる。

 本来は四月か十月が転勤採用の季節だ。

 しかし、唯の付添と急患対応のため、研修医用の寮を一室借りて、身の回りの物だけを持って退院を急ぐことにした。


 十二月に入ってからほどなくして、黒江は唯を連れて慣れ親しんだ職場を出た。

 休日の救急外来に自家用車を駐車し、病棟看護師に手伝ってもらってストレッチャーに彼女を乗せた。


 急変する状態ではないので、救急車を使うことはできない。

 寝台タクシーを手配しても良かったが、自分の手で連れて行きたかった。


 見送りなどいない。

 義母と義弟は手伝ってくれると言ったが、固辞した。


 中心静脈点滴をつないだまま、横抱きにして自家用車の助手席に乗せた。

 点滴のバッグはドアの上のアシストグリップに針金で引っかけた。


 「どうもありがとうございました」


 神経外科の看護師は軽く頭を下げ、ガラガラと音を立ててストレッチャーを運び去って行った。


 「さあ、唯、行こうか」

 唯は何も答えず、目を閉じている。

 いつも使っていたフリースのひざ掛けを体に掛け、シートを倒してベルトを締めた。

 唯は長い睫毛を伏せたままだ。首が力なく傾く。

 手術のために剃っていた亜麻色の髪は、ようやくベリーショートほどの長さになっていた。頭の保護のために、昔オーストラリアで買ったメリノウールのニット帽をかぶせてある。

 点滴が無ければ、ドライブ中に眠ってしまったように見えた。


 「ああ……もう、クリスマスなんだね」

 病院のモミの木に、クリスマスのデコレーションがしてある。

 「去年は――レストランに食事に行ったんだっけ」


 黒江はゆっくり車を発進させた。

 大丈夫とは思うが、あまり振動を与えたくない。

 ロータリーを回り、務め慣れた職場を後にした。


 風景が流れ、都内へと向かう高速のインターチェンジに向かう。

 ほとんど病院にいたので季節感がなくなってしまったが、街のあちこちでクリスマスの飾り付けがしてあった。


 繁華街のイルミネーションの準備。

 街に連れだって出かける家族。

 サンタクロースやトナカイのパネルや人形。


 ふと、白いものが空から降ってきた。

 車のフロントガラスに一つ、二つと舞い落ちる。


 「初雪か……ホワイトクリスマスになるのかな」

 唯は雪が好きだ。雪を見ると、いつも無邪気に子犬の様に喜んでいた。

 だが、今は何の返事も返ってこない。


 「また一緒に見よう」

 いつか、一緒に見ることができるのだろうか。

 そんなことは分かる筈もなかった。


 黒江はワイパーのスイッチを入れた。

 徐々に白くなっていく視界の向こうに目を凝らした。

 その風景は、これからの二人の行方に似ていた。


  ***


 黒江が転勤して一月が経った。

 まだ年明けの慌ただしさが残る神経精神医療研究センターの、特殊治療室に唯は居た。

 相変わらず、まるで寝ているように安らかな寝息を立てている。

 彼女の眼が意志の光を宿し、開くことは決して無かった。

 手足の関節が拘縮(固まること)することを予防するため、午前は理学療法士、午後は黒江自身が体を動かしてほぐしている。


 黒江はその隣にある部屋にいた。周囲には複数のモニタが設置され、頭にヘルメットの様な機械を被っている。座っている椅子は歯科の治療用、あるいは理髪店の椅子に似たがっちりした物である。椅子の各所から端子とコードが伸びていた。


 「それでは、今から機械を起動します。何かあったらインカムに喋ってください。いわゆる一般のVRマシンとは違って、基本的には半覚醒状態です。対象者に話したくないことはそれ――」

 臨床工学技士メディカル・エンジニア――MEの国島くにしまは、椅子の肘かけについたボタンを指差した。マウスのように、人差指と中指の当たる場所に一つずつボタンがついている。

