第8話 2-5 魔法使いグリシャム

 「シノノメさん! シノノメさん!」

 砦の歓声がひとしきり静まった後、一人の魔法使いの少女が駆け寄ってきた。

 白い肌に長い耳、金髪のエルフだ。

 西の魔法院の魔法使いの正装、すなわち、黒い魔女の帽子に黒いローブをつけ、手には芽の生えた白い若木の杖を持っている。


 「私です、グリシャムです!」

 「……あー、うん、こんにちは」

 シノノメはしどろもどろになった。

 「もしかして、覚えてないんですか・・・?」

 グリシャムの顔が引きつった。

 「ラージャ・マハール攻略の時に助けていただきました!」


 ……そんな人、いたっけ。

 

 シノノメは、人の顔を覚えることが大の苦手である。

 周りを見るのが下手。何かに集中していると、その場にいる‘だけ’の人の顔が頭からすっ飛んでしまう……と、自分では思っている。

 もちろん、直接話したり一緒に行動すれば覚えられるはずなのだが、特に’人間型’のキャラクターを覚えるのは得意でなかった。


 「いや……イイと思います。ははは、えーと、私はあの時、後衛で存在感がありませんでしたから。それに、ドルイド魔術の研究をしてたので服が違いましたし……。あの後、メッセンジャーで友達申請したんですけど、気付きませんでしたか?」

 

 シノノメは友達申請してもらっても、知らない人のメッセージだと思いこんでほとんど無視していた。顔を覚えていないのだから、当たり前の成り行きと言えば成り行きではある。

 そーっとメッセンジャーを立ち上げる。

 「あ、えーと……最近忙しかったから……この、グリシャムさんね。西のウェスティニアの魔法院所属、はい、友達了承しました」

 「あ、ありがとうございます」

 グリシャムはほっとしたように笑った。笑うと猫のように目が細くなる。


 西の国、ウェスティニアはヨーロッパ西部から地中海沿岸の文化を模した国だ。

 政治体系は共和制で、元老院直下に魔法院という魔法の専門研究機関を抱えている。

 魔法院の魔法使いたちは永遠の学究の徒と言われており、付属の魔法学院の全課程を修了すると、魔法の奥義をさらに極めるため、諸国に遊歴の旅に出るものも多い。

 彼女らはまた、絶対的な魔法の力を持つ戦士でもあった。

 ウェスティニア最強の戦士は、剣を持つものではなく魔法院の頂点に立つもの、というのはユーラネシアの諸国に鳴り響いている。


 「今回は東の軍隊の助勢?」

 「いえ、この前所属していたパーティー、碧の剣歯虎団ブルーセイバーキャッツを脱退して、東方の魔術を勉強するための旅の途中だったんです。この関所を通るときに、ちょうど戦争が起こって巻き込まれてしまいました」


 そもそも西留久宇土シルクウト砦は戦闘用の要塞というより、素明羅の入国審査場である。

 本来この砦の広場は、入国審査を待つ者の待機場で、普段は空港の免税店よろしく市場や土産物店で賑わっている。

 様々な種族の交流の場であり、東方と北方をつなぐ西方山脈回廊を旅行するときの重要な中継地点でもあった。

 西方回廊は砂漠が多く、木もまばらで森が少ない。水場があり、休憩できる場所は貴重なのだ。

 今回のノルトランドの宣戦布告はあまりにも唐突で、非戦闘職の一般プレーヤーや民間人のNPCまで巻き込まれてしまっているのだという。

 

 グリシャムが説明していると、後ろから日本風の甲冑をつけた人虎ワータイガーがやって来た。

 虎人ではなく、人間の体格をした虎の種族である。

 虎に変化する能力を持ち、戦闘に適しているため戦闘職志向のプレーヤーが選択することが多い。


 「シノノメ殿、駆けつけて頂いてありがとうございます。素明羅軍一同を代表してお礼を申し上げます。あ、グリシャム殿はお知り合いでしたか。この方には傷ついた兵士を助けていただきました」

