第二章 爆炎の主婦
第4話 2-1 斑鳩(いかるが)の都
シノノメはゆっくり目を開けた.
マグナ・スフィア;ログイン
視界の中にメッセージ画面が浮かび上がる.
気付くと緑の絨毯に横たわっていた.天井がぼんやりと見えてくる.
仮想世界へのログイン時に目を開けていると,酔って嘔吐感を感じる人間がいる.ログイン酔いと呼ばれている現象だ.
網膜から入る光景と後頭葉に直接送られる電気信号の景色が混線するために起きるものと言われている.
目の前の光景が,急激に後方に流れていくように映る.これが‘スーパードライブ’とか‘ワープ’みたいで好きというプレーヤーもいるらしい.
シノノメは別に酔うわけではなかったが,かと言って好きでもないので,ログインの瞬間にはいつも目を閉じることにしていた.
目を覚ますように異世界に降り立つ感覚が気に入っている.
顔にはらはらと色とりどりの花弁が降りかかってきた.
天井からつるしてあるドーナツ状のハンギングガーデンの花びらが散っているのだ.
白,薄紅色,桜色,萌木色,浅黄色.
シノノメの体に降り注いでいる.
床に触れると,細かい結晶になって空気の中に溶けて行く.
シノノメのマグナスフィアの「家」である.
家の中に小さな庭園があり,灌木やふわふわの苔が生えている.横たわっていたのはこのふわふわの苔の上である.足で踏んでも程よい弾力が帰ってくる.まさに天然の絨毯だった.
東の国,
斑鳩は扶桑樹と呼ばれている巨大な木の上に作られた都市である.高さは8000メートル以上.浮遊石を用いて枝から枝に橋渡しされた地面の上に町が建築され,また幹には水や琥珀を採取する鉱山や宮殿が作られている.
シノノメの家はほぼ最上部,雲の上から飛び出した木の梢付近にあった.
巨大な木の実をくり抜いた家は楕円形をしており,壁の半分は透明水晶の結晶でできている.快晴の青い空の下に雲海が見えた.
部屋の一角には豪華なペニンシュラキッチンがあり,この辺は流石に主婦と言うべきだろうか.
「ふあぁあ」
伸びを一つして体を起こし,前回のログイン時に置いておいたバスケットの中を覗いた.
バスケットの中にはピンク色のクッションがあり,その上には灰色と白の縞模様の卵が置いてある.卵の表面にうっすらとひびが入っているのを発見した.
「わわ!そろそろかも!」
シノノメは手をゆっくり卵にかざし,ほんのりとした熱を送った.卵のひび割れが大きくなってくる.
ペキペキと音がして卵の中から動物が顔を出した.
「みぃ・・・」
その小さな動物はまだ開かない目のままで,ゆっくりと頭を殻の外に押し出して鳴いた.
銀灰色と白の縞の子猫である.
子猫はゆっくり卵から這い出し,体をぶるぶると振ってからよちよち歩いた.
「可愛い~」
シノノメは思わずため息をついた.
これが前回ラージャ・マハール迷宮で手に入れた卵の正体であった.
肩甲骨の上に小さな羽根がついている.空飛び猫だ.
成獣になると子猫からライオンほどのサイズに自由に大きさを変え,持ち主を背中に乗せて運ぶ珍獣中の珍獣である.ケット・シー(猫の王)の近似種と言われている.
空飛び猫はゆっくり目を開けてシノノメを見た.
鳥と同じで,生まれて最初に見たものを母親と認識するという.
「こんにちは」
空飛び猫は差し出したシノノメの指を舐めた.
「名前を考えなきゃね,えーと.羽根があるから,アイヌ語の
空飛び猫は「気に入った」と言うように,「にゃあ」と鳴いた.
まだ幼獣で空が飛べないので,そっと両手で包むように抱きかかえ,エプロンの胸ポケットに入れた.
「そうだ,ミーアさんに見せに行こう!」
シノノメは出かけることにした.