 「――を押してもらったら、こちらにだけ話すことができます。先生は、これまでVRマシン――ナーブ・スティミュレータとか使ったことあります?」

 「いや、実はないんだ」

 唯と違って、黒江はゲームはやらない。子供の頃少し遊んだ程度である。

 「うわ、先生ってアナログっスね! マグナ・スフィアとか凄いんですよ!」

 「ああ、妻が前にやりたがっていたな……ものすごい画像解像度と処理速度らしいですね」

 「あれほどの精度じゃないけど、うちの機械もなかなかのものっスよ。俺は、ブレインダイブって呼んでます」

 「国島君、またそのSFみたいな呼び方するんですか? やめましょうよ。VRPI(バーチャル・リアリティ・サイコロジー・イメージング)っていう名前がちゃんとあるんですよ」

 心理療法士の谷安たにやすが国島に抗議した。彼女は東南アジア系のハーフで、フルネームはマリーン・ハリム・谷安である。黒縁の眼鏡がよく似合っている。

 「分かってるよ、マリーン。でも、こっちの方がカッコいいじゃん。じゃあ黒江先生、始めますよ。そのうち操作に慣れたら一人でできると思いますけど……」

 国島はモニタに向かい、機械の操作を開始した。

 「いいですか、もし何かあったら、機械は止めてもらいます。セーフハウスが形成されているかを確認すること、本人の自我が保たれているかを確認するかが今回の目的です。多くのことを一度にすると、唯さんに負担をかけますから、無理はしないでください。判断に困ったら私に相談してください」

 「わかりました、ありがとう。谷安さん」


 転勤してから少しは人間関係の軋轢があると思っていたが、それは一部の医師だけで、特にコメディカル達は皆黒江に協力的だった。

 黒江は椅子に体を預け、肘掛にしっかり前腕を乗せた。

 フイイイイン……と、軽い作動音が聞こえてくる。

 目隠しの様になった目の前の湾曲した非透過性のバイザーを見つめると、徐々に視野の中の点が後ろへ後ろへと流れていく。

 昔見たSF映画のスーパードライブ――星間高速移動のシーンのようだ。

 ゆっくり自分の体の感覚がぼやけていくのが分かる。


  ***


 唯の意識はない。

 少なくとも、明瞭な意識はない。

 だが、黒江は考えた。


 脳において、‘自我’というものはごく初期に形成される。

 自分と他人が違うものであること、自分と周りの世界とは違うということ。

 だからこそ赤ん坊は手を伸ばして様々なものを触れ、それを確認しようとする。

 閉じ込め症候群という現象がある。

 脳に損傷を受けた場合に、見えたり聞こえたりするにもかかわらず、体を動かせないために全くそれを意思伝達できない状態である。金縛りに近い状態と言ってもいいかもしれない。

 ならば、唯の自我も脳内にすでに回復しているのではないか。

 PET(ポジトロン断層撮影)やfMRI(機能的MRI)では、活発な脳活動が見られる部位も多かった。


 この病院が誇る治療用VRマシン――VRPIは、意識不明患者や、重度の統合失調症で閉じこもり状態にある患者にも効果を挙げていると聞いていた。

 人間の意識も脳の電気活動に他ならない。脳の電気的データを組立て、患者の意識に直接アクセスすることにより治療を行うのだという。

 脳とコンピュータをつなげて、小さな‘仮想世界’を作り、その中に治療者が入り、干渉することができる。乱暴に言えば、意思疎通困難な患者の脳の中に入ることができる機械なのだ。 


 もし、それが可能ならば……


 ***


 『はい、接続されました。先生、見えますか?』

 耳元で国島の声がする。

 黒江は思考を中断し、辺りを見回した。


 「あ……ああ……」


 黒江の前には自宅の建物があった。

 山小屋風と和モダンを混ぜた三階建て。

 家の前の駐車場には、唯がいつも乗っているチョコレート色の丸っこい電気自動車が停まっている。

 非常にリアルな3Dアニメーションを見ている感じに近い。自分の体を見ると、やはり滑らかな三次元画像に変化していた。先日全身CTを行ってスキャンしておいたデータをもとに構成した画像イメージなのだ。

 ヘルメットの中でやけに自分の呼吸がこもって聞こえるので、ゴーグルをつけてダイビングをしている様にも思える。国島が、‘ブレインダイビング’と言う言葉を使う気持ちが分かる気がした。


 「うちがある……」


 『こちらも視覚野のデータを拾って、先生の視野を共有しています。そうッスね、あらかじめ預からせてもらったご自宅のデータとほぼ合致しますね』

 国島の声がした。

 『周りはどうですか?』

 今度は谷安の声がする。

 

