第81話 14-4 戦士の休息

 「うーっ。寒いなあ。みんな、もう来てるかなあ」

 璃子りこはダウンジャケットの襟を立てて道を急いだ。

 南国生まれに都会の寒さは辛い。

 目黒銀座商店街の一角にある居酒屋風レストランが目的地である。

 二十一世紀の半ばになっても、この辺りは昭和の風情、下町の雰囲気を残していた。

 「あ、もう来てる。誰かな?」

 店の前に女性が立っている。白いコートを着た、髪の長い女性だ。

 女性も璃子に気付いた。

 「アイエル! 璃子ちゃん!」

 「グリシャム! ……今日は、逸見さん! ごめん、ちょっと遅れた?」

 「寒いね! 大丈夫、まだそろってないよ。フレイドとユグレヒトはもう中に入って待ってる。私、幹事だし、場所が分からない人がいたらいけないからここに立ってたの」

 「じゃあ、私も一緒に。しばらく待ってるね」

 アイエル――石嶺璃子いしみねりこは、グリシャム――逸見祥子いつみしょうこの隣に立った。

 「もう少し早く着くはずだったんだけど、本屋さんで思ったより時間がかかって」

 璃子は書店の青いビニール袋を見せた。

 「何の本?」

 「これ……」

 璃子は本を袋から取り出して見せた。

 「竜崎光彦の、新刊だよ」

 竜崎光彦は、有名なミステリ作家である。リアルな人間描写と、緻密なストーリー構成が人気のベストセラー作家だ。

 「ああ……凄い人気じゃなかった? だって、竜崎さん、自宅で倒れたんでしょう? 命も危ぶまれたとか……ニュースになってたね。その作品が、下手をすると最後の作品になるかもしれないって」

 「もともと体が丈夫じゃない人らしいけど、今回は脳の病気だとかいう話だし……ファンとしては不安なの。どうしても手に入れたくって」

 「それはそうだね。アリだと思います」

 璃子の言葉に、祥子もうなずいた。

 「ところで逸見さん、今日は仕事は早くに終わったの? 病院の薬剤師さんはいつも忙しいんでしょう?」

 「終わったんじゃなくて、終わらせたの。すべての残業はキャンセル。ふっふっふ、この日に賭けてましたから」

 「すごい気合いだね。それで、眼鏡もしてないんだ」

 「昨日はエステに美容院。さらにバイオコンタクト、ゆるふわワンピース装着の完全武装です」

 レーザー視力矯正手術は長期経過で合併症が出る人間が出たため、二千五十年現在でもそれほど普及していない。コンタクトレンズと眼鏡はいまだに使われている。そのかわり、コンタクトは装着可能時間が長くなっており、眼科に行けば48時間程度で分解される生体素材のコンタクトレンズを装着してくれる。

 「セキシュウさんに会えるから?」

 「ふっふっふ、そんな分かりきったことを。璃子ちゃん、クリスマス前に私はゴールインよ!」

 祥子は燃えていた。

 「あたしなんて完全にいつもの格好だよ。……クリスマスか……そうか、もうそんな時期なんだね」

 璃子は街を歩くカップルとイルミネーションをを眺めた。

 「……シノノメさん、どうしてるかなあ。まさか……今日は来ないよね」

 「……あれから一か月だね」

 祥子はうつむいた。

 自分の伴侶パートナーの記憶がない――崩れ落ちるベルトランの塔の中、そう言って泣いていた姿を思い出す。

 なんて残酷なのだろう。

 愛する気持ちがあるのに、愛する人の記憶がない。

 そんなことがあり得るのだろうか。

 そんな不思議な状況になったことはないので想像するしかないが……

 どれだけの不安、どれだけの恐怖なのか。

 それまでの自分の生活や、記憶そのものが揺らいでしまったのではないだろうか。

 それは本当の記憶なのか?……と。

 自分に何ができるのか分からないが、そばにいて寄り添ってあげることくらいしてあげたい。

 もうただの他人とは言えないくらい、シノノメに関わってしまったから。

 仮想現実の世界ではあるが、彼女との友情は間違いない本当のものだ。

 

