第二章 始まりの物語
第85話 15-1 全ての始まり
「これは……どういうことですか?
璃子は声を詰まらせながら
「そうだな……何から話せばいいだろうか」
塚原はベッドに眠る
「長い話になる。そこにかけて話そう」
部屋の片隅に設けられた小さなソファセットを指差した。
「シノノメさん……やっと会えたね」
それだけ言うと、ソファに腰を下ろした。
塚原は杖を突きながら向かいに座る。璃子も慌てて後を追うように、祥子の隣に座った。
塚原はしばらく天井を見て黙っていた。何から話せばいいのか、頭の中で整理しているようだった。
塚原の沈黙に耐えかねたように、璃子は口を開いた。
「でも……逸見さん、これが……分かっていたの? だって……」
病院についた時から、祥子の表情が沈んでいると思っていたのだ。
「うん……全部じゃないけど……そうじゃないのかな、って予想してたの。塚原さんに指定された場所が、この病院だって聞いたときに……」
祥子の口元に静かな笑みが浮かぶ。
「どういうこと?」
「この病院は、世界でもトップクラスの脳や神経疾患を治療する病院なの。医療関係者は大概みんな知ってます」
「そうなんだ……でも、それだけで?」
「それで、思い当ったのよ。シノノメさんの色々な事。栄養補給が要らないので、休眠しなくていいこと――あれは、入院していて、点滴をしているからじゃないかと思って……」
「ああ,逸見さんもこの前,それで休眠時間を誤魔化して戦ったんだよね」
「それから、エコーロケーション……視覚障害の人が耳で物の位置や形を分析する能力。それに,ご主人の顔や名前が思い出せないこと。アルタイルが言ってた、昔は人形みたいだった、っていう話……それと、顔や名前を覚えるのが苦手な事……どれも、脳の障害に関わることが多いなって考えて……」
「顔や名前のことまで? でも、でもあれは単に……シノノメさんはドジッ子で苦手なんじゃ……」
「あれは……多分、顔貌失認なんですね? 塚原さん?」
「がんぼうしつにん?」
「そうだ。目の大きい小さいや鼻の高い低い、パーツの位置で顔を判別する能力が低くなっているんだ」
祥子に話すきっかけをもらった、と言うように、すこしほっとした顔で塚原は答えた。
「でも、私たちのことはちゃんと覚えているよ……」
「それは多分、マグナ・スフィアの中だからなのよ。だって、ファンタジーの世界では顔立ち以外の特徴が多いでしょう? 尻尾とか、長い耳とか、とんがり帽子とか」
「あ……」
璃子はしばし言葉を失った。
再会した時に、自分のことを何と呼んでいたか。
『あ、ダークエルフの子だ』
……そんな。
「さらに言うと、
「視覚記憶?」
「一目見ただけで、写真みたいに物を覚えられる力ですよね? 将棋の棋士の人もそう言った能力があるとか……でも、自閉症などの高次脳機能障害の方が持っているとも聞きます」
塚原は祥子の言葉にうなずいた。
「どの超能力も……脳や神経に何か障害が起こった時に、他の場所が活発に働いて発現することが多いと言われる能力ですね」
「そうなんだ……さすが、薬剤師さんだね」
「いや、それだけではない。素晴らしい知識と洞察力だね。祥子さん」
「ありがとうございます……ですが、単に脳に障害――たとえば、脳梗塞や脳出血を起こした女性がVRMMOに参加している、というだけでは説明がつきません。あれだけ超人的な運動能力や想像力、それからゲームの上達や……」
「そうだよ。ゲームの中で喋っていても、私にはとても脳に損傷がある人とは思えないよ」
ともすれば話についていけなくなりそうな璃子は、慌てて相槌を打った。璃子にはまだこの現実がとても受け入れられなかった。
「それに今会って……見たところ、昏睡状態の様に見えます。なぜゲームにログインできているんですか? それに、彼女自身は、自分が昏睡状態にあることを知らないんですね? そんなに重度の障害を持つ人が、一体なぜ? なぜ、最強の‘東の主婦’たり得るんですか?」
