第82話 14-5 忍びよる悪夢

 ノルトランド対素明羅スメラ最後の決戦――北東大戦最後のステージ。

 国王ベルトランは不正なシステム介入が発覚し、自身のアバター管理プログラムが暴走、モンスターに変化した。

 ノルトランド最高位の騎士ランスロットと素明羅最強の戦士主婦シノノメが力を合わせて倒したが、二人とも重傷を負った。その後、塔の崩壊に巻き込まれて二人ともゲームオーバーになった。

 

 これが公式の発表である。

 あとから祥子グリシャム璃子アイエルもテレビの特集番組を見たが、見事に編集されていた。

 ランスロット対シノノメの戦いは無かったことになって、いきなり移動要塞の塔が崩れ落ちていた。

 グリシャムが最後に目撃した壮絶な戦いは、仲間だけが知るところとなっている。

 ネットで真実を拡散させてやろうか、と一時考えた祥子だったが、それではシノノメの記憶の事をどうするかという事になる。それは璃子と二人だけの秘密にしていた。


 「なかなか見事な編集だったな」

 塚原セキシュウがグラスを傾けながら言った。

 「でも、あれじゃ、あんまりです。サマエルの事やシノノメさんの必死の戦いも……ランスロットさんやベルトランさんの最後も……みんな身を挺して戦ったのに」

 酔っ払って目つきが怪しくなった祥子の代わりに、璃子が言った。

 「そうだな、全員が現実世界の体――脳が傷つくことも厭わず戦った」

 塚原が頷く。


 「で……この後は、もちろん俺が話すべきでしょうね」

 ユグレヒトが塚原の後を受けて口を開いた。

 「俺は、惑星マグナ・スフィア――仮想現実ですが――を運行するスパコン、那由多の開発チームの一員です。あ、もちろん、チートはしてませんよ、一切」小暮はそこまで一気に話すと、ビールを一口飲んで喉をうるおした。「実は……一昨日、ソフィアに問いただしました。サマエルとは、何なのか、隠していることはないか、と。あ、一応、ハードは巨大――皆さんご存じの通り、ビル一棟並みのでかさがあります――なのでチェックに時間がかかりましたが、故障はありませんでした」


 「ソフィア? あれは、シノノメさんの話だけではないのか?」

 カゲトラが尋ねた。


 「那由多の人工知能に、仮につけられた名前なんですよ。叡智ソフィアってね。女性の人工音声で会話ができます。もっとも、直接手入力の方が便利なので俺たちはそっちばかり使いますし、普段はソフィアさん、なんて話しかけませんよ」

 「俺にメールを送った、エルフの女王エクレーシアというわけだな」

 日高アルタイルが身を乗り出す。彼は文句を言っていた日本酒の味が気に入ったらしく、お代りをグラスに注いでいた。

 「それで、結果は?」


 「知らないそうです」

 「……知らない?」

 「そんなはずないだろう」

 「本人、っていうのも変なのかな。『サマエルはVRMMOゲーム;マグナ・スフィアの審査・運営システムです』っていう紋切り型の返事が返ってきました。人工知能の開発者としては、‘嘘をつく人工知能’というのは喜ばしい事なのかもしれません。人間に近づいたってことですから」


 「量子コンピュータ回路と擬似生体ニューロン回路の塊だが、ついに人間並みか」

 塚原が嘆息した。


 「いや、それで質問を変えました。目下、サマエルについて自分で処理できない問題があるか、と。これについては、『はい』と言いました。だが……『現在解決を試みています』とも回答したんです」


 「解決? シノノメさんの事かな。シノノメさんにサマエルを倒すように依頼していることを差しているのかな?」

 璃子は首を傾げた。

 

 「随分曖昧な言い方をするんだね。人工知能が誤魔化しているのかな?」

 服部が小暮でなく璃子の方を見ながら尋ねた。

 

 「ええ……機械のくせに、ものすごく曖昧にしか答えないんです。実は、俺、‘シノノメ’のことか?ってズバッと訊いてしまいました」

 「おお! それで何と?」

 一同がどよめく。

 「回答は、『それだけではない、もう一つのシーケンスを現在処理中です』でした」

 「うーむ。ほとんど禅問答だな。だが、暗に認めたということか。サマエルに関わる手に負えない問題が発生しており、シノノメが解決方法であると」

 塚原が腕組みして唸った。

 