 だが、あれ以降マグナ・スフィアにログインしてメッセンジャーでメールを送っても、シノノメには全く連絡がつかなかった。

 既読にもならない。

 気付いていないのか、それとももうログインしていないのか。

 今、どこで何をしているのか。


 「シノノメさん……会いたいな」

 祥子は呟いた。

 「会いたいね……」

 璃子も白い息とともに呟いた。


  ***


 「あのー。すみません。オフ会の会場って、ここでいいですか?」

 ダークスーツを着たサラリーマン風の青年が声をかけてきた。

 「あ! はい、あなたは……?」

 祥子は携帯端末を取り出し、出席者リストをチェックした。

 青年は猫背で、人がよさそうだ。髪があちこち跳ねている。

 実直そうなその様子をしばらく見ていた璃子は、ある名前を思いついた。

 「……もしかして、にゃん丸さん?」

 「あ、はい……そうです。あなたはもしかして……?」

 「アイエルです。いろいろ助けてもらって、ありがとうございました」

 「あ、いや、その、服部です。初めまして!」

 にゃん丸――服部は真っ赤になった。

 「服部さんは名古屋から来られたんですよね? メールでは来られるかどうか微妙っていうお返事でしたけど、遠くから、お疲れ様です!」

 祥子は端末のメーラーソフトを見て言った。

 「いや、ええ、その、リニアに乗れば一本ですから……」

 服部はちらちらと璃子を横目で見ていた。


 服装にはあまり頓着しない璃子であるが、さすがに気になった。ハイネックのセーターにジーンズ、オリーブドラブのアーミー風ダウンジャケット。メイクはナチュラルもいいところ。あまりにボーイッシュなので驚いているんだろうか。