 「ちょっと遅かったかな。ごめんなさい」

 「いえ、何をおっしゃいます。あ、申し遅れました、拙者は現在この砦の責任者を務めます、カゲトラでござる」

 カゲトラは深く頭を下げ、胸に手を当てて最敬礼した。


 「初めまして、カゲトラさん」

 シノノメはカゲトラの手を取って握手した。カゲトラは恐縮したが、実はモフモフした手に少し触ってみたかったシノノメだった。


 「いや、えー、三カ月ほど前に斑鳩で皇王陛下の御前で一度お会いしたかと……あの時は確か財務のお仕事で功績を表彰されておられた」

 カゲトラが言いにくそうに言った。

 「あ、そうでしたっけ……」

 シノノメは少し横目でグリシャムを見たが、グリシャムは気を使って気付かないふりをしている。


 「おや、雨だ」


 シノノメにとって絶妙のタイミングで雨が降ってきた。

 火竜の爆炎が上昇気流をつくり、雨雲を呼び寄せたらしい。

 空に浮かんだ真っ黒な雲から、大粒の雨が落ちてきた。雨脚は徐々に激しくなり、時折雷鳴がとどろいた。


 シノノメはアイテムの一つ、‘紫の普通の傘’を出してさした。

 「雷が落ちなきゃいいけど」

 「大丈夫だと思います。山の方が高さがあるし、砦に鐘楼もあります。この辺の天気は変わりやすくて、もともと雨の少ない地域ですからすぐに止むでしょう」

 グリシャムは魔法使い帽子のつばに手を添え、雨を避けながら言った。


 「良ければ、これ使ってね」

 シノノメはアイテムボックスの入り口であるエプロンポケットからもう一本傘を出した。

 こちらはハート柄でフリルがついているピンクの傘だ。

 シノノメが使うにしてもグリシャムが使うにしても、ましてやカゲトラが使うにはあまりにも乙女チックすぎる。


 「これは何ですか?」

 「アイテム、‘ちょっと恥ずかしい傘’」

 「そ……それがしは遠慮いたします。グリシャム殿、どうぞ」

 カゲトラが遠慮したので、苦笑しながらグリシャムは傘をさした。

 「シノノメさん、アイテムいくつ持ってるんですか?」

 「……990くらい?」

 グリシャムは絶句した。素明羅皇国で集められる、ほぼすべてのアイテムを持っているのではないだろうか。


 「それよりもこれは恵みの雨です。これでゴブリンどもの火薬が湿って使えなくなります。そうすれば何とか持ちこたえられるかもしれない」

 雨に濡れながら、カゲトラは空を見上げた。

 西の空には晴れ間が見える。


 徐々に雨は小降りになってきた。グリシャムの言うとおり、通り雨だったようだ。

 ごうごうと風が起こり、雲が流れていく。

 やや西に傾き始めた太陽が再び砦を照らし始めた。


 「本国の王様は援軍を送ってくれるの?」

 シノノメは傘を畳んで水滴を払いながら尋ねた。

 素明羅の王――皇王はNPCである。

 何度も会ったことがあるシノノメにとっては半ば友達感覚だった。


 「すでに送ってくださるとの事ではありますが、まだ一日から二日はかかるでしょう。真っ先に転位ゲートを壊されましたので」

 カゲトラは城壁の片隅を指差した。

 落下した巨大な岩石が環状列石を破壊している。ここから旅行者が斑鳩に転移するためのゲートなのだ。いかにもゲーム世界らしく、各国・各地の主要都市はこのようなゲートによって繋がれている。

 

 「魔法職が総出で修理しようとしたのですが、中央の要石に使う魔石が粉々に割れていたので、無理だったんです」

 グリシャムが解説した。

 雨が止んだので‘ちょっと恥ずかしい傘’を返そうとしたが、シノノメに「記念にあげる」と言われてしまったので苦笑しながら肩掛鞄マジックバッグにしまった。

 

