第83話 14-6 聖堂騎士団

「何てことなの!」


 シノノメは、憤慨していた.いや,憤慨するという言い方は彼女には似合わない.プリプリ怒っているというのが正解だ.

 腕組みして頬を膨らませているシノノメを,店の客たちが遠巻きに眺めている.

 「どうしたんだろう……主婦さん,随分ご機嫌斜めだな……」

 「怒ってる顔も可愛いな」

 「馬鹿,素明羅スメラ最強の戦士だぞ!」


 屋台の開店時間に若干遅れて,ニャハールがやって来た.

 「すいません,社長……ゲゲ! 何を怒ってらっしゃるんですか?」

 「私,ちょっと出かけてくる!」

 「え!? 社長! 今日のお店はどうするんですか!?」

 「今日はニャハールに任せた!」

 「マジ!?」

 忍び笑いするニャハールを置いて,シノノメは空飛び猫ラブを呼び出し,空に舞い上がった.


   ***


 昨日の夕方,ナディヤについてサンサーラの繁華街ダウンタウンに行ったシノノメは,事件のあらましを聞いていた.


 ナディヤの双子の子供も含め,近隣でさらわれた子供が四十人.

 さらに,交流していた子供のプレーヤーが六人.

 合計四十六人の子供が忽然といなくなったのだという.

 集団誘拐である.

 NPCの子供たちは,すべて人間ばかりであった.悪意を持つものや魔獣の手にかかっては,ひとたまりもない.

 だが,六人のプレーヤーというのが問題だ.

 子供とは言え,プレーヤーはプレーヤーである.

 剣士もいれば,錬金術師もいる.精霊ジン使いに,暗殺者アサシンまでいた.レベルにもよるが,簡単に後れを取るとは思えない.

 それに,誘拐というのはどうなっているのだろう.

 いざとなればログアウトして脱出すればいいはずだ.

 できないということは,ノルトランドでユグレヒトがそうだったようにシステムに介入している者がいるのだろうか.


 ナディヤと子供たちの親は,まず区長に訴え出たという.

 サンサーラの区長は,カカルドゥアの地方領主も兼ねている.地方領主と言えど,国に匹敵する巨大な領地を保有している有力者であり,自警団も保有しているのだ.

 だが,捜索どころか話も聞いてくれなかった.


 思い悩んだナディヤ達は,次に,カカルドゥアを守護する最高の国立組織,聖堂騎士団の寺院を訪れた.

 聖堂騎士団は聖職者に近い集団で,無私の奉仕と守護を信条としている.

 こちらは一応話を聞いてくれた.

 ところが,その後全く何の進展もない.

 無回答のまま三日が経ち,業を煮やしたナディヤ独りで,音に聞く東の主婦のところにやって来たのだった.


  ***


 「まったく,ヴァルナは何をしているのかしら」

 ヴァルナは聖堂騎士団最強の戦士,聖騎士パラディンの資格を持つ男だ.

 一時期シノノメと一緒に永劫旅団アイオーンに所属していた.

 見た目は,浅黒い肌に大きな漆黒の瞳を持つ美少年.

 風魔法の達人で,短距離なら風に乗って飛ぶことすらできる.そのパワーと巧みさでは,ウェスティニアの魔女すら敵わない.

 さらには,体術カラリパヤットと三日月刀の達人.

 こう並べると凄まじく格好いい.

 だが,いい加減で,極度の面倒臭がりなのだ.

 パーティーで集団戦闘レイドを計画しても,しょっちゅう計画を無視して突然いなくなる.

 おまけに,無自覚かつ無差別に女性に優しいという困ったプレーヤーであった.


 「また女の子たちと遊んでるのかな,もう!」


 サンサーラの上空に舞い上がったシノノメは,空飛び猫の背中の上で呟いた.

 サンサーラの街は美しい.

 海は太陽の光を浴びて輝き,寺院の丸屋根ドームも青タイルや銅板で葺かれているので,きらきらと街自体がモザイクの様である.

 風を切りながら,くるくるとシノノメは旋回した.

 目標の騎士の聖堂――戦士之寺院フェダイーンパゴダは,街のはずれにある.

 榕樹ガジュマルのからみついた石造りの建物で,アンコール遺跡やボロブドゥール遺跡を彷彿させる古めいた建物だ.