 「どうぞ、中へ。逸見の名前で予約してありますので」

 「あ、はい……どうも……」


 カラカラ、と音を立てて引き戸を開け、服部は店に入って行った。

 服部は戸が完全に閉まって外に声が漏れないことを確認してから、呟いた。

 「ア……アイエルちゃん、滅茶苦茶可愛いじゃん……」


 「にゃん丸さんって、イメージ通りだね」

 引き戸の外ではそんな服部の呟きを知らない二人が笑い合っていた。


 次にやって来たのは、大柄で眼鏡をかけた男だった。

 カゲトラこと長尾。

 これまたイメージ通りだったので、納得した。建築会社に勤める一児の父だという。

 「今日は、あまり遅くまでいられませんが……」と、とても礼儀正しかったので面白かった。


 その次にやって来たのは、挙動不審な長身の男だった。

 「ちょっと、あなた! 誰!」

 祥子が睨んだ。

 マスクはいいとして、冬だというのにサングラスをつけ、完全に顔は隠されている。さらに、周囲を見回す奇妙な態度。まるで、尾行を気にしているとでもいった態度である。

 男はマスクを少し下げ、ボソボソと名乗った。

 「俺だ……アルタイルだ」

 「本当に? だって、メールの返事は‘行く’で終了だし、本名はどこにも書いてないし。折角見直したのに、また高飛車のアルタイル復活です!」

 祥子の眉が吊り上る。

 「お、お前、絶対グリシャムだろ!」

 アルタイルは道行く人の目を気にしながら、マスクとサングラスをずらして見せた。

 「あーっ! 日高……!」

 璃子が叫びそうになったので、慌ててアルタイルこと日高雅臣は璃子の口を塞いだ。余った左手でサングラスとマスクを元に戻す。

 「くっ……ベタな変装過ぎた。集まりは中だろ? 俺、入るぞ!」

 アタフタと日高は店に入った。

 「むむ、やはり高飛車のアルタイル!」

 祥子は入っていく日高の背中を睨み付けた。

 「ね、ねえ! あれ、そうだよね!?」

 璃子は指差して小声で「……日高雅臣」と言ったが、祥子はプリプリと怒っていた。

 「出席人数を確認するこちらの身にもなってみなさい、っていうのよ」

 「いや、逸見さん、そういう問題じゃなくって……」

 「え? もしかして、璃子ちゃんあんなのがいいの? 全く、あんな男のどこがいいのやら……ああ、セキシュウ様、まだかしら」

 国民的人気俳優も、祥子の手にかかっては身も蓋もないのだった。


 そんな祥子の言葉に応えるように、黒塗りの高級ハイブリッド車がゆっくり二人の前に止まった。

 電気自動車に比べてハイブリッド車は値段が高い。山道を上がるなど特殊な利用方法を想定している人間や、よりパワーのある車が好きな人間が購入する’嗜好品‘だった。

 国産とは言えレクサスの最高級モデルである。車の窓にはスクリーンが張られているため、中の様子は窺いしれなかったが、よほど裕福リッチな人間が乗っているに違いない。


 キターッ! というグリシャムの心の叫びはさておき、運転席のドアが開いて長身の男が歩いてきた。

 がっちりとした体躯に短く刈り上げられた短髪。耳には小型携帯端末を装着している。ナビと携帯電話、無線、ブラウザ機能があり網膜に投影する機械である。


 「つ、塚本さんでいらっしゃいますか?」

 うわずる声を抑え込み、極力上品かつ可愛らしい声で祥子は尋ねた。

 「いえ、違います。こちらが‘素明羅スメラのオフ会’の会場、あなたは逸見さんでよろしいでしょうか?」

 「え、ええ……」

 男は車に引き返し、後部座席のドアを開けた。


 キターッ!キターッ!キターッ! マジ? 運転手つき!?

 お母さん、祥子を見ていて! 私、頑張るよ!

 祥子の脳内で花火が炸裂した。ちなみに、祥子の母は健在である。


 が、次の瞬間彼女の眼は点になった。

 男の手を借りながら後部座席から出てきたのは、白髪の老人だったのだ。

 

 老人、といっては言い過ぎかもしれない。六十代の後半と言ったところだろう。

 だが、体が不自由らしく、動きがぎこちない。

 白髪をオールバックにした、目つきの鋭い男である。

 若い頃はさぞかし精悍な男だっただろう。テーラーメードのジャケットを着ている姿は背筋がまっすぐ伸び、風格と気品を感じさせる。一見して社会的に高い地位にあることが分かる。

 男はゆっくりと歩いて、祥子の方に近づいてきた。

 白い口髭を動かし、ゆっくりと話した。


 「今晩は。塚原――セキシュウです。逸見さんですね」


 祥子は立ったまま、ほぼ気絶していた。


  ***


 「それでは、みなさん、この度はお疲れ様でした。乾杯!」

 ユグレヒトこと、小暮の乾杯の音頭で会は始まった。

 店の奥の個室を借り切り、無礼講の宴会である。

 テーブルの上には刺身を中心に焼き鳥や唐揚げ、ソーセージなどが並んでいる。

 幹事のグリシャムは、一人どんよりした雰囲気でビールを口に流し込んでいた。


 「お前は本当に危なかったな。俺とランスロットさんに感謝しろよ」

 「だが、南都攻略の時に俺が気付かなかったら、どうする気だったんだよ?」

 「お互い様だな」

 小暮ユグレヒト陽斗フレイドは以前からの知り合いである。大いに盛り上がっていた。陽斗がふと静かに酒を飲んでいる服部の方に話を振った。

 「それよりも、ノルト側からしたら、にゃん丸さん達の情報収集能力が凄かったよ」

 「いやっ、俺は、そんな、大したことないんで……!」

 にゃん丸――服部は自分に話が振られて驚いた。もともと内気な性格の様である。

 「いやいや、ご謙遜。影の立役者ですよ」ユグレヒトが頷く。「本業は、何をしてるんですか?」

 「名古屋でサラリーマンしてます。いたって普通の、はい。」

 「名古屋からわざわざ! すごいですね! 出張とかじゃなく?」

 焼酎のグラスを持った、まさにアバターのイメージ通りの男――カゲトラ――長尾が言った。

 「いや、いっぺん皆さんに会いたかったので……」

 にゃん丸は本当の目的――璃子を横目で見た。

 璃子はサングラスとマスクを取った日高雅臣の隣で小さくなって座っている。

 沖縄出身の女子大生とは聞いていたけれど、小麦色の肌に緩くウェーブのかかったショートカットの黒髪、印象的な大きな目。ほとんどアバターのままだ。

 本当は彼女と話したかったのに……でも、仕方がないか。これも楽しいしな。

 小さなため息をついて生ビールを飲んだ。


 会は三つのグループに分かれていた。

 盛り上がる男性四人組。ユグレヒト、フレイド、カゲトラ、にゃん丸。

 いつサインをもらおうかと日高の隣で縮こまっているアイエル。

 暗くなって独り酒をあおっているグリシャムと、隣でそんな全員を微笑ましげに眺めるセキシュウ――塚原である。

 上着の下に着ている黒いウェットスーツの様な服は、おそらく高齢労働者が筋力補助に着ているロボットスーツの一種だ。これは、全員見慣れている。

 だが、塚原の風貌には変わっていることが一つあった。白い口髭を蓄えた顔に、無数の人工的な線が入っていることだ。刺青に似ていたが、明らかにそれは装飾的な意味合いの物には見えない。非常に無機的で機械的なパターンである。