祥子は塚原を真剣な眼差しで見つめた。
「……私にも、全部理解できているわけではないのだが……それでは始めから話そう……今からもう一年ほど前のことだ……」
そして塚原は語り始めたのだった。
***
「あれ?」
自宅前に駐車しながら、黒江は首を傾げた。
隣のスペースにある筈の、
どこかに出かけたのだろうか。
今日は奇跡的に早く帰れたので、まだ大丈夫と思って出かけたのかもしれない。
二回目の結婚記念日は新居で祝おうと、家で御馳走を作ると言っていたのだ。
唯は凝り性で、ひとたびちょっと豪華な料理をするとなると、朝から、さらには前日から下ごしらえをする。
それにしても、もう六時だ。生鮮食品を扱うにしても、買い物は午前中には済ませるのではないだろうか。
黒江は生体認証のドアを開け、家の中に入った。
センサーで廊下に明かりが灯る。
「ただいまー」
と、一応言いながら二階のリビングダイニングに上がった。
どうやら、支度の真っ最中だったらしい。テーブルの上にはランチョンマットと、大皿、ワイングラスが置いてあった。
椅子にはいつもつけているカフェエプロンがかけてある。
「ふむふむ」
良い匂いがする。
火を止めたガスレンジ――料理好きなので、オール電化にあえてしなかったのだ――の上には、スープの入った片手鍋があった。色と匂いからすると、パンプキンスープだろうか。唯は何度も丁寧に裏ごしして、舌触り滑らかに作るのだ。
つまみ食いしようとして止めた。
唯は十歳も年下だが、母親の様にうるさく叱る。
そんなところも可愛いのだが……
だが、ふくれっ面が可愛いというとまた怒るのだ。
くるくると表情が変わり、感性豊かなくせに妙に真面目。唯と一緒にいると、飽きることがない。結婚する前からそう思っていたが、一緒にいる時間が長くなってからは一層そう思うようになった。
ジャケットをとりあえず椅子の背もたれにかけ、ネクタイを緩めて密かに買ったプレゼントをカバンから出した。
ポルトガル製のカテラリーセットだ。沖縄の学会に行った時に隠れ家風のレストランで食事したのだが、その店で使われていたものだ。
金属と黒いエボナイトで作られており、デザインが秀逸で使いやすい。唯がとても気に入っていたので探して購入したのである。宅配もできるのだが、セット販売のものは通販サイトになかったのでわざわざ店に買いに行った。
唯は宝石やブランド物より、実用性のあるお洒落な食器や雑貨が好きだ。
見たときの喜ぶ様子を想像すると自然に顔がほころんだ。
何か買い忘れたものを買い足しに行ったのだろうか……
スパイスやミントなど、少し特別な食材を扱う店は近所にない。それで車で出かけたのかもしれない。
だが、気づくともう六時半近くになっていた。
いくら何でも遅い。
少し嫌な予感がする。
ちょうどズボンの後ろポケットに入れている携帯端末に手が伸びた時に、それが鳴動した。
発信者は、唯だ。通話のアイコンを操作する。
「もしもし?」
しかし、電話の声は別の女性だった。
「すみません、黒江唯さんの家族の方ですか? 私は、XX大学病院救急部の看護師、小早川です」
***
黒江は震える手でハンドルを握った。
気付くと、大学病院の救急外来駐車場についていた。
途中の記憶がほとんどない。
ずっと看護師の言葉を反芻していた気がする。
……交通事故に遭って、重体。
……至急病院の集中治療室に来て欲しい。
……詳しい病状は、到着後医師から説明がある。
救急外来の受付をすっ飛ばし、エレベーターで三階に向かった。
さっき出たばかりの自分の職場にまた戻って来たことになる。
手術室の隣が集中治療室だ。
一応、ガラス張りの部屋の前でインターホンを鳴らし、看護師が迎えに来るのを待った。
待つのがもどかしい。
別部署とは言え、自分の職場だ。とっとと入ろうか……
その間に情報を整理する。
XX大学病院。
昔は市立病院だの県立病院だのいろいろあったらしいが、病院の機能統廃合により、県内では高度救命センターを持つ唯一の三次救急病院となっている。
