第86話 15-2 ナノ・サージャリー

 数時間後、黒江は神経外科の医局、クリーンルームの実験室でアイスボックスを開いていた。

 中には、集中治療室(ICU)で採取した唯の脳組織と血液、骨髄が入っている。

 脳は挫滅しているので、頭蓋骨骨折部の隙間から太い針を刺して注射器で吸引するだけで組織を採取できた。

 ふつう局所麻酔でやる処置ではない。

 というよりも、前代未聞だろう。ICUの看護師が唖然としていた。


 アイスボックスの中には実験用のクラッシュアイスと、それで冷却した組織培養用の滅菌容器が入っている。透明のプラスチック製で、首だけ甲羅から出した亀のような形をしている物だ。


 クリーンベンチ――清潔操作用の特殊な実験台の中で容器を慎重に取り出した。

 電動ピペットのボタンを押す人差し指と中指に細心の注意を込めて、液状になった組織を酵素処理してグリア細胞――神経の栄養と支持を行う細胞――と、神経細胞、血管内皮細胞、線維芽細胞などに分離する。


 傍らには今後の全てのプランをまとめた大学ノートと携帯端末がある。黒江はアナログ型人間と揶揄されるが、実際に手で書いてアイデアをまとめるのが好きなのだ。


 「すべて音声レコードで、記録に残す」


 音声作動で、携帯端末の録音モードのスイッチが入った。


 「……CD34,CD133抗体を用いる。骨髄幹細胞、血管内皮前駆細胞、神経幹細胞は磁気ビーズおよび、フローサイトメトリーによるセルソーティング・蛍光抗体処理により分離。培養流路用の潅流液は、生理食塩水。自家ヒト血清およびFBS(ウシ胎児血清)の最優秀ロットを一〇%、NGF(神経成長因子)、BDNF(脳由来神経栄養因子)を混合したダルベッコ改変培地を用い、分離細胞懸濁液を作成した。これより、組織培養実験用三次元プリンタに注入」


 組織培養実験用プリンタ――昔でいうところのドットインパクトプリンタか、業務用のレーザープリンタ並みの大きさだ――のスイッチを入れた。

 

 「流路は次亜塩素酸ナトリウムで洗浄。プライミング完了」


 プリンタのカバーをあけ、ポリタンクを五個取り出した。中に細胞の入った液体を注入する。


 「細胞別にタンクに充填。血管柄けっかんへい付き脳神経組織をデザイン。血管柄の長さは余裕を持って二センチメートル。いざとなれば血管移植のドナーに用いる。直径二センチメートルの栄養血管つき脳組織を、五十個作成する。神経組織は壊死が予想されるため、口腔粘膜、血液、および損傷脳から採取した細胞にヤマナカ因子を導入して初期化後、神経幹細胞へ分化誘導し混合。また、細胞密度は一平方ミリあたり十の六乗個」


 黒江は全てのポリタンクを機械の中に収め、接続されているタワー型パソコンを操作した。

 三次元プリンタが低い音を立てて作動し始めた。インクジェットプリンタと同じ仕組みで、細胞を印刷――指定された位置に配列して組み立てていくのである。 もちろん、配列するだけで機能するわけではないが、基礎技術は二千年代に確立されている。

 大きな塊状の脳を作ることは組織作成プリンタでは難しい。神経接続を再現させるのが困難で、時間がかかり過ぎる。だが、小さい物なら、早くできるはずだ。


 「作成後は組織培養液で保存。――完成は六時間後か……」


 明日は日曜日。

 手術助手は――オンコール(当番)の若い医者に頼もう。

 確か中堅どころ――早見だった。

 基本的に微小外科は、執刀医がメインなので問題ない。

 同意書は用意して自分でサインした。

 世界初の、実験的治療。しかも、動物由来やヒト用でない無い実験系も併用している。

 本来は、倫理委員会を通して学内審議にかけなければ、できる治療ではない。というか、かければ承認が下りない可能性も高い。

 だが、そもそも審議などは待っていられない。

 唯の脳が全て機能を失う前にやらなければならないのだ。

 あと五〇時間ほど……

 唯の母と弟には電話した。彼女は母子家庭なので、主な肉親はこの二人だけだ。口頭とメールで同意をもらっている。

 最低限の了承は得ている――もちろん、二人ともこれから何が行われるのか、ほとんど理解していないのかもしれない――いや、説明しても分からないかもしれない――この自分でも、何がどうなるのか分からないのだ。