 ぐんぐんスピードを上げ,空飛び猫は門の前に降り立った.

 ラブはたちまち小さくなり,お気に入りの場所であるシノノメの肩の上に乗った.


 「すみません! ごめんください!」


 門とはいえ二つの石柱が並んでいるだけだ.石柱の上には狛犬ではなく、猿と猪頭の神像が乗っていて、来訪者を睨んでいる。

 シノノメは一応挨拶すると、石畳を踏んで中に入って行った.庭の中には仏頭や神像が立ち並んでおり,いずれも苔生こけむしている.

 石畳の向こうには金の屋根を持つ塔と,石の寺院が並んでいた.

 白い服に赤い帯というより布――浴衣の兵児帯に近い――を締めた男たちが,何かの武術の型を練習している.

 格闘ゲームの舞台みたい,とシノノメは思った.


 「待ちなさい! あなた,何の用ですか? 」


 聖堂騎士団の一員と思しき青っぽい銀髪の少年がやって来た.

 ゆったりとした詰襟の白い服を着け,ズボンの上に植物をあしらった模様の布を‘巻きスカート’のように巻いている.インドネシア伝統の腰巻,サロンである.シノノメには,昔バリで泊まったホテルのベルボーイを思い出させた.

 大きな眼の瞳は青色で,猫のように縦長の瞳孔だ.

 顔は中性的で,まだあどけなさが残っている.

 白に灰色の豹柄の耳が髪の毛の間からピョコンと飛び出していた.豹人――ユキヒョウの豹人だった.

 身長はシノノメより少し高いくらいである.


 「ここは許可なく立ち入り禁止です.特に女性の入場は禁じられています」

 「そうなんだ……こんにちは.私,シノノメです.ヴァルナに会いに来ました」

 「ヴァルナ? ヴァルナ様に何の用だ?」

 「大事なことだよ」

 「……まさか,居酒屋のツケとか,女同士の揉め事ではないだろうな?」


 あちゃーっ,と呟いてシノノメは頭を抱えた.


 「とにかく,ここは通すわけにはいかないぞ.ヴァルナ様にもそう仰せつかっている!」

 少年は軽く腰を落とし,拳を握って身構えた.

 しなやかな動きである.


 「女性相手に我が武技をふるいたくはない! 立ち去るがいい!」

 「ええーっ! 困ったな.でも,会わなくちゃいけないの」

 「仕方がない.我が名はクヴェラ.参る!」


 クヴェラは裂帛の気合いとともに,飛び込んで右拳を突きだした.

 寸止めのつもりだったらしいが,シノノメはひょいっと避けてそれを透かし,左手で手首をつかんで右手で軽く肘の内側を叩いた.


 「うわわっ!」


 クヴェラは自分の突きの勢いで地面に倒れ込んだ.力を使っていない.完全に技とタイミングで投げたのである.


 「き,貴様!」


 クヴェラは顔を真っ赤にして立ち上がると,息をもつかせぬ連続攻撃を始めた.

 右肘打ち,左直突き,右膝蹴り,右の上段回し蹴り.

 シノノメはその全てをひょいひょいと避けた.


 「危ないなあ……わっ!」


 クヴェラは地面にべたりと膝をついて拳を振って攻撃してきた.

 突然体の高さが変わったので,シノノメは少し驚いた.

 日本の武術でも正座しての技はあるが,こんな動きは初めてだ.


 「フフ……ペンチャック・シラットは初めて見るのか?」

 「ペ……チャッとした白子? 私,あまりそういうのよく分からないよ」


 分からないというか,流派名や技名など全く覚える気のないシノノメである.

 ペンチャック・シラットは実戦性で世界に広く知られたインドネシア武術なのだ.

 愚弄されたと思ったクヴェラは,大ぶりのパンチを振って来た.


 「もう,困ったなあ.お掃除サイクロン極小!」


 グリル魔法や揚げ物魔法では,クヴェラを一撃でログアウトさせてしまう.申し訳なかったので,小さな竜巻を起こした.