その集中治療室に収容されている。
自分で電話を掛けることができない。
それが意味することは……
黒江は医師だ。
高度治療を扱う勤務医である。
残酷なことに、彼には必要十分以上にその状況が予想できてしまっていた。
何度か救急部で見たことがある顔だ。
表情が険しい。
「くろえせんせい……」
何か言っているのだが、頭に入ってこない。多分本人確認なので、機械的に頷いて名前を名乗った。
白いリノリウムの廊下を案内され、電子カルテを扱う端末がずらりと並んだナースステーションを横に見ながら奥に通された。
自分の専門とする患者が収容された時には、普段医師として仕事をしている場所である。
白衣を着ずにこの場所にいることに、著しい違和感を感じた。
ベッドが八床並んでいる。
その一番右端に連れて行かれた。
唯が眠っていた。
口には気管内挿管――人工呼吸のチューブが挿入され、顔にテープで固定されている。蛇管が人工呼吸器に繋がり、規則的に酸素を送り込んでいた。一目で陽圧換気であること、自発呼吸がないことが分かる。
水色の検査着の襟から、赤と緑と黄色の心電図の
右の人差し指には酸素モニタの端子。心電図を見ると、心臓には損傷がないようだ。だが、血圧が低い。
右の頚部にはテープと縫合糸で固定された太い点滴が伸びていた。中心静脈ラインだ。血圧が低い患者は末梢血管が収縮してしまうので、心臓に近い太い静脈に点滴を直接送り込むのである。見たところ内頸静脈に留置しているらしかった。マンニトールがつないである。脳浮腫を軽減する目的だろう。
手足には目立った外傷がない。擦過傷が数カ所。
骨折があるのなら外固定――ギプスか副子(添木)があてられているはずだが、それはない。右手に伸縮包帯が軽く巻いてあった。
頭部はビニール製のヘルメットの様な冷却パッドで保護されていた。それはやはり脳浮腫――脳に大きな損傷があり、腫脹していることを意味する。
看護師が何か言っている。
ベッドのそばの丸椅子を指しているらしい。多分、それに座って待てと言うのだろう。
黒江は丸椅子に腰を下ろし、唯の左手に触れた。
手首にも点滴がある。橈骨動脈に留置された動脈ラインだ。おそらく来院した時は極めて危険な状態だったのだろう。
手が冷たい。ベッドのシーツが冷たかった。低体温療法まで始まっているのだ。 どれだけの脳損傷なのだろうか。
……だが、かなり悪い。
冷静なのかそうでないのか自分でも全く分からない。
黙々と頭の中で唯の状態の分析が続いていた。だが、データを統合して診断することができない。まるで心がそうするのを拒んでいるようだった。
「唯……」
もちろん唯は目を閉じたままだ。
長い睫毛を伏せたままだった。
頬にわずかに血がこびりついている。
誰かが近づいてくる。
黒江は顔を上げた。
「黒江って……まさかとは思ったが……お前だったのか……」
「真鍋先生……」
やって来たのは医局長である直属の上司と、救急部の後輩、竹森だった。
黒江は慌てて立ち上がった。こんな時でも外科系医師の体育会気質で、体が勝手に動くらしい。
真鍋は小柄だが責任感があり、部下の面倒見がよい。気を利かせて今日黒江を早めに帰してくれたのは彼だった。
「お前の奥さんか……どこかで見たことがある患者さんだとは思っていたが……」
真鍋はベッドに横たわる唯を見ながら言った。一言一言を発するのがとても辛そうに見える。
「妻は……」
「ああ、画像を見てくれ」
真鍋はベッドサイドの端末を操作した。CTとMRIの3D画像が映し出される。どちらも頭部、頭蓋骨だ。
「あ……」
画像を見た黒江の口からはそれだけしか出なかった。頭蓋骨骨折に、脳挫傷。脳が砕けて壊れている状態だ。さらに、脳底動脈損傷。前大脳動脈が切れいている……かろうじて脳幹が直接のダメージを免れ、最低限の生命機能が保たれているのは奇跡的とすら言ってよかった。