 だが、やらなければ彼女は死ぬ。

 

 死なせない。

 絶対に死なせない……


 三次元プリンタが低い音を立てる。

 腕組みをしながらモニタを見つめていた黒江はいつの間にか眠りに落ちていた。


 ***


 午前六時。

 黒江は時計アラームもかけていないのに、目を開いた。

 興奮しているのと、体内時計に強い意志が作用しているせいなのだろう。

 三次元プリンタはまだ作動している。


 「午前六時。組織が全部完成するまで、あと五個」


 ここで黒江は携帯端末を一旦止め、クリーンルームを出た。

 医局にはまだ誰もいない。

 休みでも大学院生が実験や診療のためにやって来ることがあるが、それにしても早朝過ぎるようだ。

 ミーティングルームに入り、電子カルテの端末を立ち上げた。

 それと同時に院内電話をかけた。


 緊急手術を申し込む。

 予想手術時間十六時間。予想出血量千ミリリットル。

 麻酔科医はそれだけで驚愕した。

 電話の向こうの声が上ずり、ひっくり返っている。

 この手術を行えば、この病院の手術室はもう他の手術は出来なくなる。下手をすれば月曜日の予定手術まで出来なくなるかもしれない。

 難色を示したが、最後は押しきった。

 どうしても駄目なら、麻酔管理室に行って土下座をします――そう言ったのが効いたのかもしれない。

 電子カルテに必要事項を入力し、緊急手術を申し込んだ。麻酔科の医局長クラスだったら、手術が妥当かに疑問を抱かれ、受けてもらえなかったかもしれない。だが、今日は日曜日だ。主に若手が当番をしている。

 

 あとは時間が来るのを待つだけだ。

 黒江はもう一度瞑目し、頭の中に解剖図を再現した。

 手術の予行演習をする。

 指先が細かいタッチで宙を動いた。


  ***


 キーホール(鍵穴)手術や、カテーテルによる血管内手術の発達から、脳を大きく開ける開頭手術はめっきり減った。

 助手の早見は眼を白黒させていた。

 昔ほどではないにしても、外科系は徒弟制度で技術を覚える。体育会系気質で上級医の言う事は絶対だ。

 黒江は言葉少なく、最低限の事しか言わない。

 リラックスが大事というので、いつもは余程難しい操作の時以外は喋りながらのんびりと――手先は凄まじい速さで動くのだが――手術をしている黒江の様子とはあまりにも違っていた。

 ピリピリと張り詰めた雰囲気が漂う。

 エアトーム(空気動力式ドリル)を使って頭蓋骨を外し、骨折した骨片を除去。硬膜を除去した後から、ほとんど何も話さなくなった。


 「手術用顕微鏡マイクロを入れて下さい」


 看護師が顕微鏡を押す。

 顕微鏡といっても、電磁ロック式のクレーンに吊り下げられた全長三メートルほどの巨大な手術用顕微鏡である。重さは一トン以上。

 小柄な女性の看護師だったので、唸りながら手術台に寄せている。

 黒江は顕微鏡の鏡筒の横についたハンドスイッチを握った。

 構造的には、潜水艦の潜望鏡に似ている。グリップを握り、細かく指先で倍率や焦点を操作できるのだ。透明の滅菌カバーが掛けてあるので、ガサガサと音を立てた。

 黒江は双眼の接眼レンズを覗いた。

 挫滅して壊死した大脳の組織と、損傷した前大脳動脈の分岐が見える。

  

  「五百ミリリットル生食(生理食塩水)に一バイアルヘパリンを溶解して、ヘパリン生食を作って下さい。十CCの注射器に入れて、涙嚢ヒーロン針をつけて下さい」

  