ミーアは東の主婦ギルド,マンマ・ミーアの
扶桑樹の第10層にカフェというか,レストランというか,食堂のようなもの―要は団員のたまり場なのだが―を経営している.
シノノメは単独行動が多く,正式な団員と言うよりも客分という感じで自由に出入りしていた.それを許しているのもミーア団長の気風の良さである.
水晶の窓を開け,外のテラスに出てエレベーター代わりの転送魔方陣に入った.
「十層へ」
呟くや否や,あっという間に十層の街の中央広場に立っていた.
十層は唐破風の構えを持つ家が多く,神戸や横浜にあるような日本式洋館も建っている.現代の日本で言えば倉敷と鞆の浦の景観地区を混ぜたような街並みに設定されていた.
「あ,主婦さん!どうもっス!」
転位魔方陣を出るとすぐ,一人の忍び装束の猫人が挨拶してきた.猫人の隣の狼人も会釈する.シノノメは斑鳩では大層な有名人なのだ.
「こんにちは.主婦さんじゃなくってシノノメだよ,えーと,にゃんにゃん……にゃん吉さんとワン丸さんだっけ?」
「ひどいなあ,って,毎度のことか.にゃん丸ですよ.こっちはギンガ.本当にシノノメさんは名前を覚えるのが苦手ですね」
にゃん丸はため息をつきながら名乗った.
これで自己紹介は何回目だろう.シノノメはどういうわけか名前と顔を覚えるのが飛び切り苦手だ.だが,全く悪意が無いことはにゃん丸もわかっていた.名前が苦手というだけで,にゃん丸がにゃん丸であることはきちんと認識してくれているのだ.
「ごめん,ごめん,にゃん丸さん.友達と二人で今から
二人が武器を持って戦支度をしているのに気付いた.
「え?知らないんですか?シノノメさん.ノルトランドが宣戦布告してきたんですよ」
ギンガと呼ばれた狼人が答える.狼人はワーウルフと違って人に姿が近い.尻尾と耳が生えていて,所々に銀の獣毛が生えている.
尻尾を振りながら話しているので,興奮しているようだ.
「ノルト,北のノルトランドが? 戦争に行くの?」
ノルトランドは軍事大国で,黒の竜騎士と呼ばれる戦闘集団を抱える帝国である.ユーラネシア大陸の中でも,戦闘を好むユーザーが多く集まっていた.
「ええ,経験値稼ぎに.レベル上げて名前も上げてきます.今国境の
「へえ……」
「シノノメさんは行かないんですか?」
「うーん,戦争ってなんだか好きじゃない」
モンスターとの戦いや一騎打ちではないプレーヤー同士の集団戦闘は,ファンタジーじゃない気がする.
「なるほどですね,それじゃ,俺たち行ってきます」にゃん丸とギンガはうなずき,シノノメと入れ違いに転位用魔方陣の中に入った.手を振って消えていく.
扶桑樹23層の気球港に向かったのだろう.
大都市間の移動はゲートを使うのが便利だが,辺境の街への長距離移動は
そういえば,何だか町の中があわただしい.シノノメは辺りを見回して思った.
戦争になれば,物資の流通が盛んになり,特に軍需物質の生産が盛んになる.護身のために武器を買い求める人間も出るだろう.
でも,殺伐としたのは嫌いだ.
何で北のノルトランドは戦争なんて始めるんだろう.
クエストや決闘,冒険では満足できないのだろうか.戦争ごっこをする男の子の発想だな.
シノノメはため息をついてミーアの店に向かった.絨毯に横たわっていた.天井がぼんやりと見えてくる.
仮想世界へのログイン時に目を開けていると,酔って嘔吐感を感じる人間がいる.ログイン酔いと呼ばれている現象だ.
網膜から入る光景と後頭葉に直接送られる電気信号の景色が混線するために起きるものと言われている.
目の前の光景が,急激に後方に流れていくように映る.これが‘スーパードライブ’とか‘ワープ’みたいで好きというプレーヤーもいるらしい.