 「みんな怪我しているし、大変だね」

 「その通りでござる。初めはこれでも五百人程度の部隊だったのですが……いまでは負傷者を入れても百人程度の戦士しか残ってござらん。幸いこの戦争にたまたま居合わせたというか……巻き込まれてしまった旅行者や冒険者たちが協力して下さってますが……」

 カゲトラは肩を落とした。


 「じゃあ、あれが便利かな」

 シノノメはエプロンのポケットから小型の冷蔵庫のようなものを取り出した。

 「魔法というより……こうなるとほとんど未来から来た猫型ロボットですね……」

 グリシャムが呆気にとられた。

 「中に多分回復のポーションが一升瓶で十本くらい入っているから、みんなで飲んで」


 「おお!」

 カゲトラは冷蔵庫の扉を開けて声を上げた。

 冷蔵庫の中には色とりどりのポーションが並んでいた。

 瓶も大小、透明の物から色つきのものまで様々である。

 ‘回復用’とか‘やたらいい気持になれるやつ’とか、ラベルには何やら気になる書き込みがあった。

 「これはかなり貴重な回復の薬酒ですね!頂いていいんですか?」

 「私も少し飲ませてもらうけど、みんなで分けて。冷蔵庫に入れとけば1週間くらいでまた元に戻るから。……それと、NPCの人にも」


 「えっ?」

 グリシャムは驚いた。

 「それは、確かにポーションはNPCにも有効に作用するかもしれませんが……」

 マグナ・スフィアは高度な人工知能が管理しているとはいえ、NPCは所詮プログラム通りに動く存在だ。

 助けたからと言って恩を返してくれるわけではない。もちろんゲームのストーリー内でそういう設定になっていれば別だろうが。

 合理的に考えて、いくら豊富にポーションがあるからと言っても意味があることとは思えない。


 「怪我してるんだから、助けてあげなくっちゃ。こんな時はお互い様でしょ」

 シノノメはそれがさも当たり前のように言った。


 カゲトラの指示で傷ついた人々が冷蔵庫の前に集まってきた。

 ヒト族、獣人、エルフ、ドワーフ、ハーフエルフ、と雑多な種族が列になって並ぶ。

 口々にシノノメに感謝の言葉を述べ、コップに注がれたポーションを飲んでいった。

 NPCは元気に歩けるようになり、プレーヤーはライフポイントのゲージが回復していく。


 「グリシャムさん……ちゃん? も飲んでね」

 「え? 私はそんなにダメージを受けていないし……いいと思います」

 「カワウソの祭りとか、百十四代とか、有名な薬酒もあるよ」

 「えっ! それでは、後学のために! 頂きます」

 グリシャムはスプリンターを思わせるダッシュで列に加わった。

 涎を垂らしているように見える。相当な酒好きのようだ。


 「いや、みんな息を吹き返すでござる。食糧まで供給して下さった上に、ポーションまで……」

 カゲトラは自分のグラスに入った薬酒をうまそうに飲みながら言った。


 「食糧? 冷蔵庫にそんなの入ってたっけ??」

 「空から唐揚げが降ってきました」

 「飛竜あれ、食べたの!?」

 「少し骨ばっていましたが、ジューシーで誠に美味しかったでござる」

 「お腹こわすよ!?」

 「高温で揚げてあったから、大丈夫でござるよ。また食べたいなぁ」


 ……うーん、ワータイガーの味覚って、おかしいのかしら。

 でも、帰ったらミーアさんに言ってマンマ・ミーアのメニューにしてみようかな。

 飛竜の姿揚げの味を思い出し満面の笑みを浮かべているカゲトラを見て、シノノメは考え込んだ。


 「さて、こほん。シノノメ殿。こちらに来ていただけますか」

 カゲトラは咳払いを一つして、城門の上の櫓につながる階段へと向かった。

 シノノメが後を追うと、若木の杖を脇に挟み、杯を持ったグリシャムが走って戻ってきた。

 少し頬が赤くなっているのは、急いだからだけではないようだ。


 三人は階段を上がり、城壁の上に作られた通路に出た。

 通路は回廊になっていて、ノコギリ型の狭間がついていた。