  手術直接介助――チョッカイと呼ばれる看護師が、言われた通りの物を黒江に手渡した。黒江は頭蓋内の血腫を吸引して除去し、ヘパリン生食で内部を十分洗浄する。


  動脈内の血栓を除去し、血管内を十分洗浄した。損傷部の直径は約1.5mm。


 「8-0ナイロン糸を下さい。玉井式の黄色の動脈クリップと、生田式微小血管クリップを下さい。」

 

 血管内皮――血管の内側を形作っている壁が損傷している。血管専用のクリップをかけてから損傷個所を2ミリほど切除し、八針縫合――吻合して修復した。壁に一針一針糸をかけ、円形に縫い合わせて行くのである。

 時間にして、約七分。

 全く淀みのない動きだった。

 

 「早い……」

 早見が思わずつぶやく。黒江の血管吻合は、ずば抜けた早さなのだ。研修に来る発展途上国の医師に話を聞くと、これだけで一晩かかってしまうという。空間認識能力が優れているので、物の形を三次元的にとらえることができる。正面から真裏を縫い合わせ、太さの違う血管も大きさをそろえて黙々と縫っていく。

 自動血管吻合装置、吻合ロボットというものは確かにある。だが、縫いやすいように血管を整えたり機械に設置するのは結局人間の仕事なので、総合的な時間を計算すると人間が直接縫い合わせる方が速くなるのである。


 早見の言葉を全く聞いていないように、黒江の指先は淡々と動いていた。

 完全に壊死してしまった大脳組織――そのほとんどは脂質だ――を取り除き、損傷した血管が出てきては修復する。


 「移植組織を下さい」


 組み立てられた小さな脳組織は、尻にコードがついた電球の様な形をしている。

 「ここは、フロースルー型吻合にする」


 T字型に分かれた血管分基部の先に、移植組織を設置した。もとの形に近い血液の流れを再現するつもりなのだ。黒江は機械のように動脈と静脈を吻合していった。

 

  ***


 真鍋が異常事態の連絡を受けたのは、夕飯を食べようとしている時だった。

 妻と、双子の男の子と女の子二人。

 一家団欒の食卓を囲もうとして、ちょうど黒江の事を思い出したところだった。もう黒江がこんな幸せな食事をとることはできないのかと思い、ここのところめっきり涙もろくなった真鍋は目頭を熱くしていた。

 黒江は入局した頃から良く知っている後輩で、大変優秀な男だ。研究や実験もできるが、手術については抜群の才能を持っている。優秀すぎて、日常生活には無頓着であり、時には冷たいとすら感じることがあった。

 ところが結婚してからは随分人間が柔らかくなった。逆にそのことが出世を遠ざけてしまうのではないかと揶揄したこともある。だが、『そのように妻に変化させられた自分が嫌いでない』と惚気のろけの様な言葉が返って来たのをよく覚えている。

 ……妻の死を受け入れるのはさぞ辛かろう。

 明日から数日休暇扱いにして、救急のシフトも外してやらなければ……そこまで考えた時に、電話が唐突に鳴った。


 電話の相手は麻酔科の医局長だった。

 話を聞いた真鍋は愕然とした。

 

 血管柄付き培養脳移植。


 黒江が前代未聞の術式を、手術室を十時間以上占拠して行っている。

 患者の命を預かっている以上途中で麻酔を中止するわけにはいかないが、このまま手術を進めれば大問題になるのではないか、と。


 神経外科の教授と第一準教授は現在出張で不在だ。最高責任者である真鍋は慌てて駆けつけたのである。


 手術着に着替え、二十部屋からなる大学病院の手術室の中央廊下を急ぎながら、真鍋はどう言ったらいいものか考え込んでいた。

 キックスイッチを蹴り、件の手術室の自動ドアを開けた。

 看護師、そして困ったような顔の若い麻酔科医と、怒った顔の麻酔科医局長が真鍋を見た。

 手術室は静かだ。

 心電図モニタの電子音と、麻酔器が酸素を送りだす規則的な音だけが響いていた。

 巨大な顕微鏡マイクロに向かって立つ黒江が、必要な手術器械を指定する声が時折する。

 