「過積載の対向車が――大型トラックの居眠り運転だったそうだ。センターラインを越えてきて、正面衝突したらしい。それで……」
竹森が説明した。多分さっき看護師が言っていたのと同じことなのだが、ようやく明確な意味を持って耳に入って来た。
「……頭部にダメージが集中したんですね」
「脳浮腫が増悪しないようにはしているが……」
「時間の問題ですか」
「ああ……」
真鍋が言いにくそうに答える。
淡々と口をついて答えが出ることが黒江自身にも不思議だった。
離人症――幽体離脱して自分を天井の上から見下ろしているような感覚がした。 あるいは、自分が主演の映画かドラマを観客席で見ているような……
「全脳死まで、もって……四十八――七十二時間……でしょうか」
「あ、ああ……」
真鍋は頷いた。
「DNRとか……そういうレベルではないですね」
DNR――蘇生措置拒否とは、心停止しても心肺蘇生や積極的な延命治療を行わないという意思表示を行うことだ。死が確定的な患者に苦痛を与えないため、家族や本人と医療者が話し合って前もって取り決めを行うことである。唯の体が受けたダメージは、延命処置でどうにかなるものではないことは分かりきっていた。
「そうだ……な」
黒江は無意識にベッドサイドの丸椅子に座り込んでいた。
「黒江、大丈夫か?」
「あ……ええ……」
突然自分の足元が真っ暗な竪穴になった気がした。竪穴の空間に、丸椅子が浮いている。足元にはどこまでも続く、深く暗い闇が口を開けている。
「少し……一人に……して頂けますか」
黒江はようやくそれだけを言った。
「分かった」
真鍋は言葉を失い、背を向けて去って行った。竹森は心配そうにしきりに振り返りながら、ナースステーションに去った。看護師と薬剤や治療の相談に行くのだろう。
全脳死になった場合の、移植用臓器提供のことなども相談しているのかもしれない。培養組織移植が主流になりつつあるが、まだまだ移植用の臓器は不足している。確か唯はドナーカードに臓器提供の意思表示を記載していたと思う。
黒江はもう一度唯の顔を見た。
ただ眠っているようにも見える。
中腰になってハイゼガーゼを蒸留水で湿らせ、頬についた血液を拭きとった。
「唯!」
耳元で叫んでみた。
自分でも馬鹿馬鹿しいような大声が出た。
ICUのスタッフがこちらを見ているような気がするが、どうでもよかった。
「唯!」
もう一度叫んでみた。
聴覚は、脳機能が低下しても比較的保たれる感覚だと言われている。発生学的に、胎内で目より耳の方が先に形成されるからかもしれない。
唯は何の反応も示さなかった。
当たり前の結果だ。
画像所見を見てどれだけのダメージかは分かっている。
死に瀕した患者の家族が大きな声で耳元で叫ぶのを見てきたが、その時のことを思い出した。どんなに叫ぼうとも、病状からしてもう助かる見込みがない患者と、必死の家族。同情しながらも、どこか醒めた目で見てしまう、あの感覚。
今、その叫ぶ家族である自分自身を見つめる自分――
これからどうするか……
まず、お義母さんに電話して……ああ、義弟の
職場に報告――これは真鍋先生が知っているから、しばらく休職して……
臓器の提供のことも考えた方がいいのだろうか。
葬儀?
二人で建てた家は?
考えれば考えるほど頭の中が混乱してくる。
「……唯」
黒江はもう一度、唯の名を耳元で呼んだ。
今度はいつも家で呼んでいるように、普通に呼んでみた。
その時、唯の長い
目の錯覚かと思ったが、そうではない。
意識レベルはJCS(ジャパン・コーマ・スケール)で300――GCS(グラスゴー・コーマ・スケール)では0か……
まだ稼動している大脳の一部が、どうにか繋がってわずかに残った意識の残滓に声を届けたのだろうか。
瞼の下にたまっていた水分――涙がゆっくり頬を伝って流れた。
理性的に考えれば、これも単なる生理現象のはずだ。
だが……
そうは思えない。
「唯……?」
また少し睫毛が動く。
声が届いて……いる?