シノノメは別に酔うわけではなかったが,かと言って好きでもないので,ログインの瞬間にはいつも目を閉じることにしていた.
目を覚ますように異世界に降り立つ感覚が気に入っている.
顔にはらはらと色とりどりの花弁が降りかかってきた.
天井からつるしてあるドーナツ状のハンギングガーデンの花びらが散っているのだ.
白,薄紅色,桜色,萌木色,浅黄色.
シノノメの体に降り注いでいる.
床に触れると,細かい結晶になって空気の中に溶けて行く.
シノノメのマグナスフィアの「家」である.
家の中に小さな庭園があり,灌木やふわふわの苔が生えている.横たわっていたのはこのふわふわの苔の上である.足で踏んでも程よい弾力が帰ってくる.まさに天然の絨毯だった.
東の国,
斑鳩は扶桑樹と呼ばれている巨大な木の上に作られた都市である.高さは8000メートル以上.浮遊石を用いて枝から枝に橋渡しされた地面の上に町が建築され,また幹には水や琥珀を採取する鉱山や宮殿が作られている.
シノノメの家はほぼ最上部,雲の上から飛び出した木の梢付近にあった.
巨大な木の実をくり抜いた家は楕円形をしており,壁の半分は透明水晶の結晶でできている.快晴の青い空の下に雲海が見えた.
部屋の一角には豪華なペニンシュラキッチンがあり,この辺は流石に主婦と言うべきだろうか.
「ふあぁあ」
伸びを一つして体を起こし,前回のログイン時に置いておいたバスケットの中を覗いた.
バスケットの中にはピンク色のクッションがあり,その上には灰色と白の縞模様の卵が置いてある.卵の表面にうっすらとひびが入っているのを発見した.
「わわ!そろそろかも!」
シノノメは手をゆっくり卵にかざし,ほんのりとした熱を送った.卵のひび割れが大きくなってくる.
ペキペキと音がして卵の中から動物が顔を出した.
「みぃ・・・」
その小さな動物はまだ開かない目のままで,ゆっくりと頭を殻の外に押し出して鳴いた.
銀灰色と白の縞の子猫である.
子猫はゆっくり卵から這い出し,体をぶるぶると振ってからよちよち歩いた.
「可愛い~」
シノノメは思わずため息をついた.
これが前回ラージャ・マハール迷宮で手に入れた卵の正体であった.
肩甲骨の上に小さな羽根がついている.空飛び猫だ.
成獣になると子猫からライオンほどのサイズに自由に大きさを変え,持ち主を背中に乗せて運ぶ珍獣中の珍獣である.ケット・シー(猫の王)の近似種と言われている.
空飛び猫はゆっくり目を開けてシノノメを見た.
鳥と同じで,生まれて最初に見たものを母親と認識するという.
「こんにちは」
空飛び猫は差し出したシノノメの指を舐めた.
「名前を考えなきゃね,えーと.羽根があるから,アイヌ語の
空飛び猫は「気に入った」と言うように,「にゃあ」と鳴いた.
まだ幼獣で空が飛べないので,そっと両手で包むように抱きかかえ,エプロンの胸ポケットに入れた.
「そうだ,ミーアさんに見せに行こう!」
シノノメは出かけることにした.
ミーアは東の主婦ギルド,マンマ・ミーアの
扶桑樹の第10層にカフェというか,レストランというか,食堂のようなもの―要は団員のたまり場なのだが―を経営している.
シノノメは単独行動が多く,正式な団員と言うよりも客分という感じで自由に出入りしていた.それを許しているのもミーア団長の気風の良さである.
水晶の窓を開け,外のテラスに出てエレベーター代わりの転送魔方陣に入った.
「十層へ」
呟くや否や,あっという間に十層の街の中央広場に立っていた.
十層は唐破風の構えを持つ家が多く,神戸や横浜にあるような日本式洋館も建っている.現代の日本で言えば江戸時代の中期から明治初期にかけて――倉敷や鞆の浦の景観地区を混ぜたような街並みに設定されていた.