 そんなことで、年齢が離れているということもあるが、何となく近づきづらい印象を醸し出していた。


 「……ひどいわ」

 グリシャム――祥子がぼそりと呟いた。

 「だ、だから前に話し方がお爺さんみたいって、言ったじゃない!」

 「璃子ちゃん……恋は盲目なのよ」

 「グリシャムさん……逸見祥子さん,体調が悪いのかね? 大丈夫かね?」

 セキシュウ――塚原が渋い声で静かに話しかける。

 「ああーっ! 話し方まで完全にセキシュウさんだわーっ!」

 「いや、それは本人だからね」

 「もう、こうなったら、呑んでもいいですか!?」

 「……ああ、どうぞ。お構いなく。私も少し頂こうかな。医者にも少しなら大丈夫と言われているから」

 「日本酒行きます!」

 「おい、お前、もう生ビール三杯も飲んでるんだぞ。幹事だろ? そのピッチで大丈夫なのかよ? 大体、日本酒なんて甘ったるくって不味くないか?」

 日高――アルタイルが尋ねた。彼はハイボールをちびちびと飲んでいる。

 「はーっ! これだから、あなたは駄目なのよ。何もわかってない。子供ね」

  祥子は首を振った。人気俳優だろうが何だろうが容赦ないグリシャムである。

 「おい、駄目ってのはなんだ! あと、お前の方が年下だろ!」

 「日本酒か……いいね。メニューを見せてくれないか」塚原はメニューを受け取ってめくった。「……ふむ、いい酒が揃ってるね。だが……この品揃えなら……」

 塚原は店員を呼んだ。

 「すまん、獺祭は磨き三割九分までしかないのかな? ‘磨き その先へ’は手に入るかな? もし無ければ、取り寄せてください。私が驕るから。手数料も払おう」

 店員は慌てて店長に確認に行った。どうやら手に入るようだ。店長がわざわざ挨拶にやって来た。

 「ありがとう」

 「はーっ!」

 祥子がため息をついた。

 「な、なんだ?」

 唖然とする日高。

 「聞いた? ‘獺祭 磨き その先へ’よ。日本酒のドン・ペリニヨンと言われる高級品! 一生に一度口にできるかと言う……ああ、もう、お酒の好みまで完璧! 素敵! ああ、素敵なのにぃ……」

 祥子は宙に向かって叫んだ。

 「そ、そうなのか……?」

 注文した日本酒はほどなくして届いた。

 皆に振る舞われると、透き通る様なその味にしばし会は静かになった。


 「それで……その」

 璃子は十九歳なので、まだ酒が飲めない。セキシュウの顔を見つめた。

 「ああ……この顔のことだろう? アイエルさん……璃子さんだったな」

 セキシュウは優しく笑いながら言った。

 その眼はまさしく、ユルピルパ迷宮で璃子とその弟たちを見つめていた,温かい眼差しそのものであった。

 「それは……」

 言わなくてもよい、とフレイドが口を開きかけた。

 顔に入れ墨を入れているマフィアやギャングに見える老人ではない。何か事情があるのだろうと男性陣は皆遠慮していたのである。

 ユグレヒトは事情を知っているらしく、微妙な表情になった。


 「……脳―末梢神経トランスミッターでしょ」

 酔っぱらった祥子が言った。目が怪しいが、さすがは薬剤師である。


 「さすがだね、祥子さん。その通りだ。私は、筋萎縮性側索硬化症と言う病気でね。運動神経が侵される病気なんだよ」

 塚原はウェットスーツに似た服をまくって見せた。前腕にも幾何学模様がある。良く見ると、それはさらに手の甲にもつながっていた。

 「体内の運動神経が働かなくなっているので――分かりやすく言えば、皮膚の下、体の表面に電気のコード――生体高分子だが――が走っているんだ。だから脳の命令は体の奥ではなく皮膚の表面を伝って走っている。この服は一般の筋力を補助するロボットスーツであると同時に絶縁体になっていて、携帯電話やWi-Fiの電波での誤作動を防いでいるんだよ」


