第10話 3-2 魔獣と呼ばれるもの
西留久宇土の大地が沈む夕日で茜色に染まっていくのを、シノノメは砂クジラの頭の上で眺めていた。
戦場とは思えない美しだ。
戦っているときはすっかり忘れているが、こうやってぼんやりと――本当は戦闘中にそうすべきではないのだが――ユーラネシアの自然を眺めていると、また頭に引っかかる何かを思い出す。
忘れてはいけないもの。
……何だっけ?
今日の夕方の献立?
明日の朝ごはんの支度?
違う。そうじゃない……
ボエーという霧笛の様な砂クジラの声で、シノノメは仮想世界の現実に呼び戻された。
「シノノメさん? どうかしましたか?」
とんがり帽子の魔女、グリシャムが首をかしげて自分をじっと見ている。金髪がきらきらと夕日に輝いていた。
「……ううん、何でもない」
シノノメはもやもやした感情を追い払うように首を振った。
「さーて、ゴブリン達はあとちょっとだし、いよいよグリシャムちゃんの出番だよ」
「あっ! はい! でも、もう? まだゴブリン達は残っていますよ?」
グリシャムもまた、夢から醒めたように慌てて答えた。
確かに、岩陰や山肌に逃げ込んだゴブリンが震えながら砂クジラが通り過ぎるのを待っている。
「主婦の仕事は何でも同時進行。お掃除しながら料理の支度もしなくちゃ」
シノノメは腰に手をやり、鼻を鳴らした。
「りょ、料理? ……ゴーレムの準備ですよね?」
魔法の土人形がどう料理と関係があるのだろう?
シノノメの作戦はいまだによく理解できない。とりあえず頼まれたことをするだけだ。
グリシャムは大きく膨らんでいた肩掛け鞄から四体の土人形を取り出した。
土人形は小さめの縫いぐるみぐらいの大きさで、頭に亜麻色の毛が1本生えている。
「シェム・ハ・メフォラシュ。大地の精霊ノームよ、かの者を守りたまえ。エメス!」
グリシャムは呪文を唱え、土人形の頭を人差指で押した。
土人形―ゴーレムの額にヘブライ文字、
「ゴーレム隊出発!」
グリシャムの命令を受けると、小さなゴーレムは元気よく丘――クジラの丸い背中を滑り降り、それぞれ別の方向を目指して歩いて行った。
ゴーレムを降ろして白鯨はさらに砂漠の遊泳を続ける。
砂クジラからすれば、全く戦っているという意識もないのだろう。
前方を見ると、ゴブリン操術を使う術者のいる丘まですでに五十メートルほどに迫っている。
亜人軍団はあらかた片づいてしまったが、例の体が動かなくなってしまうという‘謎の術’がある限り、うかつには近づけない。
ノルトランド正規軍の本陣はその後方に待機している。
隊列が大きく乱れ始めているので、シノノメの召喚した砂クジラに明らかに動揺していることが分かる。自分たちを守るはずの前衛、数万のゴブリン軍があっという間に壊滅してしまったのだ。しかも、一人の少女プレーヤーによってである。動揺するのも無理からぬことであった。
「とりあえず、できるところまで近づいてみよう! タンゴ、前進!」
難しいことは考えても仕方がない、
ノノメが元気に命じたとき、突然、大きな衝撃とともに砂クジラが止まった。
ボエー。
砂クジラの鳴き声が若干違う音色になった。何かを嫌がっている感じがする。
シノノメは頭の上に手を突き、鯨の行く手を覗き込んだ。
グリシャムもつられて覗き込んだ。
鯨の顔は見えないのだが、なんだか困っているような目をしている気もする。
「どうしたの?」
シノノメは首を傾げた。
……噂に聞いた術かと思ったが、にゃん丸に聞いたのとはずいぶん様子が違う。
砂クジラの前方に何かがいる。
牛や馬でも、人間でもない。鎧を着こんだ人間に似ていないこともないが、巨大で変な影だ。
その何かがクジラの推進力に打ち勝ち、押し戻そうとしているのだ。
「巨人かな?」
シノノメは目を凝らした。
身長は三メートル以上ある。
しかし、明らかに巨人ではない。
夕暮れの中でシルエットとなり、砂の上に細く長く
それは人間に近い手足のバランスを持ちながら、明らかに異様なフォルムであった。
右腕は巨大なパドルのような形状をしており、左手には巨大な鉤爪が生えている。
頭には四本以上の触覚があり、ねじ曲がった棘を持つ角が複数生えている。
強いて言えばエビやカニ、シャコなどの甲殻類、節足動物たちをむりやり合わせて人間に叩き込んだようなと言えばよいのだろうか。
何の動物でもないような、それでいてあらゆる動物を混ぜたような、禍々しい異形である。
「あれです! あれが、みんなの噂していた魔獣です!」
砂漠の突風に帽子が飛ばされないように押さえながら、グリシャムが叫ぶ。
魔獣と呼ばれた生き物は、甲殻の瞼に甲殻の頬を持っている。ただ眼球だけが人間のそれと同じだった。甲殻の中に埋もれた様な目がぎろりと上に向き、じっとシノノメを見つめた。
‘それ’は、口を開いて人間の言葉を発した。
「やあ、東の主婦」
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