 「もう一つ何か解決の方法って、何だろう? だが、ベルトランとヤルダバオートが引っかき回したせいで、今ノルトランドは大変なんだぞ。専制君主がいきなりいなくなってしまっただろ。群雄割拠で完全な戦乱状態になった。特に、殺人マニアのガウェインが暴れまくってる。ほとんどモンスターだよ。今度鎮圧部隊を編成しなきゃ、って仲間で話しているところなんだ」

 「おお、俺も手伝いに行こうかな。参戦するでござるよ!」

 陽斗フレイドの言葉に、長尾カゲトラが答えた。


 「……だが、問題はそれだけではなさそうに思う。今朝のニュースを見たかね?」

 塚原が額に皺を寄せ,一言一言に注意する様に言った。

 「と、いいますと?」

 「合衆国アメリカの、共和党の大統領候補が息子に撃ち殺された」

 「それが、どうかしたんですか?」

 突然話が時事問題になったので、ユグレヒトが戸惑いながら尋ねた。

 「息子さんはまだ十二歳だそうだ。だが、直前までVRMMOマグナ・スフィアをプレーしていたらしい。 逮捕後の発言内容は……表向きになっていないが……『現実世界を変える』、だそうだ」

 「え!」


 一同が一斉に押し黙った。

 ノルトランド軍に戦闘奴隷――戦奴にされたプレーヤーの事を連想したのだ。

 生産系ののんびりしたゲームが好きだったはずのプレーヤーまで、脳内麻薬の虜になって敵を殺すことに喜びを感じていた。

 それに、ヤルダバオートがベルトランを洗脳し、ランスロットを操っていたという話も祥子グリシャムから聞いている。また、ヤルダバオートと‘デミウルゴス’という存在が度々口にしていたのは、‘現実世界の改変’であった。

 こういった知識がなければ、ただ銃社会アメリカで起こった痛ましい事件としか考えなかったかもしれない。


 「この一カ月ほど、変な事件が続きすぎる。中東強硬政策をとるフランス与党の有力者が殺害された。内乱の続く中国の北東軍区の代表が死亡。中東の過激派国家、マフディー自由連盟の代表が空爆で死亡。あまり公表されないが、どれもマグナ・スフィアのプレーヤーが関わっている」

 セキシュウの言葉が重々しく響いた。


 「あ、沖縄の米軍基地の司令官がやっぱり息子さんに殺されたっていう事件がありました!」

 璃子が声を上げた。


 「うん、あれも息子は熱心なマグナ・スフィアのプレーヤーだったらしいな。ただし、アメリア大陸のプレーヤーだが……」

 陽斗が頷く。


 「アメリアじゃ、プレーヤー同士で戦闘ばっかりやっているからな。銃火器を装備して、殺し合い、騙し合い、化かし合いの連続。おまけに金を積めば強い装備の買い放題だ」

 日高アルタイルが苦笑しながら言う。

 日高はVRMMOマシンを二台持っていて、アメリアでもユーラネシアでもプレイしている。機械が高価な事と、それぞれの大陸で出来るゲームの性質があまりにも違いすぎるので、一般的にはそんなことはしない。

 「たまに参加ログインすると、あまりの殺伐さにこう……毛先までヒリヒリする感覚というか、火傷しそうな危険な雰囲気というか……」


 「うわ、えげつないな……うわさには聞いているけど……」

 にゃん丸――服部が顔をしかめた。


 「というか、ゲームの目的そのものがいかに相手を効率よく皆殺しにするか、なんでしょう?」

 一児の父だという長尾も深刻な表情だ。


 「オークション制だし一度販売された武器は再生産されないけど、生物兵器や化学兵器も売られてる。俺も毒ガスで窒息する体験をしたことがあるが、ぞっとしたよ。あと、胸を鋼鉄のパイルでぶち抜かれて、苦しみながら死ぬ体験をしたかな。痛みや苦しみも我慢の限界まで伝わってくる。ログアウトして、思わず生きていることを疑ったくらいだ」

 言いながら日高は自分の胸を撫でた。


 「日高さん……そんなゲーム、よくやりますね」


 「全てはスリル、刺激に飢えているってことなのかな」

 日高の言葉に、全員が顔色を青くした。


 「私たちがユーラネシアでやっているクエストの目的はアイテムを手に入れたり、ダンジョン攻略じゃないですか。そうじゃなくって、アメリアのゲームの目的は直接の生死、命のやり取りそのものなんですね?」

 璃子が身震いしながら質問すると、日高は大きく頷いた。


 「その通り。いかに相手を効率よく大量に殺すかだ。ただ……一か所だけ例外はあるけどな」


 「例外? ああ、俺もそれは何かで読んだことがある」小暮がうなずいた。「ニューヨークのマンハッタン島にあたる場所にある、渇望之塔タワーオブグリードと呼ばれる場所ですね」