 「遠く離れた場所にぽつぽつと家があるようです。彼女が昔いたフランスの家や――近所の家もあるようですし……映像がはっきりしているのは敷地の中だけです」


 『では、唯さんのセーフハウスはおそらく、その家です。自我を最も安定して保ち、寄る辺とする場所ということですね。他の家との距離は――現実世界、外界との距離、関わりを現すと考えた方がよいでしょう』


 この病院の精神科の医師と心理療法士は、VRPI世界の‘自我を守る精神の殻’のようなもの――往々にして、家の形をしているということだ――を、セーフハウスと呼んでいた。

 この機械のせいで、古典的なフロイトやユングの心理学の大部分が否定され、また再評価されたところもあると聞く。一般の人間が思うほど精神科と心理学は近い学問ではない。心理学の理論は臨床での実際の患者の治療とはかけ離れているところが多く、長年精神分析は診療の補助にしかなっていなかった。VRPIは、その溝を埋める機械とも言われているという。


 「これは、異常なのでしょうか?」

 全くの専門外だが、学生時代に興味で読んだフロイトの著書『精神分析入門』を思い出しながら黒江は谷安に尋ねた。


 『いいえ。部屋一つしかないこともありますから、しっかりしている方でしょう。統合失調の患者さんの妄想の中とかはもっと混沌としていて、自我を探すのが大変です。蛇や怪物の様な、恐怖や不安を示すモチーフもありません。脳梗塞の患者さんに近いセーフハウスのパターンです』


 「では、入ってみます」


 『無理はしないでくださいね。無理やり開けると、抵抗してしまって自閉現象がひどくなることもあります』


 黒江はドアに手をかけた。

 現実世界の自宅は生体認証のドアなのだが、鍵をかけているのかいないのか、それは普通にガチャリと音を立てて開いた。

 玄関に入ると、靴を脱いで――いつの間にか、普段通りの格好をしているようだ――、自分用のスリッパを履いて上がった。

 

 「僕のスリッパがありました」

 『いい傾向です。おそらく、自我の中に先生の存在が確固としてあるということです』


 ……これが、‘唯の世界’……


 黒江はフローリングの床の感覚を踏みながら前進した。

 子供が生まれた時に子供部屋にしようと相談していた右手の部屋と、来客用の奥の和室には誰もいなかった。


 「一階には誰もいません。二階に上がります」


 『もしできたら、唯さんがいつもいた場所に行ってみてください』


 黒江はゆっくり階段を上がった。

 いつもいた場所。

 すぐに思い当った。

 二階はリビングダイニングになっている。

 昼下がりの穏やかな日差しが部屋の中を照らしていた。

 台所と、もう一つ彼女が好きな場所……

 南の窓際にあるソファだ。

 南側の窓は家の中で一番大きい窓で、テラスに続いている。

 唯のお気に入りの場所だ。いつも寝転んでゲームをしたり、本を読んだり、座って洗濯物を畳んだりしている。

 

 黒江は二階に上がり、ゆっくりリビングダイニングを見回した。

 キッチンとダイニングテーブルには唯はいない。

 テーブルの上に携帯電話、壁には固定用電話がある。


 『電話がありますね。外部からの交信を拒絶しているわけではない証拠です。これなら、意識内に電話を掛けることも多分できますよ』

 幾分明るい谷安の声がした。


 黒江はもう少し進んで、ぐるりと部屋の中を見回し、息を呑んだ。

 ソファの上には――唯がいた。

 写真に近い精度のCGではあるが、間違いない。

 唯はソファの上で寝ていた。

 事故の日に着ていたのと同じ服で、体にフリースの毛布をかけて静かな寝息を立てている。


 「いました……」

 『寝ていますね……これは、想定内です。ですが、どうしますか……これで引き返しますか?』

 「もう少しだけ近づいて見ます……」


 熊耳のついたパーカーに、マキシ丈のスカート。

 髪の長さは肩甲骨の下くらいまでで、これは現実世界の本人の姿よりも長い。

 黒江は枕元――床にひざまずいて顔を見た。

 丸くなって横向きに寝ている。

 携帯ゲーム機が枕にしているソファの横に転がっていた。

 黒江は手を伸ばした。

 