黒江は唯の顔をじっと見つめた。
本当に自分にできることはないのか?
臓器移植。
培養臓器移植はかなり進んでいる。肝臓と膵臓、そして腎臓は合成できるようになっている。肺と心臓は技術的に少し難しいとされている。
だが、手足や脳は交換が効かない。
手足は複数の臓器の集合体なので、作るのが難しい。それに、義手や義足の性能がいいので生きた組織を培養するメリットがあまりないとされている。
そして、脳。
脳の情報を移植できないということはもちろんだが、脳の神経ネットワークが複雑すぎて組織培養では合成できない。
自分の専門は――神経外科、そして、微小外科だ。
神経外科(ニューロサージャリ―)。
かつての脳神経外科と、脊髄外科が統合されてできた分野だ。
二十一世紀の初めまで、脳神経外科医が実際に扱うのは脳の血管であり、脳腫瘍だった。脊髄外科医は、ヘルニアなど神経を圧迫している物を取り除く事や骨折した脊椎を金属で固定することが治療だった。
だが、現在でも基本的に、脳や脊髄などの中枢神経は修復できない。
神経細胞は大きい物でも一〇分の一ミリ。小さい物なら二〇〇分の一ミリである。理論上脳内にある膨大な数――千数百億個の細胞を繋ぎ合わせることなどできないのだ。
これだけ医療技術が進んだ現在でも、神経外科と言う名前でありながら、中枢神経を直接修復することは考慮されない。
だが、末梢神経なら、縫い合わせることはできる。
それは、自分のもう一つの専門領域の仕事だ。
一九七〇年代、二ミリ以下の血管をつなぐ――吻合することができるようになった。切断された指を世界で初めて日本人が繋ぐことにより始まった分野である。
手術用の顕微鏡を覗きながら、太さ十分の一ミリ以下の糸を血管に八針から十二針かけ、縫い合わせる。切断された指であれば、同時に骨や腱、神経も修復する。決して多いケースではないが――足の指を手に移植することもある。
しかし、神経は縫い合わせてもすぐ繋がるわけではない。
一旦切断されると、切断された先は一度死んでしまう。
縫い合わせた導管――人工神経(神経再生伝導チューブ)や神経束の中を、一日に一ミリ程度のゆっくりした速度で再生していくのだ。
あまりに回復が遅いので、脊髄損傷の患者などでは生体高分子の電気刺激伝導体を体内に埋め込む手術が主流である。壊れた神経をバイパスして、脳から命令を末端の手足に送るのである。
視覚障害の患者や聴覚障害の患者では、機械の端末を脳に埋め込むこともある。
これらの技術を組み合わせて神経や血管をつなぎ合わせ、機能を回復させるのがいつもの自分の仕事だ。
本当に、俺ができることはないのか。
黒江は、そっと――今度はハイゼガーゼでなく、ハンカチで――唯の涙を拭いた。
あきらめて別れを告げる。
死にゆく妻を見送る。
そして、悲しみに身を浸す。
理性はそれしかないと告げている。
沈痛な想いと寂寥感が、背中からやって来る。
だが、それと同時に狂おしい想いが胸の奥から湧き上がってくる。
別れたくない。
絶対に死なせない。
これで終わりなど、あってたまるか。
爆発的な感情が胸の奥から湧き上がりつつあった。それは冷静であるべき自分の頭脳を沸騰させ、狂気へと駆り立てる。
考えろ。
考えろ。
俺の手持ちの武器は、何だ?
俺にできることは?
黒江はじっと自分の両の手を見た。
俺は……やる。
お前を、絶対に死なせない。
狂気と激情は爆発し、彼の胸を焼き、そして全身を包んだ。
黒江は顔を上げた。
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