 「真鍋先生……」

 麻酔科の医局長、讃岐が声を潜めながら真鍋に言う。

 「いや……実際のところ、家族を救いたいという彼の気持ちは分かります。分かるんですが、しかしこんなことをしても……」

 讃岐の言いたいことはよく分かった。人工的に組み立てた脳を損傷した場所に詰め込んでも、機能するはずがない。十数時間かけて危険で無謀な実験をしているとしか言いようがなかった。

 

 「……そうですね、いや、ちょっと失礼……」

 

 手術室備え付けの端末にIDを打ち込み、電子カルテを立ち上げて治療プランと同意書を確認した。

 説明者は黒江、同意してサインしているのも黒江。

 手術室の私用。

 実験室の機材の無断借用。

 動物実験用の試薬や薬剤を人間に使用したこと。

 倫理的な問題がありすぎると言わざるを得ない。


 ため息をつき、真鍋は手術中の黒江に声をかけた。

 「黒江……あのな……」


 「真鍋先生、少しだけ待って下さい」

 いつの間にこちらを見ていたのか、黒江は静かな言葉で答えた。

 

 手術用顕微鏡には助手の看護師や麻酔科の医師が見るため、あるいは見学者が見るためのモニタが接続されている。

 微細な術野の情報を共有して手術を行うためだ。

 キセノンランプに照らされ、約二十倍に拡大された画面には、12-0といわれる髪の毛より細い糸を把持する持針器と、ピンセットの先が映っている。

 血液を遮断された白い血管の太さは0.4mm。僅かに揺れるピンセットの先をコントロールしながら、的確に血管が縫合されていく。

 血管を支えるとともに一時的に血流を止めるためのクリップを外すと、吻合された血管に血液が流れ、鮮やかな赤色に変わった。血管が膨らみ、見事に血流が再開する。ここまでわずか数分。

 ‘スーパーマイクロサージャリ―’といわれる技術だが、専門医の自分から見ても化物じみた速さではある。


 「これで五十個の移植組織全部に血流が入りました」

 黒江はストレッチのように指を動かしている。

 助手の早見は青ざめていた。当然昼食も夕食も、トイレにすら行っていないに違いない。

 

 「だが……黒江よ、こんなことをしても……唯さんは回復しないぞ。神経を繋げないんだから、脳機能は回復しない……お前は……判断能力を失っているんだ……」

 真鍋は苦しそうに言葉を紡いだ。


 「いいえ……あれを使います。実験室から運び込みました」

 黒江は部屋の隅に置いてある機械を指差した。二重の滅菌マスクに覆われた口から、くぐもって低いがはっきりとした声が発せられた。


 高さ二メートル程の細長い楕円形の筐体に、ドーム状の白い天蓋が二つ左右に取り付けられている。天蓋からは極小のロボットアームが無数に伸び、ハリネズミのように見えた。


 「なっ! 何だと? お前、まさかあれを使う気か? あれはまだ実験段階だろう?」

 真鍋の表情が一変した。


 「真鍋先生、私は門外漢なので……黒江先生は何をする気なんですか? あの機械は何ですか?」

 讃岐が二人の顔を見比べながら尋ねた。


 「ナノ・サージャリー用手術支援ロボット‘アバロキティ’、通称‘千手観音’です」

 真鍋の代わりに黒江が答えた。彼こそはこの機械の第一人者なのだ。

 「ナノ……サージャリー?」

 「細胞膜、あるいは細胞質をつなぎ合わせ、縫い合わせるための機械です」

 「さ、細胞同士を?」

 「人工授精のピペット、遺伝子操作でのRNA注入、二千年代から研究開発されてきた機械です」

 「神経軸索を――樹状突起を、もしかして神経間結合シナプスまで手でつなぎ合わせる気か!?」

 

 神経細胞は木の枝や根のような形をしている。

 樹状突起と呼ばれる枝分かれは入力信号を受け取るアンテナで、それを出力して信号を送るのが軸索と呼ばれる長い枝だ。

 脳の中にある神経細胞は、細胞同士でこの枝や根を複雑に繋ぎ合わせ、電気信号を行き来させることによって高度な情報処理を行っているのだ。


 「ちょっと待て、大脳の神経細胞は数百億、一個が平均数万個のシナプスを持っているだろう?」

 「損傷部位と、移植組織ブロックの主な部分だけです。それに糸で一針一針縫い合わせるのではありません。リン脂質に電気的な操作をするだけですから。ご迷惑をおかけします、讃岐先生。ですが、あと八時間下さい」