 「ああ、あそこは塔の頂上に昇ることが最終目的だ。実質的にアメリアのゲーム・オブ・ゲームス、最終ステージだと言われている。ただ、そこにたどり着くまでがえげつないぜ。ひたすら血みどろで殺しあうんだ」

 

 「悪趣味。露悪的ね」

 祥子が日高を横目でにらみ、杯を空けた。

 

 「まあな。塔の頂上に上がった者はどんな願いも叶う、なんて噂もある。だが、あれじゃ、実際の戦争に行った人間のように、精神をやられる人間もいるかもしれない――戦争神経症、っていう奴だっけ、なあ、グリシャム?」

 

 祥子はプイッとそっぽを向いて日高の質問を無視した。

 

 「祥子さん、どうかな? 最近、VRMMOゲーム後に問題を起こして病院に来院する患者さんはいないかな?」

 日高の質問を受け、塚原が尋ねた。


 「……北東戦争の直後に、実は一時的にどっと増えたんですよ。不安神経症や、不眠症の人たちです。戦奴に限らず、ノルトランド軍の兵士や素明羅軍の人たちまで。調剤の時に患者さんに少し話を聞きました」

 目元が赤いが、流石に自分の専門分野の質問にきちっと答える祥子だった。ただし、塚原の言葉限定らしい。日高は少し怒っていた。


 「今のところ、昔のテレビゲーム……といっても、みんなには分からないかな……の頃の、ゲームのやりすぎは頭によくない、目が悪くなる、程度の話で済んでいる。だが、そのうち、これは大変な事になるかもしれない」

 「塚原さんがわざわざ来られて言いたかったことは、それですか?」

 「うむ……まず一つ。第六世代のナーブ・スティミュレータに切り替えるのは待ってくれ」

 「え、俺、もう予約しちまった」

 日高が少し慌てて言った。

 

 「どうも、おかしい。第六世代に切り替えるのに熱心なのは‘サイナップス’社なのだが,やり方が妙に強引すぎる。脳波・脳磁場のセンサーがより優れているというのだが……」


 「ライバル社だからということではなくて?」

 服部が思わず尋ねたが、璃子には何のことか分からなかった。


 「ふふ、そうだな。そして、小暮君から聞いた通り……それが、サマエルという得体のしれない物を倒すための方法でもあるという事だが……シノノメを、どうか助けてやってほしい。力になってやってくれ」

 塚原は、深々と頭を下げた。

 

 「ちょっと待て、セキシュウ。それは、頼まれてする事じゃないぜ。あいつが今困っているなら、俺たちは全員そのつもりだ。だが、それを頼むなら……シノノメは、どうなったんだ? どこにいるんだ? それに、何故ここにいない?」

 日高の言葉は、そこにいる全員の気持ちを代弁していた。

 

 シノノメに、会いたい。

 誰よりも優しく、仲間想い。

 誰よりも強く、感情豊か。

 一緒に戦い、一緒に泣いて笑ったかけがえのない友人なのだ。

 

 「いや、そもそも、永劫旅団アイオーン時代から、あいつにオフ会で会った事がない。ランスロットとヴァルナは知ってるぜ。会ったことがある。カタリナは……会ったことはないけど、事情は知ってる。お前、シノノメについて何か知ってるのか?」

 