 「吸引力の減らない、唯一つの掃除機魔法だよ」


 本来十二本の竜巻が起こるところ二本だけだったが,クヴェラを吹き飛ばすには十分だった.クヴェラの体は軽く上空に吸い上げられ,背中が石畳に叩きつけられた.頭から落下したのだが,咄嗟に体をひねって直撃するのを避けたのである.


 「うわー,凄い,猫みたい」


 シノノメは感心しながら肩に乗っている空飛猫ラブを撫でた.にゃう,とラブは答える.ラブが飛び降りる必要もなく,ほとんど体勢を崩さずに戦っていたのだ.


 「うう……ん」


 背中を強打すると息ができなくなる.クヴェラは呻いた.

 ここまで騒ぎを起こして誰も来ない筈がない.

 バラバラと人が集まり始めた.


 「あ,困ったな.やりすぎちゃったかしら」


 シノノメは聖堂騎士団に囲まれた.全員クヴェラと同じような服を着ているが,サロンではなく赤い布を帯状に締め,腰に三日月型の短い刀を差していた.

 そして,全員がこの光景に目を丸くしていた.


 「あっ! シノノメ殿! 東の主婦,シノノメ殿ではありませんか!」


 一人の男が進み出てきた.背が高くひょろりと細いが,身ごなしがただ物でない.全身にバネのような筋肉がついているのだ.腰に締めた布が黄色なのと,それを囲む人たちの態度で,リーダー格であることが分かった.


 「シノノメ殿,お久しぶりです.四大国公会議の時にお会いしました.私を覚えておいでですか?」

 「ごめんなさい,どなた?」

 「あの時はヴァルナ殿についていっただけですから,覚えておいででないのも無理はありません.シンハと申します」

 シンハは両手を合わせ,丁寧に挨拶した.

 シノノメはヴァルナについて来ていた「細い人と太い人」を,何となく思い出した.

 「ああ……」

 「おい,クヴェラ,お前のような見習い戦士がこの人に敵うわけはないぞ.お前,ステイタスを見たのか?」

 「え……いいえ,シンハ様……」

 まさかこんな少女が自分よりも強いなど,想像もしなかったのだ.

 慌ててクヴェラはステイタスを見た.


 シノノメ 

 ジョブ;主婦

 レベル;96.8

 

 「ええっ! レベル96.8? 端数のあるレベルなんて初めて見た……じゃなくって,シノノメって,まさか,北東大戦の英雄,東の主婦シノノメ……!?」

 クヴェラは体をさすりながら身を起こし,頭を下げた.

 「これは大変失礼しました.てっきりヴァルナ様を追いかけてきた,ミーハーな女の子かと……」

 「シノノメ殿とヴァルナ殿は,旧知の仲なのだ.昔,同じパーティーにいらしたとか.今日は何の御用ですか?」

 「それは……」


 シノノメは集団誘拐事件の話をしようとして,やめた.

 ナディヤの話によれば,カカルドゥア政府の中に捜査を妨害しようとしている人間がいるらしい.聖堂騎士団にも訴え出たと言っていた.ひょっとしたらこの中にも誘拐に加担している内通者がいる可能性がある.

 怒りにまかせて飛んで来たが,もしかして,ヴァルナも一味なのだろうか?

 ふと思ったが,彼の性格からしてそれはなさそうだった.

 多分,面倒くさいというだろう.


 「できれば,直接ヴァルナに話したいの」

 「うむ……」

 「どうしたの?」

 「少々問題が……ヴァルナ殿は、しょっちゅうと言いますか,いつもと言いますか、市内にいることが多いのですよ.今日もどこにいるのやら.とりあえず今,寺院の中にはいません」


 シンハはこめかみを押さえてため息をついた.どうやら彼もヴァルナに苦労させられているらしい.


 「では,私,クヴェラがご案内いたします! 僕はヴァルナ様の行き先を存じております.シノノメ様,お詫びに是非そうさせてください」

 「ありがとう」

 「……そうだな,クヴェラ.シノノメ殿は我々にとっても大事なお客様.宜しく頼むぞ」

 「はっ!」


  ***


 クヴェラの空飛ぶ絨毯に乗せてもらい,シノノメは港町にやって来た.