 静かな口調で喋ると、黒江は両手を握り合わせて頭を下げた。

 周囲の物に手が当たって不潔にならないようにするための動作なのだが、まるで祈っているように見えた。

 

 きっと、数億個でも数兆個でもこの男はやり抜くことをもう決めているのだ。

 真鍋も讃岐もそれを悟った。

 無謀な賭けで終わるのか、奇跡が起こるのかは分からない。だが、こうせずにはいられないのだろう。

 医師としての使命感なのか、妻への愛情の発露なのかは分からなかった。

 愛情と言うにはあまりにも激しすぎる。狂気に近いのかもしれない。

 だが、彼の必死の覚悟に少なからず畏敬の念を払わざるを得なかった。


 「……八時間ですね。分かりました。では、麻酔科はここで私に交代します。脳血流量は落とし、過換気でPaCO2を減少させるのは継続します。長時間の麻酔になって来れば、熟練者の方が安全でいいでしょう」

 讃岐の口調が改まった。


 「なら、早見、俺に代わって休憩しろ。また閉創の時には入ってもらう。少しでも早い方がいいだろう」

 真鍋の命令に、早見はほっとした顔を見せた。こんな長時間複雑な手術の第一助手を務める事など、彼にとっては初めての体験だったのだ。

 「あ……ありがとうございます」

 早見の足元は少しふらついていた。滅菌ガウンと手袋を取って手術室を出て行った。

 

 背の低い真鍋は足台を準備させ、手術用の滅菌ガウンを着て黒江の前に立った。

 「真鍋先生、ありがとうございます」

 「乗り掛かった船だ」


 「では、看護師さん、アバロキティをこちらに近づけて下さい」

 

 看護師は観世音菩薩アバロキティの名前を持つ機械を、ゆっくりと押した。

 二人で慎重に、唯の頭を両の天蓋が囲むように設置する。

 眼鼻のない人形が、お椀状の両手で人間の頭を包み込むような状態になった。

 黒江は滅菌手袋とガウンを外し、素手になって筐体の後ろに回った。

 そこには双眼のスコープと液晶モニタ、両手を入れる穴、キーボード、そしてフットスイッチがついている。

 黒江は椅子に座って穴に両手を差しこみ、ハンドルを握った。リストレストに手を乗せ、ため息をひとつついた。


 「ICGとルシフェラーゼ注入をお願いします」

 「今から脳底動脈に注入する……」

 真鍋が答える。


 黒江の眼の前にヴァーチャル・リアリティ――約百倍に拡大された、脳神経のジャングルジムが展開された。

 人間の体内に広がる内宇宙、巨大なネットワークだ。

 グリア細胞――神経を支え、栄養を補給する細胞が広がる海の中を、直角に重なった格子が縦横に広がっている。それは、無限に広がっているような錯覚を覚えた。悠々とその間を流れる川の様なパイプは、毛細血管だ。