転移魔方陣の円が並ぶ転移ゲートの‘駅’である中央広場は,どことなく銭湯の脱衣所に似ていた.板張りの地面に,短距離転移用の魔方陣の円がずらりと脱衣籠よろしく並んでいるのだ.板張り部分の上には簡素な屋根があり,くるくるとシーリングファンが回っていた.
「あ,主婦さん!どうもっス!」
転位魔方陣の円を出るとすぐ,一人の忍び装束の猫人が挨拶してきた.猫人の隣の狼人も慌てて会釈する.斑鳩の町でシノノメを知らない者はいない.転移ゲートに並んで移動待ちをしていたプレーヤー達がシノノメの登場にざわめいた.
「こんにちは.主婦さんじゃなくってシノノメだよ,えーと,にゃんにゃん……にゃん吉さんとワン丸さんだっけ?」
そんな周囲の様子にシノノメの方はあまり気にしている風もなく,軽く頭を下げたと思うと首をかしげて考え始めた.
「ひどいなあ,って,毎度のことか.にゃん丸ですよ.こっちはギンガ.本当にシノノメさんは名前を覚えるのが苦手ですね」
にゃん丸はため息をつきながら名乗った.
これで自己紹介は何回目だろう.シノノメはどういうわけか名前と顔を覚えるのが飛び切り苦手だ.だが,全く悪意が無いことはわかっていた.名前が苦手というだけで,にゃん丸がにゃん丸であることはきちんと認識してくれているのだ.にゃん丸は主婦ギルドの経営するカフェの常連で,これまで何度かシノノメに会ったことがある.
「あ,そうか.ごめん,にゃん丸さん.友達と二人で
シノノメは二人が武器を持って
「え? 知らないんですか? シノノメさん.ノルトランドが宣戦布告してきたんですよ」
ギンガと呼ばれた狼人が答える.狼人はワーウルフと違って人に姿が近い.尻尾と耳が生えていて,所々に銀の獣毛が生えている.
「すげえ,リアル主婦さんだ」
ギンガは尻尾を振ってベロを出しながら話している.その様子は狼と言うより犬のようで,有名人シノノメに会えて興奮しているのだった.
「ノルト,北のノルトランドが? 戦争に行くの?」
ノルトランドは軍事大国で,黒の竜騎士と呼ばれる戦闘集団を抱える帝国である.ユーラネシア大陸の中でも,戦闘を好むユーザーが多く集まっていた.
「ええ,経験値稼ぎに.ていうか,
「えーと?」
シノノメは視界の隅にメールソフト‘メッセンジャー’を立ち上げてちらりと観察した.確かに最重要のタグがついたメールが届いているようだ.だが,メールをいちいち開けてチェックしないシノノメは気にしていなかった.
「俺たち,レベル上げて有名になってきます.今国境の
「へえ……」
「シノノメさんは行かないんですか?」
「うーん,戦争ってなんだか好きじゃない」
モンスターとの戦いや一騎打ちではないプレーヤー同士の集団戦闘は,ファンタジーじゃない気がする.
「一緒に戦うって,苦手だし」
シノノメはかつて一度だけ
「うーん.そういうもんかな.ま,とにかく,それじゃ俺たち行ってきます」
にゃん丸とギンガはうなずき,シノノメと入れ違いに転位用魔方陣の中に入った.手を振って消えていく.
扶桑樹23層の気球港に向かったのだろう.
大都市間の移動はゲートを使うのが便利だが,辺境の街への長距離移動は
そういえば,何だか町の中があわただしい.シノノメは辺りを見回して思った.
戦争になれば,物資の流通が盛んになり,特に軍需物質の生産が盛んになる.護身のために武器を買い求める人間も出るだろう.
でも,殺伐としたのは嫌いだ.
何で北のノルトランドは戦争なんて始めるんだろう.
クエストや決闘,冒険では満足できないのだろうか.戦争ごっこをする男の子の発想だな.
シノノメはため息をついてミーアの店に向かった.
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