 「ありがとう,クヴェラさん.それにしても,絨毯って便利だね.くるくる丸められるし,なかなか乗り心地もいいね.私も一枚買おうかな」

 「はは,シノノメ様なら最新の電気カーペット型も買えそうです」

 「電気カーペット?」


 絨毯の上ではラブがクルリと丸くなって眠っている.羽根を畳んでいるので,普通の子猫のようだった.


 「アメリアからいろいろな技術が入ってきましたからね.単純な機械なら動かせるようにするアイテム――実際には何かのプログラムなのでしょうが――がいろいろ有るんですよ.電気カーペット型は温度調整ができて,テントみたいな屋根が出たり引っ込んだりするんです」

 「なるほど,絨毯って雨の日は困るね.それに,高度を高くすると寒くなりそう」

 「そうでしょう」

 「ところで,シンハさんって,偉いの?」

 「僕なんか比べ物にならないくらいです」クヴェラは苦笑した.「四大国公会議に出たのなら,ダーナンも覚えていますよね? ムエボーラン(古式ムエタイ)のシンハ様に,クシュティ(中東式レスリング)のダーナン様.あの二人が聖堂騎士団の実働部隊を率いています.」

 「ダーナン……だるまさんみたいな人?」

 「ハハハ,そうです.あとは長老たちがいます.彼らは我々の精神的な指導者ですね.もちろん,最強の聖騎士パラディンヴァルナ様の強さは別格ですが……いかんせん……」

 「チャランポランなんでしょ?」

 「……残念ながら……そうです」

 「クヴェラさんは,なんでヴァルナの行先を知っているの?」

 「実は,あの……僕,ヴァルナ様付きの従者,見習いの戦士なんです.でも,あの人いっつも姿をくらましてしまうんで……」

 「クヴェラさんは真面目そうだね.苦労するね」


 クヴェラは肩を落として大きなため息をついた.

 風に豹柄の耳が揺れる.

 それを見たシノノメは我慢が出来なくなった.


 「あのー……一つ頼んでいい?」

 「はいっ! シノノメ様のご依頼とあれば,何でも!」

 「耳,触らせて!」


 シノノメは返事を待たずにモフモフの耳を触り始めた.


 「うわっ! くすぐったい! やめてくださいよぅ! 危ない! 危ないです!」


 フラフラと揺れながら桟橋へと向かった絨毯は,一隻の船の前で止まった.


 「ぜいぜい,ハアハア……ここです」

 「ここ? 船だよ?」


 耳を触られながら空飛ぶ絨毯の安全運転をする,という離れ業を行ったクヴェラは肩で息をしていた.


 見ると,船にタラップが二つ橋渡しされていた.

 船の高さがあるので船着き場側から中は見えないが,にぎやかな声と音楽が聞こえてくる.

 それに,食べ物の臭いも漂って来た.


 「魚を料理する臭いがする.バター焼きと,アクアパッツァ? ブイヤベースもあるのかな?」

 「ここは,船上レストランなんです.時々港に帰ってはこうやって営業してるんです」

 「ふーん,広島の牡蠣船みたいなものかな? ディナークルーズの船みたいに大きくはないんだ.でも,なかなか立派で素敵だね」


 もっとも,座敷船の一種である牡蠣船よりはかなり大きい.中型の漁船か小型のフェリー並みの大きさがあった.マストがあるが船腹の側壁にはホイールが付いており,外輪船らしい.風がなくても移動できるという事だ.

 船首付近に店の名前なのか船の名前なのか,‘くれない鯨亭クジラてい’という文字が見えた.


 「当然……お酒も出るよね」


 タラップを渡って出て来た酔客らしき男が,ひっくり返って海に落ちるのが見えた.


 「じゃあ,ヴァルナはこの中?」

 「ええ,そう伺ってます.ご案内しますね」


 クヴェラは絨毯をクルクルと丸めてアイテムボックスにしまった.

 二人はタラップを渡って船の中に入った.

 船の前半分のデッキはオープンカフェ状で,テーブルがいくつも並んでいた.後ろ半分は屋根――キャビンになっている.

 デッキの上にヴァルナがいないのを確認して,キャビンの中に入った.

 キャビンは天井が高く,木目を基調とした落ち着いたインテリアで,窓から夕陽を受けて紫色になった海が見える.

 部屋の隅では,ディジリドゥーとシタール,ガムランという不思議な組み合わせの楽団が生で音楽を演奏していた.