 回廊の兵士たちは槍を構えて城壁の下を睨んでいる。這い上がってくるゴブリンを槍で突き落すのだが、亜人たちは何度も繰り返し上ってくるので、全員疲れの色が濃かった。

 カゲトラは時折防御の魔法を抜けて飛んでくる矢を刀で切り払いながら回廊を進み、正門の上へと歩いて行った。

 「シノノメ殿が火竜を倒してくださったおかげで、門をこじ開けようとしていたゴブリンの勢いは若干弱まりましたが……」

 「絶望的な状況であることには変わりありません」


 三人の足下、砦の前方に広がる平原には、見渡す限り黒い塊が集まり、蠢動していた。


 「ゲッゲッゲッゲ」

 「グガガガガガ」

 「ケケケケケケケケケ」


 黒い塊は意味を為さない声を上げている。

 もともと黒っぽい地肌に、襤褸切れをまとっているもの。

 人間から奪ったのかもしれない甲冑を身につけているもの。

 精錬度の低い金属の板をからだにくくりつけているもの。

 それは、黒光りする甲虫の群れに似ていた。


 「うわっ! 気持ち悪い!」

 シノノメの二の腕に鳥肌が立った。シノノメは小さいものがたくさん蠢いている様子、要するに虫系の集団が大の苦手である。


 「まるでゴキ……」

 「グリシャムちゃん! そこから先の言葉を絶対に言わないように!」

 シノノメは自分の二の腕をごしごしさすって震えている。

 「うー、気持ち悪い! ぞわっとする! ぞわっとする!」

 「ぞっと、じゃないんですね?」

 「うー、そこじゃないよ。鳥肌が立つ……」 

 「これだけの数のゴブリンが、どこからやって来たのだろう?」

 カゲトラが腕を組んで唸る。

 「それは何となくわかります。ゴブリンの姿かたちは様々ですが、右翼にいるのはモーロック種で、中央にいるのはべスバスパ種です。首のところに黒っぽい球根植物が生えているのはトロウ種。自分の祖母を見るとソファにしてしまうという凶暴な種ですね。どれも、北方の霜降り山周辺に多く生息する種類です」

 グリシャムは’ゴブリン分類学’という魔法の本を取り出して解説した。

 「もともと、ノルトランドは亜人間でデミ・ヒューマン型のモンスターが多い土地柄です。それに対抗するために騎士団が生まれ、軍事大国になったと言われています」

 「ふむ、なるほど。そうか、もとは怪物退治のために編まれた軍隊だったのだな。それにしてもこれだけ大量のゴブリンを集めるとは……」

 「あまり頭の良くない穴居生物ですから、餌でおびき寄せて軍隊に仕立て上げたのかしら。あの辺りの巣には各々数千単位のゴブリンが住み着いていますから、何らかの方法で捕獲して、ひょっとしたら繁殖もさせたのかもしれませんね」 


 敵軍の分析を続ける二人をよそに、シノノメは震えていた。

 グリシャムの言葉から、ゴキブリホイホイにぞろぞろと入っていくゴブリンの姿が頭に浮かんだ。

 「キモーい!」


 「むしろ、この数を統率して操っていることが脅威です」

 「それが、あそこにいる男でござるな」

 カゲトラは遠眼鏡を取り出して覗いた。

 遠眼鏡のはるか先、ゴブリン軍団の向こう側。

 平地の奥になだらかに隆起した丘の上に何者かが立っている。

 砂漠地帯なので、遮るものが無く、よく見えた。


 「うーん、どこ?」

 シノノメもアイテム‘よく見える双眼鏡’を取り出して覗く。


 カゲトラが虎爪の生えた指で差し示した先には、緑色の竜がいた。

 二本足で立つ小型の竜で、背中には鞍が、頭には轡と手綱が取り付けられている。近距離の旅行や農作業に使われるタイプの竜である。

 キリスト教の司祭服に似た濃紺の服を着た男が手綱を握っていたが、顔は面布ですっかり覆われて隠されている。

 面布の下からチューブのようなものが伸びて、背中の背嚢につながっていた。 

 背嚢は面布が揺れるたびに膨らんだり萎んだりを繰り返している。上部にはバグパイプの先に似た筒が飛び出しているので、楽器のように音を奏でてゴブリンを操る技のようであった。