 「すごい……じゃあ、失礼ですが……その御不自由な体で、あの達人級の動きをされていたんですか?」

 フレイドが感嘆の声を漏らした。


 「達人、は恥ずかしいな。まあ、VRMMOは脳で動かすゲームだから、体は関係ないよ。目黒は昔、私の武術の先生がいらした場所でね。普段はこういう場所は遠慮しているんだが、懐かしくって来てしまった。こんな怪しい風体の老人が来るとは思っていなかっただろう。楽しい雰囲気を壊して、すまないな」


 塚原は淡々と話した。

 全員が黙って塚原を見ていた。その落ち着いた風格、物腰。柔らかく、それでいてすべてを見通しそうな理知的な眼差し。そこにいるのは間違いなく素明羅最高の武人、‘まろばしのセキシュウ’だった。


 「ああっ! 素敵! 素敵すぎるわ!」

 祥子は悶えながら三杯目のグラスを空けた。最高の日本酒をほぼ一人占めでぐびぐびと飲んでいる。


 「本当にすまない、あらかじめ言っておけばよかった。ユグレヒト君――小暮君はこの前、私から会いに行ったことがあったね。君はまだ入院していた」

 「あ、はい、あの時はびっくりしました。いや、その体のことでなく……」

 「それは、内緒にしておこうかな? 特に、こちらの御嬢さんたちはびっくりしそうだし」

 塚原は悪戯っぽく笑った。

 

 「あ!」

 その顔を見て、にゃん丸――服部が声を上げた。服部は気づいたのだ。

 塚原信綱。

 元経団連会長、現在日本で最大のIT企業の会長である。携帯端末からスーパーコンピュータ、はてはVRMMOマシンまで、先端機器の開発と生産に関しては国内外有数のトップ企業であった。


 「私、超びっくりしました。まさか、まさか、セキシュウ様がこんな……」半分酔っぱらった祥子がブツブツ言う。「お年を召してらしたなんてぇ!」

 「そ、そこか」

 塚原は目を丸くした。てっきり自分の体か、社会的地位のことを言うのだと思ったのだ。

 「だって私、昨日一日かけて準備してたのにぃ……」

 「あ、いや、祥子さん、あなたは十分素敵だよ。妻に早くに先立たれたから、私があと二十歳若かったらプロポーズするくらいだ」

 塚原は少し慌てて言った。だが、孫娘を慰めているようにしか見えない。

 「うわーん! 二十年前に出会いたかったぁ!」

 祥子は半べそである。日高がたしなめた。

 「おい、お前、いい加減にしろ。酒癖悪いぞ。だいたい、お前二十年前は幾つだ? 小学生だろ? 幼稚園か?」

 「あんたの言うことなんか知らないもん!」

 「お、おい!」

 「あ、あのー、日高さん、サイン貰っていいですか?」

 璃子がおずおずと手帳を差し出した。

 「ほら! 見ろ! これが普通の反応だぞ!」

 「りべかさんへ、って書いてください」

 「りべか? 姉妹か、姪御ちゃん?」

 「うちのオバアです。もうすぐカジマヤー、九十七歳です」

 「はは……お洒落な名前だな。お元気でいて下さいって書いておくよ」

 「ありがとうございます!」 

 璃子は大事そうに手帳を胸に抱き、紅潮して礼を言った。可愛らしい仕草に、服部の目尻が下がって猫の様になった。

 「いやあ、アルタイルさんが日高さんだったなんて。こんなことなら俺も色紙持ってくるんだった。嫁さんが大ファンなんです。俺もコンサートに連れていかれた事がありますよ」

 長尾カゲトラが頭を掻いた。

 「世間的には、秘密にしておいてください」

 「もちろん!」


 再び和やかな雰囲気が戻って来たので、塚原は微笑んだ。 

 「ですが」

 それを断ち切るように小暮が厳しい口調で切り出した。

 「塚原さんがこうして自ら出ていらしたという事は、我々に特別な話があるという事ではありませんか? ……ネットでは話せないことを」


 塚原は再び険しい顔で頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る