 全員の真剣な眼差しを受けて黙っていた塚原だったが、不意にジャケットの胸ポケットを探り始めた。


 「ああ、返事が来た」

 携帯端末のカードを取り出し、何かを確認した。メールを見ているようだ。

 「多分、君たちにそれを聞かれると思っていたんだ。……ふむ」

 老眼に関係なく、網膜に投影するシステムである。端末を横から見ても字は見えないので、セキュリティ的にも安全だ。

 「なるほど。いや、失礼」


 何の返事だろうか。だが、これで質問に答えてもらえる……全員がそう期待した。だが、口を開いたセキシュウの言葉は全員を落胆させた。


 「すまない。今は、その質問すべてには答えることができない」

 「そんな……」

 璃子と祥子はうなだれた。

 「だが、一つだけ答えることはできる。シノノメは今、カカルドゥアにいるらしい。今朝ようやく分かったそうだ」


 おお、という声が湧いた。


 「ヴァルナのところかな? 何しに?」

 日高が首をかしげる。

 「ヴァルナって、カカルドゥア最強の戦士ですよね?」

 璃子が尋ねた。

 「風の紡ぎ手ヴァルナ……聖堂騎士パラディンの筆頭だよ。でも,シノノメさんが商業大国に、何の用なのかな」

 服部が璃子の質問に張り切って答える。頬が赤いのは、酒のせいばかりではない。

 「誰かと戦っているのか……」と陽斗。

 「カカルドゥアで、サマエルに関する何かが起こっているのかもしれない。ソフィアにもう少し食い下がってみるかな。」

 小暮が腕を組んで唸った。

 「武士カゲトラとしては助けに行きたいが……ヴァルナというのは、どんな奴なんですか? 日高さんは会ったことがあるってさっき言ってましたよね?」

 「うーん、そうだな、チャランポランな奴だ」

 日高が苦笑しながら答えた。


 「あなた以上にチャランポランがいるんですか? それはナイと思います」

 「グリシャム、お前、何でそんなに俺に突っかかるんだよ!」

 「アルタイルさん、その、高飛車な態度がナイからですってば!」

 二人は睨みあいを始めた。

 真面目な雰囲気が台無しである。

 「まあまあ祥子さん、次は久保田の千寿を頼んだから機嫌を直してください」

 塚原が取りなそうとした。

 「はいっ! ああ、大人の魅力……もう、歳の差二十歳以上でもいいかしら」

 「馬鹿じゃないか。どうせクリスマスも一人だろ」

 「なにーっ! その、‘俺はどうせもてるんだ’的な態度が嫌なのよ!」

 

 その後、酔っぱらった祥子が日高を追いかけまわし始めたので、塚原の話は何となくうやむやになってしまった。

 

 長尾と服部は早めに帰らなければならない。特に、服部は終電――リニアの名古屋着最終便に間に合うように帰る必要があった。

 二人とも,特に服部は名残惜しそうに去って行った.

 こうしてオフ会はお開きになったのだった。


 「じゃあ、またな」

 「さようなら」

 それぞれが三々五々別々の方向に散って帰っていく。


 塚原は来た時と同じように、黒いレクサスが迎えに来た。が、すぐに乗り込まずに暫らく辺りを見回していた。


 「ほら、逸見さん、大丈夫?」

 ふらふらしながら歩いている祥子を支えながら、璃子はJRの駅に向かおうとしていた。

 「璃子ちゃん、二次会行こう! 二次会!」

 「私、未成年だよ?」

 「どうせ地元で泡盛飲んでたんでしょ? 大丈夫、大丈夫!」

 「大丈夫じゃないよ! 明日、朝早く起きなきゃ!」

 「えー、いいじゃない! 日曜日だよ」

 「駄目よ! ほら、シャンとして!」

 ぺちぺち、と璃子は可愛く祥子の頬を叩いた。


 「お二人さん、良ければ車で送って行こうか?」

 塚原は見るに見かねて、という様子で声をかけた。


 「あー、セキシュウ様……」

 「ど、どうもすみません。お願いしてもいいですか?」

 二人はセキシュウと一緒に後部座席に乗った。

 本革張りのシートに、体が沈みこむ。

 璃子が運転手に行き先を告げ、車は静かに走り出した。


 「……実は、君達二人だけになるのを待っていた」

 「え?」

 「ふにゃ?」

 祥子は璃子の肩に頭を載せて眼を半開きにしている。


 「実は……さっき私が受け取ったメールのことなのだがね。明日……シノノメと会える」

 「ええっ!」

 流石の祥子も飛び起きた。

 「シノノメさん、シノノメさんに会えるんですか?」

 塚原は黙って頷いた。


 「どうして、私たちだけ?」

 「それは……君達が、一番の親友だから……かな」

 それだけ答えると、塚原は黙って瞑目した。

 喜ぶ祥子をよそに、何故か不安になる璃子だった。


  ***

 

 翌日、璃子は指定された場所に来ていた。


 国立医学研究法人、神経精神医療研究センター附属病院。


 巨大な研究所と、それに付随する病院がそびえ立っている。


 メディカルツーリズム――進んだ医療を受けるため、海外から多くの患者が日本に訪れていた。

 他人からの臓器移植に大きな制限を設け、ロボット手術に制約を設け、新生児の死亡事故を許さず、患者の受け入れ拒否を許さず――医療者側に過酷な要望を求め、ガラパゴス化した日本の医療は逆に高度な技術的発達を生んだのだ。


 iPS細胞とそれによる細胞移植治療、組織工学による臓器再生。

 超絶技術を持つ医師たちによる、世界トップの成功率を誇る手術。

 異常に発達した急性期医療、生殖医療、新生児治療。


 そもそも、二十世紀の後半、特に日本の外科医療はすでに世界でトップレベルだった。歪んだマスコミのせいで、さも欧米の方が進歩している印象が国民に流布されていたが、アジア人の方が白人より圧倒的に器用なのである。