 「あんな楽器みたいので、何万匹も操れるのかな?」

 「犬笛みたいな高周波数の音が出るのかもしれません」

 グリシャムが推測する。

 「それも疑問ですが、問題はこの術者を守る四人の騎士でござるぞ」

 カゲトラの言うとおり、術者は四人の騎士に四方を守られていた。


 ノルトランドの最高位、竜騎士ドラグーンは黒い鎧を身につけているが、彼ら四騎士は青みがかかった銀色の甲冑だった。

 頭にも顔面を完全に覆うフルフェイスタイプのヘルムをかぶっている。

 しかし、甲冑という割には妙にのっぺりしていて継ぎ目がない。

 また、甲冑にはそれぞれの騎士が紋章や凝った装飾を施すものだが、彼らにはそれもなかった。

 彼らは剣を持っていなかった。

 鉾のような形の長柄の武器を持っていたが、その先端には光る宝玉がはめ込まれた輪が付いており、実際的な凶器として使えるようには到底見えなかった。


 シノノメはふと、マンマ・ミーアの常連である黒騎士を思い出した。


 「騎士なのか、魔法剣士なのかわかりませんが……彼らに近づくと、動けなくなるのでござる」

 「私も遠くから見ましたけど、あれは石化ではありませんでした」

 グリシャムがうなずく。


 「そうだ、あれは石化じゃない」

 「にゃん丸さん! 無事だったんだ!」

 シノノメが振り向くと、忍者装束の猫人が立っていた。

 片目には血のにじんだ包帯を巻いている。


 「さっきまで動けなかったけど、シノノメさんのポーションで復活したよ」

 「ギンギン狼男さんは?」

 「ギンガだろ? 残念だけど、やられた」

 にゃん丸は悔しそうな顔をした。ギンガはにゃん丸の盟友である。


 「私たち本体が正面からゴブリンを攻めて囮になっている隙に、にゃん丸殿達忍びの者や騎馬隊など、スピードのある攻撃が得意な者に側面から術者を急襲してもらったのでござる」

 カゲトラが説明した。


 「作戦自体は悪くなかった。奴らに肉薄できたんだから。だけど、ほぼ全滅だった。砦に撤退して来れたのは俺を含めてほんの数名だ。全員ほとんど死ぬ直前だったけど。」

 にゃん丸が左手の肉球を右手で叩くと、ポフッという少し間抜けな音がした。


 「さっき石化でないと言ってましたけど、どんな感じでしたか?」

 グリシャムが羽根ペンと革表紙のノートを取り出して尋ねた。どんな魔法も常に勉強するのが彼女のスタンスらしい。


 「体が動かなくなるんだ」

 「ふむふむ、それは意識はあるんですか?」

 「意識はあるんだけど、……目も見えなくなるし、音も聞こえなくなる。本物の金縛りみたいな感じだな」

 にゃん丸は思い出しながら説明する。

 「あと……メッセンジャーも立ち上がらなかったし、スキルやアイテムのスクロールもできなかった。HPが下がっても絶技も必殺技も発動しなかったし」

 「それは不思議ですね」

 グリシャムは首をかしげた。石化呪文でも、最低限の操作――特にログアウトはできるはずなのだ。

 「VR(バーチャルリアリティ)機じゃなくて、ふつうの固定ゲーム機のゲームとか、携帯端末なんかでいきなり全部電源が落ちるというか、画面が真っ暗になってしまう感覚に似てるかもしれない……まさに、ブラックアウトって感じだよ」