 青と白のボーダーTシャツを着た熊人やメイド姿の少女がお盆を抱えていそいそとテーブルの間を行き来している.これは給仕担当なのだろう.

 なかなか良い雰囲気だ.ゆっくり時間を過ごしたくなるお店だな,と思いながら,シノノメはぐるりと席を見渡した.


 果たして,ヴァルナはすぐに見つかった.


 「きゃーっ! ヴァルナ様!」

 頭に巻き角の生えた銀髪の羊人娘が叫ぶ.

 「ありがと! ヴァルナ様!」

 猫耳の生えた黒髪の娘が頬を赤く染めて笑う.

 「ヴァルナ様! こっち向いて! あーん!」

 ウサギ耳の生えた,バニーガール姿の娘がスプーンを差し出す.


 ヴァルナは三人の女の子と一緒に,一番奥のボックス席で食事をしていた.

 食事をするというよりも,テーブルに頬杖をついてだらだらと酒を飲んでいるだけである.

 とろりとした退屈そうな酔眼.

 聖堂騎士団の象徴,ターバンと半月刀,そして彼愛用のグルカナイフは隅に放り投げられていた.


 「ヴァルナ様,お一つどうぞ」

 「……ん,ありがと」

 羊娘が盃に酒を注いでは,注ぎ返す.


 「あーこれ,うまいじゃん」

 アサリとムール貝のニンニクバター炒めをつまみに,ぐびぐびと飲む.


 「だめよ,自分で食べちゃ.はい,あーん」

 「あーん」

 「こっちもあーん」

 猫娘と兎娘に交互に食べ物を口に入れてもらう.

 そんなことを延々繰り返していた.


 「ああっ! ヴァルナ様!」

 聖騎士パラディンのあまりの体たらくに,最初に口を開いたのはクヴェラだった.

 「何というお姿ですか! 聖堂騎士団の最高位,聖騎士,風の紡ぎ手ともあろうお方が……情けない」

 「お,クヴェラじゃん.お前もこっち来て一緒に飯食って酒呑もうぜ」

 ヴァルナはヒラヒラと手招きした.

 「僕は未成年です!」

 「堅いこと言うなよ.いいじゃん」


 「あら,この子可愛い!」

 羊娘が立ち上がって手を引いたので,クヴェラは顔を真っ赤にして慌てて手を振り払った.


 「そんなことばかり言って,いつも僕には稽古をつけてくれないし……今日は,お客様がいるんですからね! しっかりして下さい!」

 「んー? 客? 飲み屋と借金取りの取り立ては誤魔化しておけよって言ったのに?」

 「なーにーが,飲み屋に借金取りよ!」

 「ひっ!」

 

 クヴェラは振り返って思わず悲鳴を上げた.

 怒りのオーラに包まれたシノノメが,憤怒の形相で仁王立ちである.


 「どうしてレベル92で,借金まみれなの!? 普通にレベル上げしてたらお金なんて半自動的に貯まって来るじゃない! まさか,全部使っちゃったの? クエストもろくにせずに,遊んでるんじゃないでしょうね!?」

 「あ,シノノメ.久しぶり.一緒に呑む?」


 シノノメの抗議など馬の耳に念仏,といった鷹揚な口調でヴァルナは杯を差し出した.


 「そんなんだから,子供たちが……」

 と,シノノメが言いかけたところで,ドヤドヤといかつい男たちがキャビンに入って来た.


 「嬢ちゃん,ちょっとそこどいてくれ.先に用があるのは俺たちの方なんだ」

 お腹が大きく,茶色い耳と太い尻尾が生えている.タヌキ人だった.

 「やあ,カウラギリにパルバット」

 ヴァルナは右手を上げて呑気に挨拶した.

 「やあ,じゃねえ! ヴァルナ,今日と言う今日は借金返すポン!」

 「そーだ,そーだ!」

 パルバットと呼ばれたイタチ人が同調した.

 タヌキ人は手に下げた通い帳を出して,ヴァルナに突き付けた.

 「どうだ! しめて十万イコル!」

 「あー,ほんとだ」

 ヴァルナは目を細めて数字を確認した.