 黒江が見ている風景はモニタにも映し出された。時折電気刺激が上下に流れて行くのが見える。神経の密林が蛍光色素によって視覚化されているのだ。

 それは極めて神秘的な風景だった。


 「おお……これは凄い……」

 麻酔科の讃岐も思わずモニタに釘づけになっている。


 「軸索縫合を開始します」

 ハンドルをゆっくり操作すると、アバロキティの‘手’からゆっくりと小さなロボットアームが伸び、脳組織の中に潜り込んでいった。

 肉眼では針としか見えないが、先端ははさみ状に開閉できるマジックハンドになっているのだ。人間の手の動きを、数百分の一にして動かす仕組みである。

 「ミエリン鞘を確認。電気刺激により細胞膜脂質とタンパク質を操作。ランビエ絞輪をファンデルワールス力で引き寄せます」


 「モニタで俺たちにも見えてるよ。報告はいい。集中してくれ」

 自分の暴走に対する、精いっぱいの誠意のつもりなのかもしれない。一つ一つ報告する黒江の言葉を真鍋は遮った。

 「器械の位置はこれでいいな。俺も一旦手を下ろすぞ」

 「ありがとうございます」


 真鍋は唯の体に振動を与えないようにそっと離れた。数ミリの振動がVRモニタの中では大地震のように見えるはずだ。

 看護師に椅子を用意してもらい、ゆっくり腰をかけた。早見と交代して十分ほどだが、どっと疲れた気がする。


 VRモニタを覗きこんでいる黒江の横顔を見た。

 声こそ出ないが、口がずっと動いている。

 マスクの下なので、小さく動くだけだ。

 唇の形も分からないので、何と言っているかも分からない。 


 歌……?

 それとも……奥さんの名前を呼んでいるのか?


 それは、昏睡状態の妻にずっと話しかけているようにも見えた。

 聞こえるまで、何度も何度も……


  ***


 結局手術は数時間オーバーして、夜中の二時に終了した。

 唯は手術室から再び集中治療室に戻され、術後の全身管理が始まった。

 脳浮腫――脳が腫れてダメージを受けるのを防ぐため、頭蓋骨は外したままである。後日腫脹が引いて脳の圧力が正常化してから頭蓋骨を元に戻すのだ。

 大手術後にもかかわらず、若くて健康な唯の全身状態は比較的安定していた。

 黒江はずっと集中治療室で唯に付きっきりだった。真鍋が帰宅を促しても、決して帰らなかった。

 集中治療室は家族の付添は許可されない。主治医、医療スタッフと言う権利を利用して、黒江は無理矢理付き添い続けたのだ。

 本来看護師に任せるはずの投薬や点滴の調整もほとんど自分でやっていた。

 複雑な上に通常使わないような薬剤ばかりだったので看護師は安堵していたが、その様子はほとんど自分以外の者に唯を触らせないようにしているようにも見えるのだった。 


 そして手術から一週間後――ついに唯は自発呼吸を取り戻した。口から人工呼吸器を取り外すことができるようになったのだ。体に繋がれていた大量のチューブや電線が劇的に少なくなった。

 意識はまだ戻らなかったが、生命の危機を脱して安心した黒江はやっと家に帰ることにした。

 

 「それでは真鍋先生、少しだけ帰ってきます」

 「いや……少し休んで来いよ。お前、ほとんど寝てないだろう? まあ、やっと全身状態が安定したな」

 「いろいろと先生のおかげです。ありがとうございます」

 「いや……とにかく良かったな。だが……」

 「だが……?」

 「お前はもちろん……分かっているよな。例え……」

 頭を下げる黒江に、言葉を継ごうとして真鍋は言葉を濁した。


 ***


 黒江は疲労困憊した体を引きずるようにして家に帰った。

 当然家に待つ人は誰もいない。

 ゆっくり二階のリビングに上がると、腐臭がした。


 テーブルの上には二人分のディナーの準備がしてある。

 そこだけ時が止まったように、家を出た時のままだ。


 ガスレンジの上のスープが腐っていた。

 流しに捨て、鍋を洗う。

 流しを掃除するスポンジと皿を洗うスポンジを唯は分けて使っていたと思うが、どっちがどっちだかよく分からない。

 スポンジに洗剤をつけ、鍋をゆっくりとこすった。


 曇りの平日の日中。

 部屋の中は薄暗く、静かだ。

 洗い物の水音だけが妙に大きく響いた。

 鍋の水を切り、流し台の上に干しておいた。


 ふと、真鍋の言葉を思い出した。

 『お前はもちろん……分かっているよな……? 例え……』


 分かっている。

 真鍋が何を言いたかったかを。

 ……例え、死を免れたとしても。

 意識が戻るとは限らない。

 ……例え、意識が戻ったとしても。

 以前の唯に戻れるかは分からない。

 ……例え、前の様になったとしても。

 自分のことを覚えているかは分からない。


 だが、いいのだ。これで。

 生きてさえいてくれれば……


 「生きてさえいてくれれば……」

 黒江はそれを口に出してみた。

 独りにはあまりに広すぎる新居を見る視界が、涙で歪む。


 「生きて……」

 

 一人の家に、低い嗚咽が響いた。


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