 「そんなに?」

 シノノメが目を瞬かせた。

 グリシャムはにゃん丸の言葉を書き留めると、大判の魔法辞典を広げて調べ始めた。

 「石化、金縛り、不動の術、失神呪文・・・どれにも該当しませんね」

 「あ……そう言えば……一瞬、自分の部屋が見えたような気がする」


 「え?」

 「何?」

 「嘘!」

 思わず三人全員の声が重ね合わさった。

 ゲームの途中で何の予告もなくログアウトするはずないのだ。

 それこそ、プレーヤーの心身に危険が及んだ場合や、家族が無理やりVRMMOの装置を引き剥がしたり――これはニートの息子に両親がやって軽い脳障害を起こし、危険なので社会問題になったことがあった――しない限りは。


 本人の意思で終了する場合には必ず「ログアウトしますか」のメッセージ。

 ライフが尽きて死ぬ時も「ゲーム・オーバー」の表示。

 ゲーム機がずれて、プレーヤーとの接触が悪くなった場合には「ゲーム機との接触不良です。半覚醒状態になりますので、再度確認してください」のメッセージが出るはずである。


 「そ……それはナーブ・スティミュレータの性質上、ありえナイと思います」

 「いや、それは一瞬なので俺の気のせいかもしれませんけど」

 「未知の魔法でござるか。しかし、うかつには近づけないな。近づかずに、さらにこの大量のゴブリン達を倒す方法が必要でござろう。かといって、前回の奇襲のときのように兵隊がいないので正面で陽動作戦をするわけにもいかない」


 「つまりは、まず、手前数万のゴブリンとオーク軍勢を切りぬけ、さらに遠隔攻撃でこの4人の剣士を倒し、さらにさらにゴブリンを操る術者を倒さなければならないんですね」

 グリシャムが攻撃の重要なポイントをまとめた。


 「あと、付け加えれば奥には例の謎の魔獣が控えてる」

 「うむ……それを倒してやっと正規軍の陣地でござる」

 「これは……不可能な作戦だと思います」

 カゲトラ、にゃん丸、グリシャムの三人はため息をついた。


 「駄目よ! あまり時間がないもの!」

 シノノメだけは元気に言った。

 「私、用事があるから早くログアウトしなくちゃいけないの」


 「ええーっ! それはますますまずいのでは!」

 シノノメがいなければ、防戦もままならない。カゲトラは黄色い顔を真っ青にした。


 「だから、イッキにやるよ! 主婦は無駄が嫌いなんだから!」


 「いや、シノノメ殿、いくら何でも一気は……小さいところからコツコツと……」

 カゲトラが体に似合わず地道な提案をした。


 「ゴキブリは! あ、言っちゃった! うー! ぶるぶる、一網打尽よ! そして、怪しい奴と魔獣はドカーン!」

 「シノノメさん、何を言っているかわからナイです」

 「グリシャムちゃん、得意の魔法は何? 杖からすると土と水? 東洋的には木土水?」

 「は……それは、そうですけど……」

 「ちょっとだけ力を貸して。それと、ゴブリンの中に一緒に突撃できる人集めて!」


 「え? あの中にでござるか? いや、まあそれは回復した精鋭を集めて編成すれば、一時突破は可能ですが……」

 間違いなくその後すぐに数万の亜人に蹂躙される。その言葉をカゲトラは飲みこんだ。

 シノノメの発想とその力は、自分の考えの及ばないところにある様だった。


 「門の前から少し離れたところで、魔方陣を展開させる時間をちょうだい。必要なのは20秒くらいだと思う。」

 「魔方陣?」

 「召喚魔法を使うの!」

 「シノノメさん、召喚魔法もできるんですか!?」

 グリシャムが驚いた。シノノメの魔法使いとしての自由度は、自分を遥かに超えている。いや、この様子からすると、西の魔法院の最高位であるマギステル・クルセイデルすらも越えているのかもしれない。


 「主婦は、ペットの世話も得意よ!」

 「ペット……!?」


 「き、斬り込みには、俺も参加するよ! シノノメさん! ギンガの仇を取るんだ!」


 不安を拭いきれない表情の一同の中で、シノノメの瞳だけが明るく希望に燃えていた。

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