 「でも,無いものは払えないね」

 「くっそおおおお! 先生,お願いしますポン!」

 ぬっと後ろから現れたのは,猿人ならぬ人猿ワーエイプだった.

 「おお! ハヌマーンだ!」


 他の客席から声が上がる.

 ハヌマーンはカカルドゥアでも有名なフリーの戦士・冒険者だった.

 長い尻尾を持った大柄な金毛の人猿で,額には金の輪をつけ,ズボンを穿いている.インド風の孫悟空という様な風貌だ.実際,インドの猿神ハヌマーンは中国に渡って孫悟空になったという伝説があるのだが,それを思い出させる.

 赤い顔に丸い目で,戦士とはいうものの,どことなく愛嬌を感じさせた.

 ハヌマーンは手を組んで指をボキボキと鳴らした.


 「ヴァルナ! 返せないなら体で払ってもらうぞ! 魔石の採掘場で強制労働だ! 引きずってでも連れて行くからな!」

 「そーだ,そーだ! 強制労働だ!」

 タヌキ人とイタチ人がハヌマーンの後ろから叫んだ.


 「へー.俺に勝てると思う?」

 退屈そうだったヴァルナの眼に,鋭い光が走る.


 「ウギ! いくらレベルが高くても,クエストと稽古を怠る者に,実戦勘が保てるものか!」

 ハヌマーンは赤い顔をさらに真っ赤にして言った.


 「ふーん.そういうもんかな」

 「俺と勝負しろ! 一度お前とはカカルドゥア最強の座をかけて,手合わせしたかったんだ! なのに,お前は武術の競技会には出ないし,戦争には参加しないし,聖堂騎士の寺院に行ってもいつも留守だし……」


 ハヌマーンはよほど悔しかったらしい.ブツブツと文句を言い続けていた.


 「へー,じゃあ,どこで勝負する?」

 「今,ここ……!」


 ハヌマーンがそこまで言ったところで,ヴァルナの体は宙に舞っていた.

 低いとはいえ二メートル以上あるキャビンの天井すれすれを跳んでいる.

 

 「ぐへぇ!」


 ハヌマーンの顔にヴァルナの踵がめり込んでいた.

 ヴァルナは空中で体を折りたたんで一回転し,飛び後ろ蹴りを放ったのである.


 「こ,これしき!」


 咄嗟にヴァルナの踵をつかんだハヌマーンだが,空中で体を捻ったヴァルナの右足がさらに顔を捉えていた.背足――足の甲が左の頬を打った.

 思わずハヌマーンは手を離した.


 「ひゅううう……」

 ヴァルナの口が風を切るような音を立てる.

 小さなつむじ風が起こった.

 ハヌマーンは後方に吹っ飛ばされた.

 タヌキ人とイタチ人,そして椅子とテーブルが押しつぶされ,物が壊れる音がする.何人かの客も下敷きになっていた.


 「く,くそっ! 素明羅に行って修業した,俺の通臂拳を喰らえ!」


 ハヌマーンは慌てて起き上がり,長い腕を鞭のように使って拳の乱れ打ちを放った.

 しかし,ヴァルナは再び鳥人とでも言うべき跳躍力を見せた.ハヌマーンの頭上を飛び越えて背中側に回り,身を屈めて足を払った.


 「うがっ!」

 「ふんぎゃっ!」


 再び倒れたハヌマーンに,またも哀れな借金取り二人組が下敷きになってしまった.盛大に物が壊れる.ユーラネシアではある意味水晶よりも貴重なガラスの窓は割れ,皿がひっくり返り,料理は壁に飛んだ.

 引き続き攻撃を迎撃するため,ヴァルナは縄跳びの様に縦にジャンプしてステップを踏んでいる.


 「こらっ! ヴァルナ! いい加減にしなさい! お猿さんが可愛そうでしょ! 折角モフモフなのに!」


 シノノメが怒ると,ヴァルナはステップをやめた.再び眠そうな目になる.


 「えーっ? 先に手を出したのは,こいつらだぜ?」


 「あっ! ヴァルナ様が女の人の言う事を聞いた!」

 ヴァルナと同席していた猫人の少女が叫んだ.

 「ほんとだ! ちょっと,あなた,ヴァルナ様とどういう関係よ?」

 今度は羊人の娘がシノノメに絡んできた.