 欧米の病院の、外科チームのトップは多くがアジア系だ。箸を使う民族は、生まれた時からピンセットを持つ練習をしている――と、白人の外科医は羨望と揶揄を込めて言う。

 また、明確な‘一神教の神’を持たない日本人のモラルは、ヒト受精卵由来であるES細胞の実験利用を許容し、遺伝子の改変に対する抵抗を持たなかった。その結果、極めて高度な遺伝子治療が可能となった。


 都内のこの施設にも、欧米や東南アジアから来た富裕層と思しき見舞い客がたくさん歩いていた。

 今日は日曜日なので、救急外来しか開いていない。

 病院など普段来ないので、勝手がわからない。

 璃子はきょろきょろしながら、休日診療を待つ患者の間を抜けて中に入った。

 見ると、祥子が長椅子に座っていた。

 「お待たせ、逸見さん」

 「ああ、璃子ちゃん……」

 少し厳しい表情だった。

 どうしたの、と聞こうとしたときに、後ろから声がかかった。

 「やあ、二人とも、お待たせしたね」

 塚原だった。今日は少し体の調子が悪いのか、杖を突いている。

 「昨日は、大変お見苦しいところをお見せいたしました。本日は宜しくお願い致します」

 祥子は年長者らしく、礼儀正しく挨拶した。

 昨日とは全く違う態度に,璃子は妙な胸騒ぎを覚えた。

 「いやいや、私も久しぶりに楽しかったよ。それでは、さあ、行こうか」

 微笑しているが、どことなく寂しげだ。

 塚原の隣に立って、祥子も歩き始めた。

 ――二人とも、病院慣れしている感じがする――逸見は職場、塚原は患者としてなのだろうが、こんな迷路のような建物の中を、よく間違えずに歩いていくものだ……そう思いながら、璃子は後を追う形で歩いた。

 塚原の歩みはゆっくりなので、それに合わせて歩く。祥子は敢えて彼の体に触れないが、気遣っている様子が分かる。


 エレベーターに入り、塚原は三階のボタンを押した。

 集中治療室(ICU/HCU)と書かれたガラス張りの病棟を左に見ながら、右に曲がる。

 祥子はずっと無言だった。

 自動ドアが開き、独立した区画に入った。

 特殊な治療を行っている場所――というのが、一目見てわかる。璃子はテレビなどでしか見たことがないが、集中治療室の中よりもはるかに多い機材が並んでいるのが分かった。

 眼が大きくてほっそりした、三十歳くらいの女性看護師が歩いてきた。

 「こんにちは、塚原さん」

 「こんにちは、夏木さん」

 「先生に、お話は伺っています。中にどうぞ。今なら、特に処置はしていませんから……」

 塚原は会釈して、無言のままさらに奥に入った。祥子、璃子の順に続く。

 

 「さあ……」

 塚原が、立ち止まった。

 壁も天井もすべて真っ白のその部屋には、一床のベッドが置いてあった。

 点滴台で、液体の入ったプラスチックの袋が揺れている。

 枕元では、心電図や呼吸のモニタだけでなく、何か特殊な機械とモニタが並んでいる。璃子には全く用途が分からないものだ。


 「シノノメ、グリシャムさんとアイエルさんだ」

 塚原は、静かにベッドの上に声をかけた。

 ベッドの上には、一人の女性が眠っていた。

 長い睫毛に、亜麻色の髪。

 透けるように白い肌と、すんなりと伸びた腕。

 マグナ・スフィアの中で何度も会ったシノノメそのもの――正確には、シノノメの姉と言った方がよいのかもしれない――そんな容貌の女性が、昏々と眠っている。


 「こ、これは……?」

 璃子は呟いた。

 「シノノメさん……?」

 女性は目を閉じたまま、開かない。緩く胸が上下している。

 「これは、一体!?」

 璃子は祥子の方を振り向いた。

 「逸見さん……?」

 まるでこれを予想していたかのように、祥子はうつむいて目を伏せていた。

 「塚原さん、これは、これは……そんな、嘘でしょ? どういうこと?」

 「璃子さん、彼女こそがシノノメなんだ」

 「シノノメさん……?」


 シノノメ――ゆいは、安らかな寝息を立てていた。

 璃子の声が決して届かない、深い眠りの中だった。

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