 『先生、あまり過干渉はやめた方が……』

 谷安の声が耳元でするが、聞こえていなかった。

 いや、堪えることができなかった。

 黒江はゆっくり髪を撫でた。

 長い睫毛が揺れた。

 「う……ん」

 唯は薄目を開いて頬を少し赤く染め、にっこりと笑った。

 「唯……」

 黒江はつぶやく様に名前を呼んだ。

 「おかえりなさい……仕事は、どうしたの?」

 仮想世界ではあるが、二か月ぶりに聞く妻の声だった。

 黒江は胸にこみ上げてくる想いに、言葉を詰まらせた。


 『黒江先生……会話の辻褄を合わせて下さい……』

 谷安の静かな声が聞こえる。

 

 「当直明けでしんどいって言ったら、休憩をもらえたんだよ。いつもは、ほら、夕方までぶっ続けで働くけど……でも……また、夕方には病院に行かなくちゃいけないんだ」

 

 「たいへんね……いつも」

 唯は少し心配そうな顔をした。 

 「……眠っていたのに、来たのがどうしてわかったんだい?」

 「だって、せんせいの足音がしたし、手の感じがせんせいのだったよ。大きくって、柔らかくって。私、この感じ好き」

 唯は黒江の手を取って、自分の頬にあてた。

 黒江は彼女の祖母の主治医だったので、付き合い始めてから結婚するまで‘先生’と呼ばれていたのだ。

 黒江の手に、唯の頬の温かさが伝わる。

 「泣いているの? どうしたの」

 いつの間にか、涙が出ていたようだ。

 黒江は仮想世界の中で、非現実の涙をぬぐった。

 「私、すごく怖い夢を見ていたよ。朝、お見送りして、せんせいがなかなか帰ってこないの。ずっとずっと帰りを待っていたのに……」

 「淋しい思いをさせたね。……ごめん」

 半覚醒状態の黒江は、現実世界の自分の頬を伝う涙を感じ取っていた。

 死の縁から蘇らせ、この空虚な空間に彼女を一人ぼっちにさせていたのだ。

 これで正しかったと信じていても、自分がしたことの正しさを疑ってしまう。


 「でも、こうやって帰って来てくれたから、大丈夫だよ」

 唯はにっこり笑ってソファから体を起こした。

 「また仕事に行くの? 二時間くらいは休める?」

 パタパタと歩いてキッチンに向かうと、エプロンをつけて食事の支度を始めた。


 「唯……」

 「なあに?」

 

 国島や谷安がモニタリングしているのは分かっていた。

 過干渉が必ずしもいい影響をもたらさないことも分かっていた。


 黒江はキッチンに立つ唯を後ろから抱きしめた。

 

 VRPIは、触覚は一部しか再現できない。

 だが、腕の中のぬくもりは間違いなく唯の物だった。


 「どうしたの?」

 

 現実ではないと知りつつ、ずっとこうしていたかった。

 「ずっと一緒にいたいね」

 出来る筈ないと知りながら、この一瞬が永遠であるように願って黒江は手に力を込めた。 


 唯は自分を抱きしめる黒江の手を抱きしめ返した。

 「でも、お仕事に行かなくちゃ」

 くるりと腕の中で体を回転させ、黒江の顔を見上げた。

 「君は……一緒に外出しないかい?」

 「……お外は怖いもの」

 唯は不安そうに眉をひそめた。


 これ以上は、言うべきでないのかもしれない。だが、黒江の心は逸っていた。

 一刻も早く、目覚めて欲しい。

 現実の世界で彼女と会いたい。

 言葉を交わし、この笑顔が見たい。

 ……もう十分に待ったのだから。 


 「結婚記念日のことは、覚えてるかい?」

 「結婚記念日のこと?」

 「家で食事をしようって……」

 「あ……」

 「唯?」

 唯の様子がおかしくなった。

 小刻みに体が震えはじめた。

 それとともに、家全体が地震の様に揺れ始めた。

 陽だまりの部屋の中が、夜になったように暗くなる。

 

 「唯!」


 黒江は叫んだ。

 腕の中の唯のぬくもりが消えて行く。

 黒江はそれを必死でつなぎとめようと、抱きしめた。

 しかし、すべては闇の中に塗りつぶされていった。

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