 「ちょっと待って,この子,左の薬指に指輪してるわ! まさか,ヴァルナ様! 不倫? え? この子とまさか,結婚!?」

 兎人の娘が金切り声を上げる.

 「もー,面倒くさいな! そんなんじゃないって!」

 シノノメは頭を抱えた.ドロドロした男女関係が大嫌いなのだ.


 「おい,待て,俺との勝負はどうなった!」

 復活して再び立ち上がったハヌマーンが怒鳴る.


 「行け,行け! リベンジマッチだ,ハヌマーン!俺はお前に千イコル賭けるぞ!」

 「俺は二千イコルだ!」

 大騒ぎではやし立てる酔っ払いの客達.

 キャビンの外,デッキの上の客まで見物にやって来た.船上は大騒ぎ,滅茶苦茶である.


 「むーっ,しかし,さすがヴァルナだポン.先生,勝てますか?」


 カウラギリがハヌマーンの後ろにそそくさと隠れながら尋ねた.


 「素手対素手にこだわったからな……武器を使えば行けるはずだ!」


 ハヌマーンはアイテムを取り出した.黄金の棍棒が現れる.金属の柄に球状の先がついていて,球には金剛石の魔石が象嵌してある.

 それを見てヴァルナの顔には不敵な笑いが浮かんだ.戦闘を楽しんでいるのだ.自分はナイフを手にしようともしない.観衆はどよめいた.

 

 「ヴァルナ様……無謀ですよ! それに,聖堂騎士団は私闘を禁じて……」


 クヴェラの言葉に耳を貸すヴァルナではない.再び縦にジャンプするフットワークを始めていた.


 「カウラギリ,本当に勝てるかな.ヴァルナの奴,随分余裕だぞ」

 「……そうだ! あれを使うかポン?」

 「大丈夫なのか?」

 「アメリアの商人は,絶対間違いないって言ってたポン」


 獣人商人のヒソヒソ話の通り,二人の戦士の様子は随分対照的だった.終始口元に笑みを浮かべるヴァルナと,額に汗を浮かべているハヌマーン.ハヌマーンには戦士として容易ならざる相手なのが分かっているのだ.


 「えーい!」


 ハヌマーンは金剛棍で突きを打ち込んだが,ヴァルナはジャンプしてひらりと躱した.そのままハヌマーンの頭を踏みつけ,背中側に飛び降りた.


 「やあ!」


 さらに車掛かり――体ごと棒を振り回して,背後のヴァルナを薙ぎ払おうとしたハヌマーンだったが,あっさり躱されたためバランスを崩してひっくり返った.

 再び獣人二人をハヌマーンの巨体が押しつぶす.観衆はどっと笑った.


 「ウキ……何たる屈辱! 人猿の俺より素早いなんて!」

 「せ,先生! ちょっと失礼!」


 唸っているハヌマーンの口を,イタチ人パルパットが小さな手で無理やりこじ開けた.すかさずカウラギリは腰に下げていたがま口財布から楕円形の粒を取り出す.粒は半分が白と赤で,現実世界でいうところの薬のカプセルとそっくりだ.


 「飲むポン!」


 カウラギリにカプセルを口の中に押し込まれ,ハヌマーンは思わずゴクリと大きな音を立てて飲み込んだ.


 「うぐぐ……?」


 ハヌマーンは胸を押さえながら立ち上がった.

 観衆――特にハヌマーンの勝利に金をかけた人達が手を叩いてハヌマーンに歓声を送る.


 「頑張れハヌマーン!」

 「負けるなよ!」


 だが,ハヌマーンの様子が変だった.何か苦しそうにも見える.愛嬌のあった丸い目が充血し,赤い顔が紫色を帯び始めた.

 体が膨れ上がる.見る見る間にハヌマーンの体は巨大化し,ふさふさの毛並は硬い剛毛に変化した.キャビンの天井の梁をへし折り,天板を突き破り,屋根を壊す.


 「うわあっ!」

 「何だこりゃ!?」


 ギャオオオオオオオオオオオオ!

 

 声にならない声でハヌマーンが吼える.

 そこには,黄色い牙をむき出しにした一頭の巨大な魔猿がいた.

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